※嘔吐注意
人気の無い、星だけが光ってる晩だった。そんなに広い訳ではない島であるだけに遠くから波の音が聞こえてる。
崩れたコンクリートの壁に片腕をつけて身体を押さえながら葉はよろよろ、ふらふらと歩いていた。
その顔は暗闇では解りにくいが、異常に白い。
脚の力が抜けて膝から地面に着いた。次いで四つん這いになって転倒を防ぐ。その拍子に、胃から逆流するものがあった。
喉を酸が通過し、焼けるように痛い。
力無く開いた口からぼたぼたと重力に従って落ちた。
それが何度目だったのか、数えることすら出来なかった。部屋に戻って休むことも考えたが、葉以外にも蓮やホロホロたちがいる、あの宿に戻りたいと思えず、むしろ近寄りたくないとすら考えている。
戻すモノすら無い故に胃液だけがはい上がってきたが嘔吐するその行為だけでもそれなりに体力を奪われた。
しばらくは、動きたくもない。
手に力を振り絞って身体を起こし、尻を地面に着ける。横にある煤けた壁に身体を預けて細く、長い息をその口から漏らす。
目を閉じるとどっと疲労感に襲われた。
呼吸をするだけでも、今の喉はヒリヒリと痛みを訴える。吐いた息以上に慎重に空気を吸い込んだ。
シャーマンファイトの本戦が始まった。
島にはここまで勝ち残り、たどり着いたシャーマンだらけで、今日行われた試合も相俟って、ぴりぴりとした緊張感を伴う巫力がそこかしこから感じられる。それに気付く度にまた気分が悪くなった。
少し上を向いて、気道を広げる。
薄く目を見開くと、無意識のうちに瞳に張り付いていた涙が視界をよりぼやけさせていた。
シャーマンファイトを告げる星を見逃さないよう、いつも見上げていた星空にひどく吸い込まれそうな錯覚に襲われた。
上から降り注ぐように葉の名を呼び続けられている気がする。
--―― 葉殿ーーぅ、葉殿ーーぅ
いや、これは……
「阿弥陀丸?」
『葉殿!』
ば、と主人の気配、声を察した阿弥陀丸はキョロキョロとさ迷っていた視線をびたりと葉に合わせた。
ぱちくり、瞬いて瞳に張っていた涙の膜を取り除いた。先程よりはクリアな視界になる。
『急にいなくなったから心配していたでござるよ!!』
「すまんな、阿弥陀丸。」
ドロン、と高速移動で葉の傍らに現れる。
具合が悪そうな葉がそれ以上を遮るように手を挙げたため押し黙る他なかった。
眉根を寄せてぐっ、と堪える友人に悪いとは思いながらも葉は言及を許さなかった。
しばらくして阿弥陀丸は不承不承といった様子を隠しもせずに首を静かに横に降る。
主人の居場所を突き止めた彼は一人で勝手に消え、独りでいたがる葉のために姿を眩ませた。何かあればいつだって戻って来る所存である。別な気配を感じたのも理由の一つであるが、そちらは葉は気付かなかった。
阿弥陀丸の気遣いに有り難みを感じながらもう一度ゆっくり目を閉じた。
穏やかな暗闇はしかし、直ぐに強烈な明るさに襲われる。
ぴくり、と瞼を痙攣させ眉を寄せた葉は少しずつ視界を広げた。
「…………どこに行ったかと思えば」
カチ、と葉の顔に向けていた懐中電灯のスイッチを消す音がした。
ぼんやりと鮮明になっていく視界の中に、座り込んでいる葉を見下ろすようにアンナが立っている。
「どうせ、アンタ一人で抱え込もうとしてるんでしょ」
アンナの言葉が葉の胸を突き刺した。
逃げ惑う原因はまさにそれだった。
聞きたくない、と俯いた葉は片耳を手の平で覆う。
「今日だってそう、アンタはアイツ……ハオと無関係だって言い通せるほど嘘つくの上手くないわ」
「……オイラだって、兄弟とか先祖とか……まだ実感無いんよ」
「あら、そうでも無いんじゃない?」
耳を包む手の指を髪も巻き込みながら握る。
ゆっくりと首を横に振り、否定の意を力無く表した。
「……うそつき」
アンナの声に別な色が混じる。
今はともかく、彼女には他人の心を読み取る能力があった。その頃の葉は胸のうちを読まれ、記憶されている。たまに家族が見せる怯えた顔、一度しか会ったことが無い父――心の奥深くに沈んでいた疑念、それら全てが葉自身に現れるハオの幻影が理由だとしたら、全部納得出来ていた。
「アンナには敵わないんよ」
諦めて手を離し、情けない顔をアンナに向けて上げる。
不意に両頬をアンナの手の平で包まれた。
貯まった涙が瞳をユルユルと潤ませている。アンナの毅然とした瞳を見たくなくて目線を下に落とした。
「言ったら、あいつらをオイラに、麻倉に巻き込むことになる」
頬に宛がわれているアンナのあまり温かみはない手を上から包む。
「あいつら良い奴だから、何かしらしてくれると思うんよ……それが、嫌だ」
アンナの手を掴む。
少しヒンヤリとする温度が優しく感じ、少しずつ吐露してしまう。
「……あいつらには、嫌われたくない」
「……ばか」
スルリと握られていた手をすり抜け葉の頭を包んで胸に抱いた。
もう一度、ばか、と囁いて彼の頭に軽く顔を埋めた。
「アタシは何のためにいると思ってんのよ」
「アンナだって、」
「そんなの、最初から覚悟してるわよ」
何でもかんでも溜め込んで馬鹿じゃない、
どうして小学生だなんて幼い中に許婚が出来たと思ってるの、
葉が背負わなくちゃならない重荷を半分とまでは言えないけど軽くするのだってアタシの役目なんだから、
独りで悩む辛さはアタシが1番知ってるんだから、
「だからアタシを頼りなさいよ」
まくし立てるように言い続けた言葉が葉の涙腺を緩ませる。
されるがままだった葉の腕が未だ悩むそぶりを見せたが、縋り付くように彼女の背を抱きしめた。
「アンナ……胸、当たってる」
「!!……空気読みなさいよおバカ!!!!」
ガバッと離れたアンナの頬が一気に紅に染まっていた。照れ隠しで言った葉の目も赤く腫れている。
お互いその色まで見えはしないが、何と無く察しがついた。
横を向いて視線を反らしたアンナはこれみよがしにため息を吐いて、葉に手を伸ばした。
「……いい加減、帰るわよ」
「…………おう」
伸ばされた手を掴み、立ち上がる。
久々に背筋を伸ばした気がする。見上げた空に一等星から三等星以外の輝きも見付けた。
蓮たちにハオとの関係をカミングアウトしてもきっと大丈夫 なんとかなる
瞼を下ろして深呼吸をしながら帰りの道を歩みだす。
繋いだままの手に、アンナの指が絡まった。
「少し、散歩でもしてから帰ってもいいでしょ」
葉の「なんとかなる」の境地は案外難しい。いろいろ考えて考えて考えて煮詰まってからの「なんとかなる」だ。どうなるか考えても実際その時にならないと分からないのだから、とは言っても最悪から最善までのシミュレーションは頭に過ぎっている。
少し延びた時間が、きっといつもの「なんとかなる」に繋がる。
ゆるい、と評される葉の口癖の実状をアンナが汲み取っていることに嬉しい気持ちが不安だらけだった心を包む。
絡めた指に力を込めた。
アンナの手が次第に温かくなっていく。
「そうだな」
ようやく葉が笑った。
君の事なら直ぐ分かる
それに気付いたアンナも口元に笑みを浮かべていた。
20120912