「あっ、名字っちぃ!!いいところに!!」


そう、嬉しそうな声が聞こえて、思わず振り向いてしまいそうになった身体を意識的に押さえつける。私はそれを無かったことにするように、また手元の本に視線を落とした。背後で葉隠がうるさく喚く。


「ちょ、名字っち、シカトひでーってシカトは!せめて視線ぐらい合わせて欲しいべ!!」
「うるさい。本読んでんだから邪魔しないでよ」
「つめてーって名字っち。ちょっと、ほらちょっとでいいから構ってほしーべ」
「なにそれ、気持ち悪い」
「で、さっきから何読んでんだべ?」


葉隠はそう言い、ふと私の手元を覗きこんだ。顔がすぐそばにきて、身が強ばる。彼のお香のような独特な香りが鼻腔をくすぐった。とたんに頬が熱を持つ。自然と俯く私を気にもとめない様子で、葉隠は私の手にあったハードカバーの小説を節ばった手でひょいと持ち上げた。そして、ページをペラペラめくりながら私の向かいの席に腰掛ける。


「さっきからなに読んでたんだべ?」
「…、小説」
「それは流石の俺でも分かったべ」
「って言うか、返してよ。今読んでたのに」
「それも分かってたべ。だって名字っち相手してくんねぇだろぉ?ほら、クラスメート同士のコミュニケーションってやつだべ。んーなになにぃ…。って、なんだべこのべってべたな恋愛小説……」
「…腐川さんの」
「あー、腐川っちだべか!なら納得だべ。これもバカ売れしたんだろうなぁ…。一体いくら印税が入ったのか、羨ましい限りだべ。つか最近名字っちが読んでた本、これだったんだな。ナゾが一つ解けたべ。名字っち、こーゆーの興味あったんか?」
「…悪い?」
「うおっマジか!めちゃくちゃ意外だべ!!」
「…」
「そんな目で睨まないでほしいべ」


葉隠は頬杖をつき、また少しパラパラとページを捲ると、退屈だったのか本を閉じ、左手に付けた数珠を弄くり始めた。本は腕の下に敷いている。


「…本、返してよ」
「いやだべ」
「…」


鏡を見なくても半目になっているのが分かった。私は、わざとらしく、大げさに溜め息を付くとまた葉隠に視線をやる。
すると突然、食堂の外から地面を揺るがすような鈍く、重い轟音が聞こえた。肩が跳ねる。私は反射的に、食堂の扉の方へ視線をやった。異常は見あたらない。少しして姿勢を戻すと、そこで私は一気に脱力してしまった。葉隠は、本当に楽しそうにニヤニヤと笑っていたのだ。


「…また、くだらないことやったの?」
「んー?ちげーって、俺じゃねーって、俺は…ただ、止めなかっただけだべ」
「何それ、キメ顔のつもり?」
「あーっ!!!葉隠アンターっっっ!!!」


振り返ると、朝日奈ちゃんが食堂の扉のところへ立っていた。怒り心頭、といった様子で、朝日奈ちゃんはドスドスと荒く足音を立てこちらに近付き、一直線に葉隠を掴みあげた。身長差はすごいのに持ち上げてしまいそうな力強さを感じる。


「アンタも覗いたでしょ!!分かってるんだから!!!」
「ち、ちがっ、ちょっ、話を聞いてほしいべッ!!」
「なにッ!?イイワケなんて聞かないよっ!!!!」
「たすけ、名字っちィィィ!!!」
「…朝日奈ちゃん、何かあったの?」
「あ、名字ちゃん!聞いて!こいつらサイテーなんだよっ!!お、お風呂覗いてきたのッッッ!!!」
「だからぁ、違うって朝日奈っちぃ!俺、さっきからずっとここに…」
「言い訳無用ッ!!!桑田が葉隠もグルだって言ってたもん!!!」
「覗きやってたヤツの言葉は信じてんだべな…」
「ってわけで!葉隠も覗いてたの!!さくらちゃんのとこ連れてって一緒に説教してやるんだから!!!」
「頑張ってね朝日奈ちゃん。私応援してる」
「論破してくれよぉ名字っちィィ!!!今なにかおかしい部分があったハズだべ!!!」


葉隠は必死な表情で私を見る。その顔には冷や汗がだらだらと流れていた。説教の内容、もっと言えば大神さんの鉄拳でも想像したんだろう。
私は溜息を付いてから、眉とポニーテールを吊り上げ、ぷんぷん怒っている朝日奈ちゃんに目を向けた。


「…朝日奈ちゃん、葉隠、ずっとここにいたよ。…多分、桑田が嘘付いてる。多分」
「え!うそ!本当っ!?くーわーたぁぁぁ…」
「もっと言えば風呂覗こうって言い出したのも桑田っちだべ!俺は、常識と良識があるから乗らなかったけどなっ!」
「…っていうか!!知ってたんだったら止めてくれればよかったじゃん!!」
「確かに」
「あ…。そこのいいわけは考えてなかったべ!!」
「はぁぁがぁぁくぅれぇぇぇ…」
「えッ!怒る?ここで!?」
「朝日奈ちゃん。…大神さん、放っておいていいの?」
「あ、さくらちゃん!!そう、そうだったぁ…、私、葉隠探してきたら戻る予定だったから…、さくらちゃんも覗き魔と一緒じゃ心配だよね…!!……葉隠は、今回は名字ちゃんに免じて許したげる!協力ありがと名字ちゃん!私行ってくる!!」
「いってらっしゃい。頑張ってね」


朝日奈ちゃんが去っていくと、なぜか、どっと疲れたように感じた。まるで嵐のあとようだ。葉隠は「むしろオーガと一緒な覗き魔の方が心配だべ」とわざとらしくため息をついた。


「いやー、マジで助かったべ名字っち。もーちっとで死ぬとこだったべ。俺の占いと、名字っちに乾杯、だべ!!」
「…ホントに覗いてないの?」
「名字っちは何を見てきたんだべ!!…まあ、リアルな話、俺もさ、正直悩んだんだべ。覗くか覗かないか。まあ、俺の心は大分覗く寄りだったんだべが…」
「クズ」
「止めたんだからその言い草はひどいべ!!まあ実際、ハイリスクハイリターンだべ?失敗は死を意味するべ?そこで俺は占ったんだ…。無事覗きを遂行できるかをな!!」
「それで止めたんだ」
「見事に失敗する未来が見えたべ。俺まだ死にたくはないからな」


葉隠はうんうん、と真面目な顔で頷く。クズが。と私は心の中で吐き捨てる。言っても、葉隠になんのダメージもあたえられないことはもう分かり切っていた。
そんな私に葉隠は抱えていたハードカバーを、もう用済み、と言わんばかりに押しつけ、愉快でたまらないというような笑顔を見せた。


「じゃあ、久々に名字っちと過ごせて楽しかったべ!!俺は桑田っち達からかいに行ってくんべ!じゃあな!」



私の返事など待たず、葉隠はそのまま上機嫌で食堂をあとにした。私はとりあえず本を机の上へ置き、椅子に腰掛ける。食堂には、葉隠が来る以前の沈黙がまた取り戻されていた。
思わず、ため息がでる。葉隠はなんであんなにクズなんだろうか。ハードカバーの表紙へ目をやる。これの主人公は、誠実だ。私の好みのタイプじゃないけど、少なくとも葉隠ほどクズじゃない。真面目だし、素直だし、なにより優しい。葉隠みたいに、自分のアリバイを作るため、私を、私の気持ちを、利用したりなんか、しない。


ため息しか出ない。





(君の本音はどこだ)



2013.11.05
修正,2013.11.13




モドル

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