名字とデートという行為をすることになった。それにあたり、石丸も浮き足立っていなかったといえば嘘になる。


今だって、名字と同じ空間にいれると言うだけで胸が苦しくなるし、とても幸せだ。だが、
石丸は書きかけの数式から視線を上げ、名字を伺い見た。名字はつまらなそうな顔をして、教科書をめくり、ルーズリーフにペンを走らせている。
───だが、やはり、これはデートでは無い気がする。
石丸も予習した。予習に予習を重ねた。兄弟や男子たちから情報収集をし、江ノ島から雑誌を借りたりもした。一通りの辞書でデートと引き、一通りの検索エンジンでデートと調べた。Wikipediaにはこう書いてある。
───デート(英:date)は、恋愛関係にある、もしくは恋愛関係に進みつつある二人が、連れだって外出し、一定の時間行動を共にすること───

「そもそも、僕たちは外出していない。つまり、これはデートではないのだが、いや、勿論家デートというものがあるということも僕は知っているぞ。だが、名字くん。ここ一時間は会話もしていないのだが、果たしてこれがデートと言えるのかね」
「うるさい」
「…すまない。勉強中、だからな」

名字はやはり、ノートから顔を上げもしない。風紀委員として勉強熱心なことはとても嬉しく思うが、恋人としては微妙な心境だ。だが、普段勉強勉強、と言っている自分が、勉強なんてするな、なんて言えるわけもなく。石丸は、名字がちゃんと勉強をしてくれてよかった、と無理やり微笑んでから、再び課題にとりかかった。


──────


個室には、まだシャーペンが走る音だけが響く。ようやく今日やるべき課題を終わらせた名字は小さく息をつき教科書を閉じた。チラリと視線を向けると石丸はまだ参考書に視線を落としている。石丸の課題の量は名字より格段に多い。
その顔はさっきの捨てられた子犬のようなそれではなく、真剣そのものだ。名字は頬杖をつき、石丸をじっと見つめる。
名字は石丸が勉強するところを眺めるのが好きだった。一心に問題を解くキリリとした顔つきは、絶対に口には出さないけど、とても格好いいと思う。絶対に本人には言わないけど。
勉強中はとても集中してるから無遠慮に観察出来るし、他にも小気味いいシャーペンの音とか、少し緊張するような静かな空気感とか、そういうものを全てひっくるめて、名字はこの時間が好きだった。

ふと、石丸のぎょろりとした赤い目が名字の方を向いた。視線が重なり、一秒、二秒、三秒、

「…ッッッ!!?!?」
「なに」

弾かれたように石丸は立ち上がり、ぱくぱくと口を開閉した。その顔はみるみる、茹で蛸のように赤くなっていく。どうしたの、と名字が冷たい視線を投げると、石丸はいっそ泣きそうな顔をして名字を指さした。

「ず、ずるいぞ名字くんッッ!!そんな顔で僕を見るなんて、ずるいッ!!ずるいじゃないか!!!」
「うるさい。勉強しすぎてとうとう頭おかしくなった?」
「僕がおかしくなったとすれば、それは全部君のせいだッッ!!!勉強のせいじゃない!!勉強のし過ぎで頭がおかしくなるなんてことは有り得ないッッ!!」
「…」
「一体なんなんだ君は…ッ!!!久々に二人きりだと言うのにも関わらずずっと勉強して、いや、それは構わないのだが、なのに何故、あんなッ、慈悲に満ちた優しい顔で僕を見るのだねッ!!?小悪魔かッッ!!!」
「お前はいい加減自意識過剰が過ぎる。…小悪魔なんて言葉どこで知ったの」
「雑誌だッ!!僕も意味はイマイチ把握できてはいなかったが今分かった!君を形容する言葉なのだ!!」
「…」

その後もべらべらとしゃべり続ける石丸に名前は心底うんざりした。石丸はなんというか、分からない問題がやっと解けた時のような爽快な表情をしている。きっとこの後は小悪魔という言葉を使いまくるのだろう。名前は思わず舌打ちする。

「…別に、私だって、」

それから続けそうになった言葉を慌てて押し止める。甘ったるいのも女々しいのも自分の性に合わない。それから名字は頭の中で言葉を吟味し、それらしく吐き出す。

「私は仕事であんまり授業には出ないし、石丸が勉強しろって言ってるから、仕方なくやってやってんの。感謝しろ。あと、色々うるさいから永遠に黙ってろ」

その言葉に、石丸は一瞬きょとんとした顔をしたあと、腕を組み眉を寄せ、思慮のポーズをとった。恐らくは後半の悪態は彼の耳には入っていないのだろう。いつもそうだ。名字はまた舌打ちする。少しして、

「それは本当は僕といちゃいちゃしたくてたまらなかったが、僕が勉強しろと言っているからその気持ちを押し殺して仕方なく勉強した、という意味でいいのかね?」

つんでれ、と言うやつか?と石丸は続け、澄んでいるが何を考えているか分からない瞳で名字をじっと見つめた。ポカンとして固まった名字は、しばらくして、気持ち悪いこと言わないでよ、とこぼした。

「勉強が嫌いなわけじゃない」
「…前半部分は否定しないのだな?」
「…死ね」

頼むから死んでくれ。

「否定、しないのだな…?」

石丸の声が上擦って聞こえる。名字は色々煩わしくなって、視線を逸らした。と、座っている名字にのしかかるように石丸がガバリと抱きついた。
風紀はどうしたと嫌味を言いたくなるが、そのあまりにも嬉しそうな様子に名字は毒気を抜かれてしまう。
名字の耳元で石丸がらしくなくクスクス笑う。

「ああ、僕はもう駄目だ。君が愛おしすぎて辛い」
「勉強しろ」
「残りは君が帰ってからやる。今日は存分にいちゃいちゃしようともッ!!もちろん僕は家デートの予習もしてきたぞ!何からする?映画鑑賞かね?人生ゲームかね!?膝枕かねッ!?」
「…」
「心配しないでくれたまえ!膝枕をするのは僕の方だ!!」
「いらない」
「うむ、ならば君が膝枕をする方がいいということかね?それは駄目だッ!!風紀が乱れるッッ!!」
「…滅茶苦茶だな」
「アッハッハッハ!!全く、その通りだな!!君があまりにも可愛いことを言うからだぞッ!!!」
「言ってない」
「時に沈黙とはどんな言葉よりも饒舌に語るものだッ!!」

何を言っても石丸は嬉しそうに笑うばかりだ。暖簾に腕押し状態。それが苛立つし憎たらしい。そして、それなのに本当はあまり嫌な気がしていない自分にも腹が立つ。名字はわざとらしくため息をつき、石丸の肩に頭を預けた。
石丸がどうしてこんなに自分を好きでいてくれるのか、未だに名字は理解することができない。自分が人から好かれるような性格や、言動をしていないことは自分が一番よく分かっているからだ。それは石丸と付き合ってからも、けして変わっていない。
それでもここ数ヶ月で分かったのは、石丸はしばらくは、いや恐らくはずっと、自分のことを好きでいてくれるみたいだということだった。
とんだ物好きもいるものだと、名字は意識して少しだけ笑ってみる。もちろん、石丸には見えないように。でも、いつかはちゃんと石丸の前で笑えるようになるために。
名字は顔を伏せたまま、刻むように言った。

「映画、見よう」
「…ああ!」

その言葉がよほど嬉しかったのか、石丸が名字の髪をワシャワシャと撫でる。その顔は見なくても笑っているのが分かった。
だから、今はこれでいいんだ。今はこれで。




モドル

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