「たっだいまあーー!!」


鞄を放り投げて悲鳴混じりに声を上げる。するといつものようにどたどた足音が―――しない。声も聞こえない。おいしそうな料理のにおいもしない。家は真っ暗で静まりかえっている。まるで無機物のようだ。
あ、あれ?なんで、どうして、としゆき君は・・・?


「(あ、)」


そっか、帰ったんだっけ、としゆき君。
私は急に冷静になって、いそいそと靴を脱ぎ始めた。そうそう、帰ったんだよね、としゆき君。いやー来るのも急だったけど帰るのも急だったなー。私はパチリと電気をつけた。
私は買ったばかりのスーツを干してから、いつも通りのスウェットに着替えて、いつも通りソファーに寝っ転がり、これまたいつも通りテレビのスイッチを入れた。こんな時間帯だ。テレビはそんなに面白くない。私はチャンネルを適当に回してから全身で伸びをした。面白いくらいに骨がぽきぽきなる。あー、これってほんとは良くないんだっけなー。このぽきぽき鳴る音っていうのが関節がどーたらこーたらで首をぽきぽき鳴らしたら下半身不随になったとかどーたらこーたら。まあ、そんなことはどうでもいい。ビール飲みたい。あー、でも買ってなかったっけ、買いに行こうか、いやめんどくさいなー、あ、そうだよ、


「としゆき君ビール買ってきてー」


未成年に買えるわけないだろ、そもそも名前さんは酒飲み過ぎだ。そのうち痛風にでもなるぞ


「・・・なんちゃって」


脳内会話とかやっちゃって、恥ずかしいとは思わないのかね君。いや恥ずかしい、そして寂しい。としゆき君には大切なものを取られてしまいました。それは私の心です!なーんちゃってー・・・


「・・・笑えねー」


今思い返せばほんの短い時間の間、としゆき君は私の家の家政婦さん兼オカン兼弟のような存在でエトセトラ。そして、私の彼氏でもあった。溜め息が出る。いわば私は家政婦さんとおかんと弟と彼氏を皆いっぺんに失くしてしまったのだ。やることもないしやる気も起きないのでとしゆき君との想い出を振り返ってみることにする。としゆき君が現れたのは半年ぐらい前、今じゃ考えられないくらい暑い日だった。






ドが付く貧乏学生だった私は家でクーラーをガンガン付けたい欲望を抑えひたすらバイト三昧の日々を送っていた。クソ暑い中毎日毎日・・・我ながらよくやったと思う。そのバイトが終わっても外より暑いんじゃないかと思う家にはとても帰る気にはなれず、私はよく図書館で暇を潰していた。まあそこで酷くあせったような男の子に遭遇して、まあそれがとしゆき君だったわけなんだけど中略、としゆき君が私の家に来ることになった。はしょりすぎたか、まあいい。
としゆき君に話を聞いてみると学校の帰り道をいつものように歩いていたらいつの間にか図書館にいたらしく、冬だったはずなのにいつの間にか夏になっていたらしかった。ば、馬鹿な・・・そんなことあっていいのか・・・。冗談?といぶかしがる私とは反対にいたってとしゆき君は真剣で信じて下さい、あなただけが頼りなんですとまあ可愛らしいことをおっしゃりましてからにじゃあ仕方ないな!としゆき君が帰るまで面倒みてあげるよこのお姉さんが!と私は鼻息荒く立ち上がったのであった。

一緒に生活してみるととしゆき君は万能だった。家事は教えればすぐ出来るようになったし、料理だって日増しに上手くなっていった。嫁に欲しい。何度そう思ったことか。としゆき君は始めのうちは私に緊張していたみたいだったけど、私が一人じゃまともに食事も取らないダメ女だと分かると一気にオカン化した。端の使い方とかむっち注意してきた。そして冷房は28度で十分らしかった。名前さんはびっくりするほど不器用で俺が来なかったらそのうち死んでた、らしかった。・・・・くやしいことに正論だった。



そして、それが当たり前であるかのように私は彼を愛した。



かつて、こんなに人を好きになったことがあっただろうか。いや無い。即答できる。溺愛した。彼しかいないと思った。彼も、私を好きだと言ってくれた。幸せだった。でも、お互い分かっていたのだ。彼がいずれ元の世界に戻ってしまうということを。お互いがお互いを好きだと分かって、それでも私たちは何も変わらなかった。絶滅危惧種に指定してもいいくらい彼は真面目だ。責任取るなんて言って、もし元の場所に帰れるようになっても、彼はそれを躊躇してしまうような気がしたから。枷には、絶対になりたくなかった。


そして彼は帰っていった。
あの真夏日から半月弱、初雪を迎えた寒い日だった。淡い光に包み込まれていった彼を、止めることなんてできずにただ絶望的な目で見つめていた。彼は透けていく両手を信じられないようなものを見る目で凝視して安心したような、でもひどく悲痛な苦い顔をしていた。そして、最後に私たちは初めて口づけを交わして―――彼は消えた。

それから一ヶ月と少し、私はまだ彼の幻影を振り切れずにいた。腹の底から大きなため息をついて私は水を飲み干す。まずい水道水だ。このまま一生独り身ってわけにも行かないのに、私はまだ彼を引きずっているのだ。あーあ


「早く白馬の王子様が私を迎えにこないかねー…。というか」


としゆき君


「…会いたい…かもなぁ……」


でもなぁ、会えないだろうなぁ


としゆき君は恐らく私とは違う次元に生きてる人なのだ、文字通り。馬鹿みたいだ。どうして好きになってしまったのか。鬱陶しく流れる涙をぬぐうこともせずにわたしはまたまずい水道水を飲みほした。水分摂取。テレビからは笑い声が絶えまなく響いていてこの空間では浮いて聞こえた。
涙が止まってくれない。本当はあの時、行って欲しくなかった。ずっとここにいてほしかった。それが駄目なら、私もとしゆき君の世界に連れて行って欲しかった。今更、こんなこと考えたって…。ああ、胸が苦しいよとしゆき君。前に君が言ったように私は君が居ないと生きていけないんだ。としゆき君、としゆき君、


「としゆき、くん……っ」
「何ですか名前さん」
「………………ふふふ、とうとう幻聴が」
「幻聴じゃないですけどね」
「……」


バッと後ろを振り返ると、そこには最後に見たときよりも大人びたとしゆき君が居た。ひどく柔らかい笑顔をしている。なんだ、とうとう幻覚まで見えるようになったのか…。と考えているととしゆき君が幻覚でもありませんよ、と心なしか低くなった声で言った。


「げんかく……じゃないんだぁ………ふふふ、幸せな夢……」
「…夢でも、無いんですけどね」


としゆき君は私を後ろから抱きしめてくれて、ああ、何て幸せなのか。そのぬくもりに縋って私は号泣した。




モドル