ねえ名前ちゃん。俺様たちが初めて会った日のこと覚えてる?


あの日は水分を根こそぎ奪い取るように太陽がぎらつく今日みたいな真夏日だったよね。美術品なんて興味もないのに涼しさ目当てで来る人で美術館は一杯になってていつもよりうんとうるさかった。俺様、あの美術館の寂れた感じが結構好きだったから賑やかな話し声とジンジン五月蝿い蝉の声でイライラしてて、それでもその日美術館に行ったのは断じて涼しさ欲しさじゃない。このことは墓場まで持って行くつもりだけど、実は名前ちゃんに会うために行ったんだ。ちょっと気持ち悪いかな。


名前ちゃんは俺様のこと知らなかっただろうけど俺様はあの事件の十ヶ月ぐらい前、今とは真反対の肌寒い冬の時期から名前ちゃんのこと知ってんだよ。聞いたらびっくりするかな?
なんとなく時間と暇をつぶすだけに立ち寄った美術館は名前ちゃんを見つけた瞬間とんでもなく素晴い出会いの場所に変わった。あの日美術館に行った俺様を褒めてやりたい。
芸術も美術も全く興味の無かった俺様がその日美術品に行ったのは名前ちゃんがこの世に産まれてきたことの次ぐらいに奇跡だったと思う。正に運命。俺様と名前ちゃんは出会うべきして出会ったんだと公言せずにはいられない。
その日(後から知ったんだけどいつも)名前ちゃんは美術品を一つ一つ真剣に見てて、そのたびにコロコロ変わる表情がとんでもなく可愛くって俺様思わず赤面しちゃった。無意識に名前ちゃんの姿を追う足に狂ったように弾む心臓。これが恋なんだって気が付いた時には一通り作品を見終わった名前ちゃんがベンチで一息付いてた。名前ちゃん、可愛いなあ、隣に座っちゃおうかな、なんて悶々としてたから名前ちゃんが顔を上げた時は心臓が飛び出ちゃうんじゃないかって思うくらいドキドキした。でも何てことない。ただ迷子の子供が泣き出しただけだった。もう、俺様騒がせな名前ちゃん!名前ちゃんは立ち上がって、歩いてった先には俺様じゃなく泣いてる子供がいた。ちょっと嫉妬。子供の視点に合わせた名前ちゃんは君、迷子?と子供に声をかけた。そのとき俺様は、この子、こんな声で話すんだって感動して、あの時は名前知らなかったからね。そうこうしてるうちに子供と名前ちゃんは手を繋いでた。きっと迷子だったんだろう。名前ちゃんの白魚みたいな指が子供の柔らかそうな指に絡んでて、嫌だった。笑っちゃう話だけど、幼稚園ぐらいの子供に俺様本気で嫉妬してたんだ。このことも墓場まで持って行くつもり。あの時はそこまで気が回らなかったけど俺様子供が泣いちゃうくらいひどい顔してたと思う。名前ちゃんが気付かなくってほんとに良かった。ほんとに。
それから日を重ねて夏、それまでに俺様は名前ちゃんのことを沢山調べた。俺様の学校からふた駅の女子校に通ってるとか、女子校の近くあるケーキ屋さんによく行っててモンブランを必ず頼むとか、名前ちゃんが小学生のころ美術館の近くに住んでいたとか、よくご両親と美術館に行ってたとか、今でも土日に美術館に来るとか、ご両親は別居中で名前ちゃんは女子校の寮に住んでるとか、趣味、身長、体重、足のサイズ、全部調べて調べて調べて、一つ名前ちゃんのことを知るたびに一つ名前ちゃんに近付けたみたいで嬉しかった。できる限り美術館にも通った。名前ちゃんを一瞬でも沢山見たくって。やっぱり気持ち悪いかな。
そしてその運命の日。やたら声をかけてくる露出の多い女たちを適当にあしらいながらその日も人混みの中で名前ちゃんを探してた。そしていつも眺めてる可愛い頭を見つけたとき、俺様泣き出しちゃうくらい嬉しかった。その時だった。名前ちゃんのポケットから夕陽に溶けちゃいそうな蜜柑色のハンカチを落としたのは。俺様に手を振るように落下したそれに名前ちゃんは気が付いてなかったみたいだ。
俺様は歓喜した。
背中にゾクゾク走ったものはきっと出来過ぎたシナリオに対する恐怖。勝手につり上がる口を必死で制御する。眉毛を下げ、いかにも良い人そうな笑みを浮かべて名前ちゃんの肩を叩いた。俺様の手には名前ちゃんのハンカチが握られている。


「あの、これ、落としましたよ」




モドル