鳴り続けるバイヴが、マナーモードの時の着信音だとようやく気が付いた名字が布団の中から手を伸ばし、チカチカ光る携帯を掴んだのは、深夜も二時を回った頃だった。こんな時間に誰が、と目を細めながら痛いくらい眩しい画面を確認する。
着信履歴、76件。
一瞬で眠気が覚めた名字はその通知を開き、一応、発信者を確認する。案の定、その全てが大和田からのものだった。それに、メールが一件。その差出人も大和田だ。大和田はいつもメールを使わない。嫌な予感を覚えながら名字は震える手つきでメールを開く。本文が無いそれには、画像が一つ添付されていた。傷口。ピンク色の肉がはみ出し、血がぬらぬらと光る、赤くて、白くて、目がチカチカするような────。
名字は飛び起きると掛けてあったコートをパジャマの上から羽織ると、財布やら携帯やら必要最低限の荷物を持つだけで、化粧もしないで大和田の家に向かった。
正確に言うと、向かおうと、した。
名字から小さな悲鳴が上がる。玄関の扉を開けたその先に、大和田が立っていた。いつもキッチリ固めているリーゼントは崩れ、表情は見えない。ただ、その雰囲気がいつもとは違うことを、名字は肌で感じていた。
落ち着け。名字は自分に言い聞かせる。こういうことは初めてじゃないない。落ち着け、落ち着け落ち着け。名字は必死に口角を持ち上げ、大和田に優しく話しかけた。


「なんだ、来てたんだ。さっきメール見て、今から紋土の家行こうとしてたところで、」


その言葉を遮るように大和田は強い力で名字を押しのけ、家の中に入っていった。目で追うと、靴も脱いでいない。


「ちょ、ちょっと、」


引き留めようとする名字の存在が見えていないように大和田はズカズカと家の奥へ歩いていく。その足跡を見て、名字は戦慄した。血が、その足跡に沿って点々と続いている。頭から血の気が引く。逃げてしまいたい。でも、ここで逃げたら、。少しの躊躇の後、名字は口を真一文字に結び、玄関の扉の鍵を閉め、靴を脱ぎ捨てるとリビングへと向かった。



リビングは、まるで台風が通り過ぎたあとのような惨状だった。
テーブルに出しっぱなしにしていたお気に入りのマグカップは陶器の破片と化し、白いカーペットは土で汚れた上、血が染み付いている。テーブルは真ん中で割れ、そのもとの形を保てず奇妙な格好で沈黙していた。何もかも息を潜め、静まりかえるリビングに、大和田だけが動いていた。何かを、何回も、執拗なくらい踏みつけている。名字が目を凝らすと、写真立てだった。名字と大和田がこの前、旅行に行った時の写真が収められていた、写真立てだった。


「も、紋土…」


名字が思わずこぼすと、大和田の動きが止まった。そのまま緩慢な動きで振り返る。その目は、名字を見ていないように虚ろだ。ただ、張り詰めた糸のような緊張感が部屋中に充満していた。


「…名前、浮気したな?」


呆然と呟かれた声は、確信を孕んでいる。名字の額に汗が滲む。それは当然、浮気がばれたからではない。自分は絶対に浮気をしていないからだった。そしてこんな時、大和田は絶対におかしくなっていると分かっていたからだった。


「…してないよ」
「嘘だ」
「してないってば。それより、怪我してるんでしょ、手当しないと」
「それより?それよりってなんだそれよりって。オメーの浮気でどれだけ俺が傷付いたと思ってんだ?しらばっくれてんじゃねェよ!!浮気したんだろ?だから電話も出なかった。メールも返さなかった。オレが一人で苦しんで、名前に助けを求めた時、オメーは隣にいた男とオレのこと笑ってたんだろ?オレのこと捨てて、自分だけ幸せになる気だろ?許さねェ、許さねェ許さねェ」
「待って、待ってよ、電話出なかったのは寝てたからだし、浮気なんて、」
「あああああ、ヘタな言い訳してんじゃねェ!!!!!」


大和田が怒鳴り、名字の目の前が真っ白になった。身体が嘘のように飛んでいき、壁に激突する。思わず名字はずるずると座り込んだ。頬を殴られたのだと、その時になって気が付いた。
ここから先の名字の記憶は、曖昧だ。多分、自己防衛とかなんとかで、記憶を奥底へ押しやっているのだろうと、名字は考える。気が付いた時は自分がなにをやったのかもやられたのかも、夢のようにおぼろげにしか覚えていない。
今回も、半分眠っているようなまどろみの中、意識を辿ると、全てが終わっていた。意識が途切れてからどれくらいの時間がたったのだろう。ぐったりと座る名字を抱きしめて支え、大和田は名字の名前を繰り返し呼んでいる。何度も、何度も。
背中にきつく回された手が、震えていた。
無意識のうちに、名字はゆっくりと腕を上げ、大和田の頭を静かに撫でた。どこからか、血の臭いがした。名字の目に自然と涙が滲む。


「もう、いい…。もういいから…」


大和田はぴくりと反応すると、少しして、怒ってるか?と、ぼそりと呟いた。その声は、叱られるのを怖がる子供と何も変わらない。名字は思わず気の抜けた笑みを浮かべる。


「怒ってないよ」
「…、名前は、浮気なんかしねぇよな、」
「うん」
「怖かったんだ。突然、名前がどっかに行っちまう気がして、電話にも出ねぇし、捨てられたんだって、」
「うん」


さっきまでの緊迫した空気が嘘のように、静かな時間が流れる。大和田の震えは少しずつ収まり、声にも芯が通っていく。名字は、この瞬間が好きだった。歯車が噛み合うように、すべてが元に戻っていく感覚。努力が報われたような安堵と、充足感。


「オレのこと、嫌いになってねぇか?」
「なってないよ」
「まだ、オレのこと好きか?」
「うん。好きだよ、紋土」
「、ああ…。オレも、名字が好きだ。名字が居なくなったら生きていけねぇ。死ぬまで、オレから離れないでくれ」
「…うん」


それから、暫く大和田は名字を抱きしめ続けた。出来ればこのままゆっくりしていたいと名字も思う。だが、安心したせいか、血が巡るように、名字の身体は次第に痛覚を取り戻していった。どれだけ殴られたのだろうか。さっき上げた腕が、全身が、ひきつるように痛む。骨も、多分どこか折れてるだろう。脂汗が滲む。それなりに鍛えていて、腕っぷしも強い大和田に殴られたのだ。当たり前かもしれない。
やがて身じろぎ一つするたび、呼吸をするたび全身を襲う痛みにやがて耐えきれなくなり、名字は恐る恐る切り出した。


「紋土!そろそろあの…」
「オウっ!!そうだな!!」


名字の躊躇を吹っ飛ばすような、さっきとは打って変わっていやに明るい声だ。名字の身体が緊張する。なんで、紋土がやっと元通りになったのに。痛みも忘れて意識が大和田に集中する。
大和田はそんな名字に気付いているのかいないのか、鼻歌でも歌い出しそうに名字を抱き締めていた腕を緩め、顔を合わせると、ニカリと、名字が好きな彼の笑顔で、笑った。


「じゃあ、仲直り記念に一発ヤっか」


一瞬で、全身に鳥肌が立った。その笑顔は、まるで子供のように無邪気だったのだ。
そこで名字は、大和田が自分に謝ったり、身体を気遣ったりすることが一度も無かったと、今頃になって気が付いた。




モドル