石丸が微睡む意識の中、目を覚ますとまず白い天井が目に入った。慣れ親しんだ家の木目調ではない。石丸はのろのろと身体を起こした。白い布団。どうやら自分に掛かっていたようだ。顔を上げ、辺りを見回すと少ししてそこが保健室であることに気付いた。教員の姿は見えない。まるで世界から切り離されたように静かだ。それでいて壁一つ挟んだような遠さで、生徒たちが賑わう声が聞こえる。なんだかとても感傷的な、それでいて心地いい気分に揺られ石丸は目を閉じた。
ふと、遠くから廊下を歩く音が聞こえた。浮いたようにやけにハッキリ聞こえるその音は次第に大きくなっていく。それは扉一つ隔てた向こうで一瞬止まった。そして、ゆっくりと扉を開く音が保健室に響いた。思ったより大きい音が鳴ったのか驚いた風に肩を揺らす彼女は石丸を視界に捉えると安堵した表情を見せ、それからすぐに硬直、気まずそうにぎこちなく笑った。


「石丸くん、起きてたんだね」
「名字くん…」


出した声は思いの外枯れていて石丸は首を捻る。そもそも、何故僕は保健室で寝ているんだ?
少し焦ったような名字から渡されたペットボトルを、石丸はほとんど何も考えず受けとり喉を潤した。名字は心配そうな表情で石丸を見つめている。


「石丸くん、私と話してたら急に倒れちゃって…。大和田くんたちが運んでくれたんだ。今昼休み。先生は貧血かなって言ってたんだけど…、大丈夫?頭とか痛くない?」


一瞬で全てを思い出した。
一瞬全ての身体運動が停止してしまったかのように固まった石丸は、眉を寄せると低く唸り頭を抱えた。


「どっ、どうしたの!?」
「ぼ、僕は…ッ」
「待って、先生呼んで、」
「くっ…なんてことだ…ッ!」
「くる、って…、ん?」
「僕は…、二時間も授業を受けそびれてしまったというのかーーッ!!??」
「…え」


驚く名字など視界に入らないようすで石丸は泣き喚く。その内容は一般的な学生には理解し難い。名字はその元気な様子に安心しつつも若干引きながら、保健室備え付けのボックスティッシュを優しく石丸に差し出した。
石丸は涙を拭い、豪快に鼻をかむ。そして圧倒的な切り替えの良さで、ついさっきまで泣いていたとは思えないきりりとした表情を作り名字を見つめた。名字の心臓がちいさく高鳴る。


「そして、僕の聞き間違いでなければ…名字くん、君には、…好意を寄せる男性がいるのだな?」


そしてそのまま固まった。だが、それは事実で、否定しようとも思えずこくりと頷く。顔はもう赤いのか青いのかも分からない。黄色かもしれない、と混乱する頭の片隅で考えた。握り締めた手は汗で滲んでいる。


「僕は…風紀委員だ。校則に明記はされていないものの、不純異性交遊は学生の精神に反していると思うし、その通り僕は色恋に現を抜かし、学業を疎かにする生徒たちに指導をしてきた。それに例外は無いし、あってはならないと思う」


間違いない青だ。お腹が痛くなってきた。失敗したなぁ、なんで言っちゃったんだろ。めんどくさい。これから長い長いお説教が始まるんだろう。逃げてしまおうか。
俯く名字に「でも!」と石丸は強い口調で続けた。


「僕自身としては、君に幸せになってもらいたいのだ。例え学生の精神に反していたとしても、好きな人がいるならばその人と幸せになってほしいと思う。思う、が僕は風紀委員であって、だとしても、風紀を乱さない程度ならば、いや、そうではなく、君が幸せになれると言うのならば、協力したいと…、……僕は、」


途中から、石丸は自分で自分が何を言っているのか全く分からなかった。途切れた言葉の先を自分の中に探す。
そして、小さく息を洩らした。
胸を苦しめるその感情の名を、石丸は驚くほどすんなり受け入れることができた。


かくして、石丸はようやく初恋を自覚した。


「僕は…君のクラスメイトなのだから、」


そして、それと同時に失恋の味を知ったのであった。
名字は少し目を見開いてから、照れくさそうに笑った。




モドル