「石丸くん、キスして」 私がそう言うと石丸くんは正座の形を保ったままゆっくりと振り返った。その眉間には深い皺が刻まれている。不機嫌そうだ。石丸くんは手にしていたシャーペンをテーブルに叩きつけるように置くと、ギッ、と鋭く私を睨んだ。 「君…ッ!!それはさっきから何回目だね…!!!勉強の邪魔をするのも大概にしたまえよ!!?」 「あ、怒った?」 「怒ってない!!!!」 「怒ってんじゃん…。何よ、この平成のセックスシンボルとも言われた私の、キスの誘いを断ろうって言うの?」 「断るに決まっているだろう!!僕は今勉強中なのだ!!!」 「それって私とキスするより大事?」 「当たり前だ!!!」 「私っていう存在よりも?」 「…君は……、めんどくさいことを言うヤツだな」 「どもーっす」 「僕にとって勉強も君も比較できないほど大切だ。ただ今は勉強に集中したいんだと、何回言ったら分かるんだ!!もう少しで終わるからそれまで静かに待っていてくれたまえ!!君が邪魔をするたびに僕が勉強をする時間が長くなるのだ!!!」 「ひ、ひどいわ石丸くん、そこは勉強より君の方が大切だぜベイベーって言ってくれないと」 「…もう、僕の勉強が終わるまで話しかけないでくれたまえ」 「了承出来かねるなぁ」 「…もういい」 「あ。怒った怒った?激おこぷんぷん丸?」 「…」 「はい。分かりました。静かにしてあなたの帰りを待ってまーす。どーせ私は現地妻だもね。本妻には勝てないわぁ。っていうか石丸くん破廉恥くらいは言ってよ。回数に比例してだんだんガチ切れしてくるのは酷いと思いまーす…」 現地妻という単語に石丸くんの肩が少し跳ねたものの、石丸くんはもう振り向かなかった。これ以上怒らせたら流石にまずそうなので私もふざけるのはこれくらいにしておく。石丸くん、マジ切れしたら怖そうだもん。それもやってみたい気持ちはあるけど、朝までお説教コースはきついなぁ。せめて、もっと色気のある…「君みたいな悪い子には、夜の風紀指導でもしなくてはな…」みたいな。あっ、駄目、そんなこと言う石丸くんの顔が想像出来ない。っていうか夜の風紀指導って…何。 「…く、」 「…」 「…ふふっ」 「…」 「あっはははははは!!!!!」 「うるさいぞ名字くんッ!!!!」 「駄目だ、駄目って!!夜の風紀指導は駄目だって石丸くん!!ブフッ、くく、あははは!!!」 「黙れ」 「はい。すみません。黙ります」 「次喋ったら…」 「はい。すみません。もう喋りません」 「よろしい」 石丸くんは満足げに頷くとまたペンを走らせ始めた。石丸くんって、あんな冷たい声が出せたのね…。思わず真顔で謝罪したくなるほどの迫力がそこにはあった。なにかアダルティックな才能の片鱗を感じる今。やだ…石丸清多夏…、恐ろしい子…!!石丸くんってば明らかにドドMみたいな顔しときながら実は十神くんもびっくりの超高校級のサディストだったの!?どうしよう私付いていけるかな…。あとで腐川ちゃんにマゾヒストの極意教えてもらおうそうしよう。 なんて考えているうちに意識がとろとろとろけてきた。私は腰掛けていた石丸くんのベットに上半身を倒す。少し皺の寄ったシーツからは石丸くんの匂いがして、安心した。とたんに重くなる瞼。全部石丸くんが悪いんだ、と丸投げしてしまえば簡単に意識は闇の中へ沈んでいった。 ────── 感じたのは、優しく髪をとくその感覚。どこかぎこちないその動きは、満足感にも似た柔らかく甘い感情を全身に広げる。ゆっくりと瞼を開けば、天井からの光を何かが遮っているのが分かった。それが、石丸くんの頭だと気付くのにそう時間はかからなかった。石丸くんは、めったに見ないような慈しむような表情で私を見ている。それがなんだか非常に恥ずかしくて私は頭ごと視線を逸らした。 「名字くん、起きたかね」 「……花も恥じらう乙女の寝顔をじろじろ見るなんて、石丸くんも意外と隅に置けないなぁ」 「可愛らしかったぞ」 「うるせえ、おたんこなす」 「おたんこなすと言うのは間抜けやのろまを指して言う言葉だから、この場合には当てはまらないのではないか?」 「石丸くん間抜けじゃん」 「ど、どこがだね!!」 「馬鹿、自分で考えてよね!」 「君ってヤツはなぁ…」 「……今何時?」 「今は…6時21分だ」 「あー、結構寝たなぁ…」 「もうすぐ夕食の時間だから、そろそろ起こそうと思っていたところだぞ!!丁度良いところで目が覚めたな名字くん!!」 「あー、うん。…あ、石丸くん、勉強終わったの?」 「勿論だ!!そうでなくては君に構っているわけがないだろう!!!」 「そんな自信満々に言われても…私どういうリアクション取ればいいの…。傷付くとかいうレベルの話じゃなくて人間的に…」 そんなことを言いつつ私はようやく状態を起こした。この体制は、悪くはないけどなんだか甘ったるしくて妙に気恥ずかしい。 掛けてあった布団を端に寄せ、私はベットの縁に腰掛けてた石丸くんに並んで座った。足元には私の靴がきちんと並べて置いてある。それを見て私は並べたんだ、と見れば分かることを呟いた。 「ああ。君が靴を履いたまま寝るものだからわざわざ脱がして並べておいた。感謝したまえ!」 「なんかソレ、嫌。石丸くんって実は私の生き別れのお母さんなの?」 「僕は男だし君と年齢も変わらないし、君の母君はちゃんといるではないか!!」 「マジレス乙でーす。あー、なんか眠ーい。晩ご飯食べなくてもいいかなー」 「それはよくないぞ名字くん!不規則な食生活は健康にも害を及ぼすのだ!!引きずってでも食堂に連れて行くぞ!!」 「現実に起こりそうで非常に嫌」 「それが嫌ならばちゃんと自分で食事をとることだな!では、そろそろ食堂に向かおうではないか!!」 そう言って石丸くんは立ち上がり、掛けてあったブレザーを羽織った。その時私は石丸くんがYシャツ一枚だったことにようやく気が付いた。レアだったなぁ。もっとじっくり見とくんだった。そんなことを考えてローファーに足を突っ込む。馴染んだ革の感覚が心地いい。 「今日の晩ご飯は何かなー、ふんはふんはふーん」 「…」 「ちょっと、道の真ん中で立ち止まんないでよ石丸くん」 「あっ、ああ、すまない」 「…?行くなら早く行こうよ」 そう言って、私は石丸くんの顔をのぞき込む。石丸くんは無言。一体なんなんだ。と、思いつつも石丸くんが訳わかんないのはいつものことなので私は石丸くんの隣をすり抜け、ドアノブに手を掛けた。 その時、唐突に、本当に唐突に、ドアノブに掛けてなかった方の腕が引かれ、私は見事にバランスを崩した。妙な悲鳴を上げよろめく私を強い力が引っ張り半回転させると、肩に両手を置いて動かないように固定する。 一瞬変な方向に折れた足首と力任せに掴まれた腕が痛い。あと頭がぐわんぐわんする。誰の仕業だって、ここには石丸くんしかいない。一体なんなんだ。文句を言ってやろうと顔を上げると、予想だにしない衝撃が私を襲った。唇への衝撃が。 一瞬触れた、柔らかい感覚に目が点になる。それは、石丸くんの唇でいいんだろうか。だって、こんなに顔が近くにあるんだもの。石丸くんは少し上気した頬で小さく息を吐き、その赤い瞳で私を見つめる。大きく心臓が跳ねる。その瞳は、陽炎でも立ちそうなくらの熱を孕んでいた。 「い、石丸くん。なに、どうしうえぶっ」 すると、またも唐突に顔面に何かが押し付けられた。それが石丸くんの胸だと言うことが分かると、ちょっと身が強ばる。だが、それとは比べ物にならないくらい石丸くんがガチガチに緊張しているということはなんとなく私にも分かった。肩の辺りにきつく回された腕が微かに震えている。それが少し安心できて、私は小さく息を吐くと石丸くんの胸に頭を預けた。石丸くんが所々裏返った声で、ほぼ叫ぶように話し始めた、その時までは。 「さっきは勉強中であり、その、すまなかった!!ぼ、僕はッ!その、名字ッ…名前くんとのキスは…本当に好きだ!!!」 呆けた顔が一拍して驚くほど熱くなる。な、なんて恥ずかしいことを言うんだコイツは…!! 思わず口を塞ぎたくなるがギチギチに拘束されていてそれは叶わない。 「それと!男の部屋であ、あんな無防備に寝るんじゃない!!分かっているとは思うが、僕だって男なんだ!!…あ、だからといって他の男の部屋で寝たりはするんじゃないぞ!!というか僕以外の男の部屋には入らないでくれたまえ!!!」 私はなんだか恥ずかしくて死にそうだった。なんだこの、ピュアピュアな感じのアレは。悪態だって付きたくなる。多分、この空気に飲まれたらあとで死ぬほど恥ずかしい思いをするだろう。聞くだけだ。平静を保つんだ名字!やってみせろ名字!! 「あと!!勉強も君も比較できないほど大切だが…僕が、一番好きなのは!」 「も、もうやめてぇぇぇ!!!」 もう、限界。 沸騰したように熱い頭に任せて、石丸くんの腕を振り払うと、私は少し背伸びをして両手で石丸くんの口を塞いだ。 「大丈夫だから石丸くん!もうお腹一杯だから!これ以上やられたら私悶死しちゃうから!!や、止めて!!そういうんじゃないでしょ私たち!!勘弁してよ頼むからぁぁ!!!」 「そういうんじゃないとはどういうことだッ!!」 「ぎゃああぁぁ!!喋らないでよ全く!!何!?仕返しなの!!?さっき勉強邪魔したから!!??恥ずかしいったらありゃしないよ!!!」 「恥ずか…?…ああ!照れているのか名前くん!!安心してくれたまえ僕も相当照れているぞッ!!今信じられないくらい顔が熱い!!!」 「じゃあ止めてよ!!」 「たまには言葉で気持ちを伝えなければならないだろう!!そう本にも書いてあった!!」 「だ、だからって…!!」 「…君はもしかして…、嫌なのか?その…僕に好意を持たれていることが」 盛大に口元が引きつった。 「いや、いやいやいや、違うよ。誰もそんなこと言ってないじゃん」 「そうか…、なるほど道理で…、よくよく考えてみれば名字くんは普段からまるで僕の身体だけが目当てのような振る舞いをしていた…」 「オイ」 「それにいつも、名字くんは僕をからかって遊んでいるようでもある…」 「それはそうだけど…」 「なにッ!?やっぱりそうなのだな!!僕の純情を弄び陰でほくそ笑んでいたのだな!!!」 「妄想が膨らみ過ぎだし表現がキモい!!…ああもう!!めんどくさいなあ!!」 私は眉を寄せ、石丸くんを半ば睨みつけるように見つめた。少したじろいだ様子の石丸くんと視線がぶつかる。ええい、ままよ! 「私、身体目当てじゃないし、いや、身体も良いと思うけどさぁ…。じゃなくて!!なんていうか!私、石丸くん…いや、き、清多夏くんのことが、好き、で…愛してるの。だから、からかいたいし泣かせたいし全部欲しい!!愛してるからね!!分かったか!!!」 名前で呼んだのはさっきの仕返しだ。ふ、石丸くんよ、私が体感した恥ずかしさを返してくれるわ!肩で息をしながらドヤ顔で石丸くんを見やると、 「…あ、ああ、」 石丸くんは真っ赤だった。本当に、赤っていう色見本に出来るくらい真っ赤。かつ、滅多に見ないような呆けた顔をしている。それから石丸くんは真っ赤な顔のまま顎に拳を当てるいつものポーズをすると、私から目を逸らし、ぐぐぐと眉を寄せた。そこで、私もようやく、自分がどれだけ恥ずかしいことを言ったか自覚した。 「えっ、違くて、その…さっきのは」 「いや、その…、…好きだ。僕も、名前くんのことが、好きだ。…愛してる。例え名前くんが、僕のことを嫌いだとしても、それは変わらない。…き、君は普段、そういうことを言わないから…、少し、驚いてしまった」 「あっ、はい…。こちらこそ…」 それから、気まずい沈黙が部屋を包む。もう、何を言ったらいいか分からないしどうしてこうなったかもよく分からない。ただ、石丸くんが諸悪の根元だということは分かった。あとでしばいてやる。そう、私が決意を固めた時、ふいに、石丸くんのお腹が豪快に鳴った。変な空気が壊れたことを喜べばいいのか、あまりの間の悪さに呆れればいいのか分からない。流石KY多夏。 「あ、すまない…。少々空腹が…って、もう七時を回っているではないかッ!!なんてことだ!!そうと分かれば名字くん、もうこんなことをしている暇はないぞ!一刻も早く食堂へ向かおう!!」 時計を確認した石丸くんは一瞬でイインチョーモードに入り、私が返事をする間を与えずに私の手を掴むと強引に食堂に連れ出した。なんだか全身が酷く気だるい。廊下ですれ違う面々に公開処刑されているような気持ちになり、私は静かに顔を覆った。 その後、我に返った石丸くんと私の態度がなんだかぎこちなかったのは言わずもがな。熱が引き、振り返ってみると石丸くんにも、石丸くんにまんまと振り回された私にもふつふつとした怒りが沸いてくる。食後お茶を啜る石丸くんの背後で、私はそっと握り拳を固めたのであった。 モドル |