「死にたい」


不意に出た言葉は、そのまま教室の喧騒に飲まれて消えた。物騒だな、と思う。ただ私の心情を端的に表した言葉だったので特にそれ以外の感想は湧かない。そう、私は死にたかった。どれぐらい死にたいって、自分が死ぬ方法を考えて一日時間が潰せるくらいに。例えば今なら、ここから飛び降りたらどうかと思う。私は窓の外を見やった。天気は疑う予知も無い晴れ。カラカラに乾いたグラウンドには体育をやっている生徒はいない。人を巻き添えにする心配もなさそうだ。絶好の自殺日和とも言える。だが、私がそこから飛び降りることはついになかった。痛いのが嫌だったからだ。どうせ死ぬなら、痛みも感じないほど一瞬が良い。
電車とか、
私の顔面にぬるい空気が勢いよく吹き付ける。目を開くと、電車が私の前を横切っていた。瞬きを一回。電車は引きつるような音を立て軋み、定位置で停車した。プシューっと空気の抜けたような音を立て扉が開く。私はもう一度瞬きをすると、いじくっていた携帯をポケットにしまい、雫の滴る傘を振って電車に乗り込んだ。
シートの端の座席に座ると、私はさっきしまったばっかりの携帯を取り出す。そして眉を寄せた。いつの間にか、授業が終わったかと思いきや、日付を跨いでいた。あ、でもそう言われればそうかな、という気がしてくる。昨日も今日も明日も、同じくらいどうでもいいものだ。それより、今日はどうしよう。普通に電車に乗ってしまった。これじゃ電車に引かれて死ぬなんて出来る筈もない。いや、まだまだ死ぬ方法はある。もっと確実性の高いやつがいい。絶対死ねるように、二度と目を覚まさないように、
首吊りとか、
私が気が付いた時、目の前で紐が揺れていた。人ひとりがぶら下がっても切れそうにもない、丈夫そうな荒縄だ。微かに揺れるそれの動きが完全に止まると、私はようやく辺りを見渡した。私の部屋だ。…そのはずだ。確信が持てないのはこの部屋にどうしようもない違和感があったからだろう。でも、それがどこなのかは分からない。気持ち悪いけど、別にどうでもよかった。今の私は、目の前に人参をぶら下げられた馬だ。ぶら下がるのは私だけど。うまいことを言ってしまった。都合よく、私の足下には台が置かれている。あとは、縄を首に掛け、足下の台を蹴る。それだけだ。それだけだったのだが、どうも上手くいかない。台は思ったより安定がよく、ちょっと蹴ったくらいでは倒れなかったのだ。めんどくささにやる気が萎える。そんな時、チャイムも鳴らず、玄関の戸が開く音がした。重い足音がどんどん私へ迫る。とうとう姿を現した闖入者は私と目を合わせようともせず、ずんずんと部屋を突っ切っていった。


「あ、紋土くん、いいところに。ちょっとこの台よかしてくれないかな。安定が良くてね、なかなか倒れないんだ」
「うっせーよ、さっさとそこから降りろ。んでヤらせろ」
「開口一番になんて汚いことを言う人だ。君は一体どこの誰だ?私は強姦されてこの山無し谷無しの一生を終えるの?…そうか、そうならさっさとしてほしいな。あ、でも、痛いのはいや」
「いいからその紐片付けてこい。気分ワリィ」
「えっ、まだこれ使ってないんだけど」
「そりゃそうだろ」
「えっ…、あ、そっか…」


私は天井にわざわざ付けた金具から紐を取り外し、適当に開けた引き出しに押し込んだ。整理整頓は苦手だ。よく分からない髪型をしたよく分からない青年はリラックスした状態で私のソファーを陣取っている。台も端に移動されてしまった。少し悲しいし、困る。またアレを運ばなくちゃいけないのか。


「で、どこの誰だか知らないけど、君なんなの。なんのために来たの」
「性欲処理。ヤらせろ」
「わあ酷い。まるで私が肉便器みたいじゃないか。随分な言いようだな。そんなんだから君はいつまで経っても童貞なんだ」
「童貞じゃねーよ」
「…確かに。君は童貞じゃなかった。ごめんごめん。ちゃんと今日は爪切ってきた?」
「あ?切ってねーよ」
「それは困るなぁ。ほら爪切り」


そう言ってポケットに入っていた爪切りを彼に差し出す。彼は微妙そうな顔をして、それでも文句を言わず、パチリパチリと爪を切り出した。妙に安心する音だ。それでいて、とても悲しくなる。


「ああ、悲しい、悲しいよ大和田くん。私、ずっと死にたいって思ってたんだ。その目標が…やっと達成出来そうだったのに…。君さえ来なければ。ねえ、知ってた?風俗嬢って、もの凄い身体的負担が掛かる職業なんだって。まあ、そりゃそうだよね。だって人間の尊厳を金で買われちゃってるわけなんだから。社会的な欲求が全然満たされてないんだよね。だから彼女たちはホストクラブに入り浸って、ちやほやされて、精神のバランスを保っているそうだよ。みんながみんな、そうとは言えないけど、それってすごいと思うんだ。足りないものを歪な形でも埋めているんだからね。それはなにも彼女たちに限らない。人間って足りないものを何かで埋めているんだ。限りないマイナスを、出来るだけプラスに近付けようとして。で、私はどうすればいいのかな。肉便器扱いされて、ズタボロになった精神を何で癒せばいいのかな。そもそも、私には何が足りないんだろう。それすら分からない。これは…満たされていると言ってもいいのかな。足りないものが分からないって、多分すごく幸せなことだよね。死にたくなるほど、退屈だけど」
「話がなげーよメンヘラ。爪、切り終わったぞ」
「あれ、目から汁が」
「ダウト」


嘘じゃないけど、言い返す必要も無いかと思って私は反論しなかった。それが合図だったかのように、紋土くんは私に襲いかかる。その姿と言ったら、まるで玩具で遊んでいるようだった。私は死にたいなぁ、とぼんやり考える。その時、天才的な閃きが私の脳を駆け抜けた。


「あっ、そうだ!腹上死だよ!その手があったか!!」
「ちゃんとしゃぶってろよ」
「いや、そんなことしてる場合じゃないんだよ!腹上死だ!それなら痛くないし多分すぐに死ねる。君、私が死ぬまでその汚らしい聖剣を私に刺しまくってくれ」
「そりゃあ…随分な殺し文句だな。喧嘩売ってんのか?」
「まさか」


彼は言葉とは裏腹に、口角をつり上げ、楽しそうに笑う。その眼光の鋭さは私に肉食獣を連想させた。彼は馬鹿だし、どうしようもないヤリチンだが、多分、私より、生物として上等なのだろう。そう、ぼんやりと考えた。
不意に、その姿が歪む。
ぱちり、瞬きを一回すると目尻から、何かが滑り落ちた。私はしたり顔で紋土くんを見つめる。


「なんだ、今ごろになって泣けてきた」




上手に死なせてね、大和田くん
20130928
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