小説 | ナノ
臨也を見なくなって、凡そ三ヶ月が経った。
恐らく奴は、宣言通り本当に池袋に現れなくなったのだろう。奴が出現するとき必ず鼻につく、あの甘ったるい様な何とも言い難い香りが三ヶ月間、俺の嗅覚を刺激することは一切無かった。
人間の体とは便利なものだ。初めは信じられなくてムカついて苛立っていた感情も、それが普通なのだと理解し始めた辺りから、随分と穏やかになった。
臨也が居なくたって俺の世界は何事も無かったかの様に、通常通り廻っているし、恐らくそれは臨也にとっても同じ事が言えるのだろう。
とにかく、俺は普通に生きていた。
「静雄?」
「えっ?あ、何すか、トムさん。」
「いや、なんつうか、ぼーっとしてっからよ。」
何でもないなら良いんだけどさ、と笑うトムさんに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そう、何事もなく世界は廻るが、心此処に在らずな状態が続いていた。
理由なんて分かりきっているのだが、それを認めるのが癪なので俺は目を逸らし続けている。
時が経つのは早い。
全く以ってその通りだと思う。臨也と顔を合わせなくなってから季節が一つ巡り、気がつけばジリジリと太陽がアスファルトを照り付ける季節がやってきた。
夏は好きじゃない。
その理由の一つが、俺の住居にエアコンと言う革命的な機器が無いことにある。
俺の部屋にはボロい扇風機が一つあるだけで、その他冷気を出すものと言えば冷蔵庫と水道ぐらいなものだろう。
冷蔵庫も開けっ放しにするのは金銭面的に宜しくない。それはシャワーや水道の蛇口についても同じ事が言えるのだ。
つまり俺は、この糞暑い真夏を扇風機一つで乗り切らなければならない。
今年からは。
今年からと言うのも、去年まで、実はあのノミ蟲の住居に夏の間だけ避難していたのだ。
エアコンを買う金も無い。しかしあの熱帯夜に耐え切れない。そうして半ば押しかける様な状況で奴の部屋に居座り続けていたのだ。
奴も初めは迷惑だなんだと喚いたが、目の前で来客用のローテーブルを真っ二つにして以来、何も言わなくなったので、俺と奴との奇妙な同居生活は9月半ばまで続いたのだった。
居座ってみて初めて気付いたことと言えば、何気に臨也は料理が上手いということだろうか。
素直に美味いと感想を口にした後、照れ隠しの様に散々悪態をつかれたが、それすらも気にならない程度には本当に奴の手料理は美味かった。
そう言えば最近ファーストフードばかりだな、と、自分の食生活を振り返ったところでブンブンと頭を振る。
俺は今、何を考えた?
そう自問自答した後に、俺は馬鹿か、と、自分自身を罵倒する。
一瞬、奴の手料理が食いたいと思ってしまったのだ。一瞬、またあの部屋で涼みたい、とも。
もう奴とは縁が切れて、俺達は赤の他人に戻ったというのに、俺は何を考えているんだ。
太陽が暑い。
汗が背中を伝う感覚が酷く気持ち悪かった。
あぁ、何だこれ。
まるで奴に憎しみとは別の何かを抱いている様で、くらりと目眩がする。
自分でも気づかぬ程酷い顔をしていたのか、隣にいたトムさんが心配そうに俺に声を掛けた。
「おい、静雄…大丈夫か?」
「あ、あぁ、大丈夫っす。」
「って顔には見えねぇけどなぁ…。早めに帰るか?」
「いや、本当に大丈夫っす!それに、あとちょいで終わるじゃないっすか。本当、大丈夫なんで次行きましょう!」
トムさんは心配そうな顔をしていたが、無理矢理笑顔を貼付けてドンとその背を叩けば、諦めた様に一つ笑みを零して、痛ぇよ、と俺の背を叩き返した。
この人にだけは心配をかけてはいけない。
そう頭の中で理解しているのに、まるで空っぽの様な自分に腹が立つ。
ジワジワと蝉が煩い。
足早に通り過ぎようとした並木道で、木に縋る様にして遺された蝉の殻を見つけて、まるで自分みたいだと思った。