小説 | ナノ

「お帰り、シズちゃん。」

「おー。」

「いい加減お帰りって出迎える度に照れるのやめてくれるかな。」

「照れてねぇ!」

どうだか、と、ぼやきながら臨也が俺をじとりと見つめる。
結局喫煙所での一服を諦めた俺は、そのまま真っ直ぐに我が家へと帰還したのだった。
俺の住居は、池袋から電車に乗って直ぐの、寂れた雰囲気の漂う町にある。
池袋からそう離れてもいないのだが、ここは本当に都内なのかと疑いたくなるほど静かな町だった。
実際都会と言うのは皆そうだ。都心から一歩外に出てみれば、そこは俗に言う田舎の香りが漂う何も無い静かな土地である。

ポケットに入れていた財布を適当にそこら辺に投げ捨て、ドッカリと畳の上に腰を下ろす。
長年俺に踏まれてきた畳は色褪せてしまっていたが、仄かに漂う藺草の香りは昔と変わらず心地好いものだった。


「先にご飯食べる?それともお風呂にする?」

「メシ。今スゲー腹減ってんだわ」

「りょーっかい!すぐ準備するね」

腰に赤い女物のエプロンを巻いた臨也が、楽しげに笑んで、パタパタとキッチンへと駆けて行った。
いつの間にか奴の私物へと化したあのエプロンは、かつて母親であった女の着けていたものだったと、ふと思い出す。

穏やかで、優しい人だったと思う。
母さんが家を出て行ったのはもう随分と前の事だ。居なくなってしまった理由を父さんに尋ねた事もあったが、父さんは何時も曖昧に笑ってごまかした。
どこか陰りのある笑みだと思った。
そして俺は気付いたのだ。母さんが家を出て行ったのは、俺の所為だということに。

愛されなかったのだ。
いや、愛されなかったと言えば語弊が生じる。正しくは愛して貰えなくなってしまったのだ。

ポケットから先程諦めたタバコを取り出し、何処にでもあるちんけなライターで火を着ける。
仰ぐ様にして煙りを吐き出した天井には、まるで何かの顔の様な模様が息を潜めていた。

幼い頃、あの模様がどうしてもお化けや怪物と言う、この世に存在しないであろう物に見え酷く怯えた覚えがある。
あの模様に怯えてぐずる俺をあやしていたのは、決まって母さんだった。
そう、俺はちゃんと愛されていたのだ、途中までは。
この、化け物の様な怪力が芽を出すまでは、愛されていたのだ。
何度物を壊して何度母さんが頭を下げたかを、俺はハッキリ覚えていない。
これはこれで薄情なことかも知れないが、何せその頃の俺は子供だったのだ。十年以上も前の事を、ハッキリ覚えていられるほど俺の記憶の容量は多くは無いのだから仕方ないだろう。

昔から短気であった俺は、喧嘩をしては相手に怪我を負わせ周囲から敬遠されていた。
友人と呼べる人間も、俺を気にかける人間も居なくなり、最終的には親からも疎まれる存在になってしまったのだ。

薄々母さんからの愛情が薄れてしまっていた事には気付いていた。だからこそ母さんが出て行ってしまった時、俺は悲しくて悔しくて、そして腹立たしかった。

化け物を愛せと言うのも中々難しい話かも知れない。だがしかし、俺を産んだ以上、俺のことを生涯愛して欲しかったのだ。
そう望むことはいけないことだろうか。

フワリと燻る煙りを見つめ、深く息を吐き出した。
今まで漂っていた煙りが一気に空気中に溶ける様に消え、また新たな煙りが漂う様は何度見ても不愉快だった。
吐き出されては、薄れて、消えての繰り返し。
俺に対する母さんの愛情に似ている気がした。

そんなことを考えること自体不毛で馬鹿馬鹿しい。
そんな思いと共に短くなったタバコを灰皿にぐしゃりと押し付けた。
特有の焦げ臭さが鼻先を掠めた次の瞬間、それとは打って変わって、胃袋を刺激する様な香ばしい香りが漂い、俺の腹が大きな悲鳴を上げた。

「お待たせ。今日のはめちゃくちゃ自信作だよー」

「あ、あぁ…」

両手にシチューの入った白い皿を持った臨也に気付いたのは、腹の鳴った直後だった。
俺の隣に膝立ちになり、楽しげに微笑んでいる奴の表情が、一瞬朧げになった母さんの面影と重なり、ぶわりと嫌な汗が吹き出る。
「どうかした?」と不思議そうに俺の顔を覗き見る臨也の整った顔立ちを、改めてマジマジと見つめたが、先程重なった面影は気の性だったのか、そこには見慣れた男の顔が怪訝そうにしているだけであった。

「何、俺の顔に何か付いてる?」

「あ、いや…何でもねぇ」

「ふーん。まぁいいや、ほら、冷めない内に食べよう?」

「…あぁ」

気の抜けた返事を返す俺の目の前に、美味そうなシチューとサラダが並べられる。
ジャガ芋が蕩けそうな程柔らかく、好みの味付けだと思った。
モグモグとサラダを咀嚼しながらふと思う。
こうして温かな夕飯を用意して俺の帰りを待っている臨也も、俺の化け物の様な力を目の当たりにしたならば、母親の様に消えてしまうのだろうか、と。

初めは居候させてくれなんて、とんでもない事を言う奴だと思った。
ただそれだけだった。
温かな家庭、他人から俺に向けられる愛情。そんな憧れとも言える幻想に飢えているだけなのか、はたまた臨也が俺にとって大切な存在になりつつあるのか。
この感情がそのどちらかなのか、或は全く違う別物なのか何なのか。

俺の胸で燻る感情の名は、愛情を知らずに育った化け物には到底計り知れないものだった。



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