小説 | ナノ
雨音にも似たシャワーの音に、俺はガラにも無く緊張していた。
『俺のこと、好きにしていいから。』
先程の訪問者の言葉が脳裏を過って、思わず心臓が跳ねる。激しい雨の日にやってきた漆黒の訪問者は、全身ずぶ濡れの華奢な男だった。そう、男なのだ。
いくら華奢だとは言っても、女性のものとは違って体は固いだろうし、声だって低い。
なのに何故、俺は同じ男にこんなにも緊張しているのだろうか。
暫く居候として置いてほしいと俺に頼み込んできた相手(名前はまだ、聞いていない)の申し出を、俺は勿論断った。
俺には他人を部屋に住まわす余裕が無い。金銭面云々では無く、俺自身に余裕が無かったのだ。
けれどアイツは現在進行形で俺の家に上がり込み、尚且つ冷えた体をちゃっかりとシャワーで暖めている。そんなあってはならない様な状況を甘受してしまったのは、何故だろうか。
ふとそんな事を考えて、答えに行き着かない思考回路に溜息を漏らした。
カサリ、と、座椅子の隣にある紙袋の表面を、そっとなぞる。紙袋は雨に濡れてふにゃりとしてしまっているが、その中の、黒いビニール袋の中身は無事な様だった。
『…一千万。食費と家賃と光熱費に雑費、全部併せても十分なはずだ。』
先ほどのアイツの言葉が脳内でリフレインする。無意識に「一千万」と、アイツの口にした金額を復唱しながら確かめる様に袋の中を覗けば、そこには綺麗に纏められた札束が確かに存在した。
思わずゴクリ、と、息を飲む。
これを渡された時に感じた確かな重みは、どうやら夢では無いらしい。
金に目が眩んだ訳でも、自分を好きにして良いと言うアイツの誘惑に目が眩んだ訳でも無かった。
ただ、こんな大金をまるで端金の様にポンと手渡すアイツに、何か良いようの無い衝撃を受けたのは確かだ。
若くて綺麗な男だと思う。
好きにして良いと言うことは、恐らくそういういった下世話な意味だろうから、俺にとっては金も奴の体も、確かに魅力的な存在なのだ。
女を抱いた事が無い俺は、確かに性的快楽には興味がある。ゲイでは無いにしろ、だ。
更にこんな大金を手にしたことも無い俺にとっては、両者とも魅力的な存在であるはずなのだ。
しかし俺は薄気味悪くて仕方が無かった。
惜し気もなく自らなまめかしい体を差し出そうとする男も、ポンと手の平に軽く乗せられたこの重みも、全てが薄気味悪かった。
誰だってそうだろう。
いきなり見ず知らずの男に、自分を好きに抱いても良いしこの大金も好きに使ってくれて構わない、だから暫く居候させてくれ、なんて言われたら、それはもう気味が悪い。
よっぽどのお人よしで無い限り、何か裏があるに違いないと勘繰るのが人間だ。
奴には悪いが、金に手をつけるつもりも、ましてや奴をここに住まわすつもりも俺には無い。
俺には余裕が無いのだ。
口の開いたビニール袋をそっと閉じ、深く息を吐き出す。
途端、スルリと俺の首に白い腕が絡んで、体が跳ねた。ぽたり、ぽたりと頬に暖かい水滴が降ってくる。
「上がった、のか…。」
「うん、気持ち良かったよ。ありがとう。」
耳元でからかう様に囁かれて、背筋がぞわりと栗立つ。止めろ、と相手の手を振りほどき、忌ま忌まし気に振り向いた所で俺は大層驚いた。
目の前の男は、その白い体に何も身につけて無かったのだ。
「なっ、何で裸なんだよ!」
「あれ?だって、俺のこと抱くんじゃないの?」
「俺はゲイじゃねぇ!」
慌てて立ち上がり、箪笥の中から適当にTシャツを取り出して、男に投げつける。
顔面で俺のシャツをキャッチした男は、暫く口をつぐんだ後にやれやれと言った様子で、下着も貸してくれ、と図々しく申し出た。
華奢な男にとって、俺のTシャツは若干大きすぎた様だった。
ダラリと垂れた袖を面倒臭そうに捲りながら、貸してやった下着を身につける男は、裸なんかよりよっぽど色っぽく見える。
ああ、これは失敗したかも知れない、と髪を掻き上げれば「これで良い?」と愉快そうな声が聞こえた。
「あぁ、裸よりはよっぽどマシだ。」
「嘘つき。裸よりよっぽど興奮してるくせに。」
「お前はエスパーか?」
「まさか。顔に出やすいんだよ、君。」
意外にムッツリだったんだね、と笑われて、言いようの無い羞恥心が胸を競り上がる。
誰がムッツリだ、と反論してやりたかったが、どうにも口では勝てない気がしたので大人しく口をつぐんだ。
「今すぐにとは言わねぇ。明日、雨が止んだら出てってくれ。」
「何、一千万じゃ足りない?」
「そうじゃねぇ。金に手をつけるつもりも、手前をここに置くつもりもねぇって言ってんだよ。」
だから、明日には出てってくれ。そう告げた相手は、一瞬きょとりと不思議そうな顔をしたが、すぐにニヤニヤと人を馬鹿にしたような笑みを浮かべて「ふぅん?」と愉快そうに呟いた。
コイツのこういうところは気に食わない。
寧ろ、今のところ外見意外に良いところが見つからない、と言うのが正直なところだろうか。
「俺の頼みを大人しく聞いておいた方が利口だと思うよ?ねぇ、シズちゃん?」
「なん、で…俺の、」
名前を知ってるんだ、と続く筈だった言葉は、喉につっかえたままに終わった。
座椅子に座る俺の視線に、自分の視線を合わせる様にしてしゃがみ込んだ奴が、そっと俺の唇にその白く細い指を押し当てる。
「さぁ、何でだと思う?」
そう言って、目の前の男は笑った。
どこか意地の悪い笑みだと思う。
「手前は、何を知っている?」
「おや、何を危惧しているのかな?平和島静雄くん。」
ハッキリと本名を口にされて、核心した。
コイツがこうして此処に来たのは偶然等では無かったのだ。コイツは、俺の存在を知った上で、今、此処にいる。
ぶわりと、冷や汗が背中を伝う。コイツは何なんだ。コイツは誰だ、何を知っている?
どんどん嫌な方へと答えを導き出す俺の脳が、これは危険だと警報を鳴らす。
今までに味わった事の無い緊張に、何だか胃がムカムカとした。
気分が悪かった。
見ず知らずの他人が、何故か俺の事を知っていると言うシュールさに、目の前がチカチカする。
名前も、年齢も、家族の事も知られている様な気がした。
コイツの口ぶりは、まるでお前の事は何でも知っているんだぞ、と言っている様で、非常に気持ちが悪い。
警察に突き出すべきか、あるいは、とそこまで考えたところで目の前の男が盛大に吹き出した。
「ぷっ…、あはは、シズちゃんさぁ、深読みしすぎ。」
「…は?」
「残念ながら俺が知ってるのは君の名前だけだよ。君の目の前にある郵便物、御丁寧にでかでかと名前が書いてあるだろ?」
言われて目の前のテーブルに視線をやれば、確かに大きく自分の名前の書かれた郵便物が置いてある。
何だ、と、途端に肩の力が抜け、今まで感じていた緊張感が消え失せた。
個人情報を盾に、脅迫でもされるのでは無いかと思っていた自分が、何だか情けない。
ホッとしたのも束の間、俺の隣にしゃがみ込んでいた相手がストンと腰を下ろし、気の抜ける様な、穏やかな笑顔を浮かべた。
そんな笑い方も出来たのか、と、ぼんやり思う。
「からかって悪かったね。俺も別に無理強いするつもりは無いんだ。ちゃんと明日になったら出ていくよ。」
「え、あ、あぁ…。」
意外にもあっさりとした口ぶりに、思わず拍子抜けする。
取り敢えず疲れちゃったから寝かせてくれるかな、と、どこか子供っぽく目を擦る男に、最早万年床となりつつある布団を使えと指差せば、途端に奴はよたよたと寝床へと向かった。
ふと、まだ聞き忘れている事があったのを思い出した俺が、奴を呼び止めれば、奴は不思議そうにこちらを振り向き、「なに?」と返事を返した。
「お前、名前は?」
「…臨也。ふぁ、眠い…。」
眠たそうに欠伸を漏らしながら布団に包まる臨也を見つめながら、「臨也」と小さく告げられた名前を復唱してみる。
珍しい名前だと思う。
不意に訪れた沈黙にいたたまれず、何か喋ろうと口を開くが、目の前で気持ち良さそうに寝息を立てる臨也に、そんな気力も削げてしまった。
そして、俺は気付いたのだ。
唯一の寝床を奪われてしまった自分の寝る場所が無いことに。