小説 | ナノ


ムシムシとした空気を肺一杯に吸い込んで、はたと気付く。
そう、臭うのだ。堪らなく臭い。この甘ったるい香りを、俺は嫌と言うほど知っている。
ヒクヒクと俺の鼻が僅かに震え、無意識の内に体の奥底から沸き上がる様な、何とも言えない苛立ちが俺を襲った。

この匂いは知っている。
もう今までに嫌と言うほど嗅いできたはずだ。

奴を尋ね新宿へと向かおうとしたその道中、駅へと続く通りで嗅ぎ慣れた匂いに足を止めた俺は、条件反射宜しく目を懲らしてその姿を探す羽目となった。

ザワザワと喧騒と共に移ろう人混みの中、紛れ込む様にして通りを歩く黒いフードに目が止まる。
間違いなく臨也だった。
キョロキョロと辺りを見回し、路地裏へと姿を眩ませる奴の後を追おうとして、踏み止まる。

このまま、追ってしまって良いものなのだろうか。
ふと脳裏にそんな考えが過ぎった。今から押しかけに行こうとしていたのに、俺はいざ本人を目の前にしてしまったその瞬間、内心何処か臆してしまっていたのだと思う。

もう関係ない。
奴はそう言ったのだ。
俺にハッキリと、真っ直ぐな瞳で。
俺はそれを受け入れるべきなのか、何時ものように追いかけ回してうやむやにするべきなのかを、未だに判断出来ずにいた。
煩わしい。もどかしい。胸の辺りがモヤモヤして、何だか切ない様な気さえする。

池袋にはもう来ないと言ったくせに、こうして見計らったかの様なタイミングで現れるノミ蟲に、俺の戸惑いは最早ピークに達する寸前だ。
さてどうするべきか。
そうやって頭では考えているくせに、体と言うのは正直だ。やめろと何度も自分に言い聞かせてはいるのだが、俺の足は奴が消えた路地裏へと、一直線に歩みを進めているのだから。

人混みの流れに沿い、奴が消えた路地をそっと覗いて見る。俺が葛藤している間に何処かに消えてしまったのか、奴の姿は確認できなかった。

「あー、くそっ…何やってんだ俺は。」

悩んでみたり、追い掛けてみたり見失ってみたりと、珍しく忙しい自分に腹が立つ。もう諦めてやっぱりおとなしく家でのんびりしていようかと踵を反しかけたところで、消え入りそうな会話が耳に入る。
声は遠く、ここからでは何を話しているのかまでは分からなかったが、その声には聞き覚えがあった。
正しく、臨也の声だったのだ。

立ち止まっていた俺の足が、知らず知らずその声に惹かれる様にして歩きだす。
路地に入って少し歩いたところに、奴はいた。
黒いスーツを纏った人間と何やら話し込んでいる奴の顔は確かに笑ってはいたのだが、その瞳は驚く程に冷たい。

「いやはや、これだけの情報を提供してくださるとは…正直驚きましたよ。まだこんなにお若いと言うのに。」

「お褒めにあずかり光栄です。他に得に何も無ければこれで失礼させていただきます…他にも仕事が立て込んでますので。」

「おや、つれないですねぇ…少しぐらい、お付き合いいただいても良いんじゃないですか?」

呆然とその様子を見ていた俺だったが、突如見知らぬ男が起こした行動に、ハッと息を呑む。
つつ、と、男のゴツゴツとした手が臨也の頬を撫で、そのまま顎を掴んだのだ。
段々と近づいていく二人の唇に、無意識に焦ってしまう。
何してんだ反抗しやがれノミ蟲。そんな奴手前なら簡単にぶっ飛ばせるだろうが。
言いたいことは沢山あったが、それより先に体が動いていた。
気付けば手近にあったごみ箱を持ち上げ、男の足元に向けて思いっ切り投げつけている俺がいたのだ。
ひっ、と上擦った声が路地に響く。

「こーんなところで何やってんのかなぁ、いーざーやーくーん?」

「へっ、平和島静雄!?くそっ、何でこんなところに…!」

俺の姿を確認した男が、怯えたように逃げていった。まったく以って拍子抜けである。
やれやれと言わんばかりにその背中を見つめ、そのまま臨也に視線を移したところで思わずドキリとした。

今まで見たこと無いほどの冷たい瞳で、俺を睨む臨也と目が合ったのだ。

「助けてくれなんて一言も言ってないんだけど。」

瞳と同じく冷えた声色でそう言った臨也が、プッと何かを地面に吐き捨てる。
キン、と小さく甲高い音を発したそれを視線で追いかければ、そこにはカッターの刃が静かに横たわっていた。
成る程奴もただでやられるつもりは無かった様だ。
手にもいつの間にかナイフが握られていて、思わず焦って行動に移した自分が何だか恥ずかしくなる。

「て言うか、言ったよね?もう関わるな、って。」

「あぁ?手前が池袋に来んのが悪いんだろうが!もう来ないとか吐かしやがったのはどの口だ?」

「君さ、馬鹿?俺は極力来ないって言ったんだけど?」

ああ言えばこう言う。
相変わらずの嫌みっぷりに徐々に頭に血が上って行く俺だったが、それに比例するかの様に臨也の態度は冷たくよそよそしい。
カツカツと靴を鳴らしながら歩いてきた臨也が、そっと俺の胸を押した。

「どいてよ。こんなところで君に構ってる暇は無いんだ。」

君、と、業とあのいらつく呼び名を避けている様に思えるその口調が、何故か今は俺をイライラさせた。
ジワジワと蒸し暑い熱帯夜、触れられたそこがカッと熱を持った気がして、思わず奴の腕を掴む。
戸惑った様な眼差しが俺を見つめたが、もうこの際すべて無視だ。
細い手首だった。
力を入れれば、簡単に折れてしまいそうだとも思う。
細ぇな、と思ったことを素直に口にすれば、怪訝そうな瞳が俺を貫いた。

「何なの…気持ち悪い。」

「何とでも言いやがれ。」

「ねぇ、変だよ…一体どうしたのさ。」

変だなんて分かっていた。
もうずっと前から分かっていたのだ、本当はきっと。全部分かっていた。
コイツと俺が、何処か似ている事も、俺が臨也をどう思っているかも、毎晩の様に夢に出てくる子供の正体も、全部。

正直な話し、今でもその感情を認めたくない気持ちはある。だが、いい加減見て見ぬふりもそろそろ限界だった。
俺は確かに、見知らぬ男に迫られていた臨也に何とも言えぬ苛立ちを覚えたし、正直な話し奴に会えなくて心のどこかで寂しいと言う感情を持て余していたのだ。

コイツが笑みを浮かべながら冷たい眼差しをするように、平然を装いながら胸のうちで涙を流していたのは間違いなく俺だった。
根本的なところで、俺と臨也は似ているのだ。
だから、あの子供を初めは臨也なのではないかと、そう思った。

駄々をこねたまま、むずがって、一歩も動けずに居る。あの子供は、俺だ。

掴んだままの細い腕を引き寄せ、ぐらついたその華奢な体をそっと抱きしめる。
笑える話、こんなに力を押さえ込んだのはこれが生まれて初めてだった。
驚いた様な上擦った声が上がったが、そんなのは無視だ。

「好きだ。」

「は…?え、シズちゃん?」

「認めたかないが、手前が好きなんだよ、臨也。」

「なに、それ…。」

やめてよ、馬鹿じゃないの、気持ち悪い。
そんな泣きそうな顔で言われたところで説得力が無いのを、コイツは多分知らないのだろう。

いい加減認めやがれ。
俺みたいに駄々をこねてむずがって、意地でも認めようとしない子供が手前の内に居ることぐらい分かってんだよ。
馬鹿馬鹿しい事に俺らは互いに依存しあって生きてたんだ。今まで見ないふりを続けて来たが、手前が俺をどう思ってるかぐらい知ってんだよ。

そんな思いを全て詰め込んで、もう一度好きだと伝えれば、俺の腕の中で強張っていた体から力が抜け、抵抗するように俺の胸を押していた細い腕が、縋り付くように背中に回った。

「何で、シズちゃんが認めるのさ。俺は認めたくなんか無かったのに。」

「…悪かったな。」

「俺が、どんな思いで君と、縁を切ったと思ってるの。」

「おまっ…俺だってなぁ…、」

シズちゃんさえいなければ、独りで生きて行けたのに。
ポツリと呟かれた言葉に、もう言い返す事すら馬鹿馬鹿しくなって、変わりに縋り付く華奢な体をぎゅうぎゅうと抱きしめた。苦しいと講義の声が聞こえたが、これもまた無視してやった。
本当に自分達は馬鹿だと思う。悩んで迷って突き放して、散々遠回りした結果がこれだ。
さっさと認めてりゃ良かったんだ。

ふぅ、と深く息を吐き出して、行くぞ、と奴の手を取れば驚いた様な眼差しが俺を見つめる。

「え、行くってどこに。」

「手前ん家だよ。暑くて寝れねー。」

「何それ、図々しいな。」

「今更だろうが。」

ああだこうだと悪態を吐きながらも、俺に大人しくついて来る臨也が愛しいだなんて、今まで俺は考えもしなかった。
散々遠回りしてきて馬鹿馬鹿しいとは確かに思ったが、こうして欲しかったものを手に入れることが出来たのだから、それはそれでアリだとさえ思う。

夜のネオンが彩る夕闇を見上げて、もうあの夢は見なくて済みそうだ、と、俺はぼんやり思った。



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