小説 | ナノ
※飼い犬×主人
天気予報が嘘をついた。
何が今日は良いお洗濯日和になるでしょう、だ。くそったれ。
まるでバケツをひっくり返したかの様にザアザア降り続ける雨に小さく舌打ちをし、俺は走っていた足を緩慢な動作に戻した。もう随分ずぶ濡れになってしまったのだから、走ろうが歩こうが同じだと思ったのだ。
普段着用しているファーコートが、水を含んでずっしりと重い。しかし、俺はそれを脱ぐことをしなかった。
季節は風の凍える師走。
夕刻に加えてこの雨だ。この寒空の下ではまだ、濡れたコートでも着ていた方が気休め程度にはなるだろう。
いやしかし、それにしても寒い。もう寒すぎて歯がガチガチと音を立てながら、噛み合いませんと主張するぐらいだ。
さっさと住居に帰って風呂にでも入ろう。事務所に居るであろう優秀な秘書に風呂を沸かしておいて欲しいとメールを入れ、足早に駅から事務所に戻る途中で、俺はとても珍しいものを見た。
子犬が捨てられていたのだ。それも今時珍しく段ボールに入って。
一体どこのベタな漫画だ、と思いつつ、俺は思わず足を止める。しずお、とマジックで子犬の名前らしきものが書いてある段ボールの上に、傘などは無い。正に雨ざらしの状態である。
そんな中、甘ったるいハチミツのような色をした子犬がずぶ濡れになりながら、大人しくブルブルと震えているのだ。コイツがしずおなのだろうか。見た目に反して中々逞しい名前だな、と、俺は思った。
「ねぇ、寒くないの?」
目の前に屈んで、子犬にそっと声をかける。
ソイツは俺の事をチラリと上目に盗み見て、直ぐさま視線を逸らしてしまった。
どうやら、意外と人間に媚びる様な性格では無いらしい。
「俺と一緒でずぶ濡れだね、君。」
そっと垂れた耳に触れれば、ビクリとその小さな体が跳ね上がる様にして震えた。観察する限り、人間に怯えているようにも思える。
こうして捨てられているぐらいだ、もしかしたら元の飼い主に酷い仕打ちを受けていたのかもしれない。
そう考えると、目の前でカタカタと震える子犬を、何だか放って置けなくなってしまった。俺にも一応まだ良心というものが残っていたらしい。
優しい手つきでそっと子犬を抱き上げる。
驚いた様に子犬が顔を上げたが、安心させるように頭を撫で、少しでも暖かくなるようにとコートの胸元に子犬を抱き抱えれば、どこか安心したように胸元に頭を預けられた。
「一緒に帰ろうか。」
そう子犬に微笑みながら優しく顎を撫でてやれば、ペロリと温かな舌で指先を舐められた。恐らく了承と捉えて良いのだろう。
そうと決まったらさっさと自宅に帰って体を暖めてやらねば、と、俺は足早に事務所への道を歩いたのだった。
「さぁ、着いたよシズちゃん。」
自宅までそう時間は掛からなかった。元々駅から違い場所にある、と言うのがこのマンションの売りなのだ。伊達に高い賃金を払っているだけあって、部屋は非常に広く、無駄に防音だ。更にペットを飼うのも家主の自由である。
さて、住居に着いたは良いものの、しかしこの濡れた体で玄関から室内に上がり込むのはいかがなものか。そう思案したところで優秀な秘書がタオルを片手に奥の部屋から姿を見せた。
「帰ってきたわね。」
「あぁ、波江。風呂沸かしといてくれた?」
「指示通りにしてあるわ…取り合えず拭きなさい。」
こんな時、本当に秘書というのは便利なものだとつくづく思う。帰る前に風呂を沸かしておいてほしい、とメールを入れておいて正解だった。
渡されたタオルで簡単に体を拭き、着ていたコートをクリーニングに出しておいて欲しいと波江に手渡せば、とてつもなく面倒そうな顔をされたが、そこはあえて無視だ。
「それにしても、意外だわ。」
「うん?」
「あなたに子犬を拾う程の心があったなんてね。」
「別に、ただの気まぐれだよ。可愛いだろ?シズちゃんって言うんだ。」
「ふうん…性格だけじゃなくてネーミングセンスも悪いのね。」
心外な!と、俺に白い眼差しを向ける波江に抗議をすれば、良いからとっとと風呂に入ってこいとあしらわれてしまった。
俺が付けた訳じゃないのになぁ、と思ったが、確かに体が早く暖まりたいと訴えていたので、言われた通り、子犬もといシズちゃんを連れて風呂場へと向かった。
「暖かいねー、シズちゃん。」
「わんっ!」
極楽とは正にこういうことなんだろう。冷えた体を風呂で暖めるこの瞬間が酷く気持ち良くて、無意識にまどろむ。今日は疲れたし早く寝ようそうしよう、と、決めたところで先程綺麗に洗ってやったシズちゃんを抱えなおした。
人間用のシャンプーが使えないので石鹸で洗ってしまったが、それももしかしたらあまり良くない事かも知れない。明日にでも餌や首輪のついでに犬用のシャンプーも買ってやらなくては。
溺れないようにと俺の腕に抱えられたシズちゃんが、幸せそうなつぶらな瞳で俺を見つめ、そして尻尾をブンブンと振りながら俺の顔をぺろぺろと舐めた。
どうやら初めの頃とは打って変わって、随分と懐かれたらしい。
「擽ったいよ、シズちゃん。ほら、そろそろ出るから大人しくしてて。」
「わん!」
まるで俺の言葉が分かるかの様に一鳴きしたシズちゃんと一緒に風呂から上がり、優しく体を拭いてやる。上がった途端にブルブルと水分を撒き散らされたが、犬だから仕方ないだろうとそこは多めに見ることにした。
俺もさっさと服を着て、シズちゃんの体を乾かす。波江は俺達が風呂に入っている間に帰ってしまった様だ。
波江さんお疲れ様。そして今日も本当にありがとう、と、心の中で彼女に賛辞を送りつつ、その後は暖房のついた部屋で一緒に温かい食事を取り、そして直ぐに眠る体勢に入る。
シズちゃんもお腹がいっぱいになって眠かったのか、自らベッドに飛び乗り、俺に甘える様にして擦り寄りながら直ぐさま寝息を立てた。
何だ、可愛いじゃないか子犬。俺は人間しか愛せないと思っていたがどうやら子犬も愛せるらしい。
と、まどろむ意識の中思っていたのが昨日までのこと。
俺は今、目の前の出来事に酷く狼狽している。何だこれ。何がどうなってるんだ?
「臨也…どうした?まだ眠いのか?」
「あ、あの、どちら様ですか?」
「俺のこと忘れたのか?シズちゃん、って、名前呼んでくれたじゃねぇか…。」
目の前の男の耳に生えたつやつやとした犬のような耳が、しゅんと垂れ下がる。
いやまさか、そんな、有り得ない。
俺は今、見知らぬ男と一つのベッドで向かい合っていた。見知らぬ男で間違い無いはずなのだが、あろうことかソイツは、自分は俺が昨日拾った子犬だと言って聞かないのだ。
「あぁ、そうか、昨日みたいに舐めてやれば思い出すよな、きっと。」
「ちょっ、分かった!分かったからやめっ、あっ、やぁっ…!」
男、もといシズちゃんが、尻から生える尻尾をブンブン振りながら俺の顔をぺろぺろと舐める。
顔だけで無く首筋や耳の辺りまでもを舐められて、自分でも驚く程上擦った声が出て軽く目眩がした。
「大好きだぞ、臨也。」
そう蕩けるような笑顔で言われた俺は、これから一体どうすれば良いのかと、思わず現実逃避したくて仕方が無いのであった。
あぁ、ワンダフル。