『跪き、脱帽して飲むべし』
2022/01/20 00:59

フルオーダーのスーツ、約70万円。
ルブタンのハイヒール、約45万円。
愛用のトカレフの弾薬、約一発50円、を100発分。
「トータル1155000円。経費で落とせるかしら…」
グチャリ、と赤い水溜まりを踏みつけて呟いた。

薄暗い屋敷は無駄に広い。その分、中が入り組んでいて曲がり角が幾つもあった。雇っている人間はそこまで多い様子もなく、安易に凛一人で現状どうにかなっている。少し進んだ先に、また角が見えた。愛用のトカレフはまだ僅かに熱を持っている。スライドが後ろになったままのマガジンを抜き、スーツの裏地に隠してあった新しい弾を込める。グリップの底へ挿入し、ガチッと音がするまでスライドを引いた。壁に背を預け、顔を覗かせる。男が1人。カツン、とわざとヒールの音を立てて注意を引き、頭に一発。軽い音を立てて、知らない男の命は軽く消える。

様々な武器が流通する中、凛がトカレフを愛用する理由はただ一つ。安全装置であるセイフティが付いていないこと。
ソ連軍によって改良されたトカレフは、セイフティがなければ暴発するリスクが高くなるシングルアクション方式の自動拳銃でありながら、セイフティに値するであろう装備品全てを排除している。また、極寒でも耐え得る作りが為され、丈夫で壊れにくい。
ビジネスパートナーである上司は、仕事柄もあるが、性格上でも非常に恨みを買いやすい、と長くなってきた付き合いの元、凛は結論を出した。そんな上司の仕事をサポートするためにも、迅速に敵を排除することは求められるビジネススキルの一つ。それには、トカレフという種類の武器がうってつけだったのだ。

胸ポケットから小型の発信器を取り出す。タイピンに偽造したソレは、連れ去られた時に没収されなかったようで、傷ひとつなく形を保っていた。人の気配が無いことを確認し、床に転がすと、思い切りヒールで踏みつけた。
「さて、外に出るには…」
なんせ職場へ戻る帰り道に突然連れ去られたもので、ここが何処かなどの情報が全くない。弾数はあと半分ほどあるが、常に万全を考える凛にとっては心許ない数だった。しかし誘拐時に吸わされた睡眠薬は凛には甘かった。そのため、縛られる直前に目覚めることができ、情報を吐かす前にうっかり全滅させてしまったのだ。
凛の経験から、出入り口に人間を配置するのは定石である。それに倣い、人が多い方へ敵を排除しながら進んでいたが、どうやら奥へ誘導されている様だ。『易々と攫われておきながら、情報一つないのか?』と、イマジナリー上司が凛の脳内で嘲笑う。しょうがない、とその思惑に乗ってやることにし、さらに奥へ進んだ。
繊細な扉の模様に似つかわしく無い、純金のドアノブ。立っていた見張りは声を上げられる前に撃ち殺した。銃撃の音。人間が倒れる音。そういった雑音は響いているはずなのに中からは物音一つしない。コンコン、と親切にノックをしてやると、『入れ』と声がする。陰気な男ってみんな偉そうなのかしら、と上司を思い浮かべつつ、銃を構えた。

「ようこそ我が家へ、西井凛さん――といっても、随分殺してくれたみたいで」
「招待状もなければ挨拶も無いんですもの。無礼者ばかりで、つい。でも女として当然の正当防衛ではなくて?」
顔に見覚えはない。しかし、相手はそうでもない様子で。軽口に気を悪くした様子もなく、銃を持った女相手に腰を下ろしたままというのは、舐めてるのか、奥の手があるのか。
「気の強い女は嫌いじゃない。なに、一杯どうかね?」
「結構ですわ、まだ定時じゃないんです」
「ふむ、定時」
入ってきた扉とは別に、正面に大きな窓が一つ。奥に扉が一つ。脱出経路としてはそれくらいか。執務用の机とは別にソファが置かれ、空のガラスが2つと白ワインが一瓶。一目でわかる。ピュリニー・モンラッシェ産の物だ。
「『跪き、脱帽して飲むべし』」
「ふ、聡明な女はもっと嫌いじゃない」
その男は立ち上がり、軽い音を立てて線を抜くと、自らグラス二つともにワインを注いだ。
「君を呼んだのは他でもない。うちに来ないか?」
「あら、ビジネスのお話ですか?」
「私の父が君を絶賛していてね、半年ほど前だ。同盟を結んだファミリーに覚えは?」
「ごめんなさい、守秘義務がありまして。御推薦下さったお父上はどちら?」
「なに、早めの隠居をして頂いただけさ。気にすることない」
鷹揚な動きでソファに腰を下ろすと、手で正面を示される。仕方なく、ソファに腰を下ろし、ワイングラスを持ち上げた。愛銃は離さない。
「では、契約はどの様なものになります?」
「私は定時なんて作らないさ。好きな時に仕事をして、好きな時に帰りなさい」
「お給金は?」
「今の3倍出そう。もちろん、小遣いなどは別で」
「仕事内容はどういったもので?」
「綺麗な服を着て、私のそばにいればいい。身の安全は約束しよう。ボディガードも付ける。その手の銃も、宝石に変えてやる」
「ふふ、素敵ですこと」
「では――」
男がワイングラスを掲げた、その時。
プロペラが回る轟音が段々と大きくなってきた。ガタガタと揺れる窓が光を浴びる。その瞬間。大きな音を上げて、ガラスが盛大に割れる。物理的に開いた窓とヘリコプターの風により、折角のワインは割れて空気に散ってしまった。
風に揺れる梯子から、スラリとした影が舞い降りる。後ろで纏めた髪は緩やかに揺れ、スーツの埃を払う動作は手慣れている。
「――さて凛、今日は残業でもするのか?」
「あら嫌ですわ、ボス。残業は無能の専売特許ですもの。私がしては申し訳ないです」
「なら迎えなど待たずにとっとと帰れ。お陰で仕事が増えた」
「出張費を頂けるよう、スムーズな手続きのためですわ。それに、ボスが来るなんて思わなかったもので」
「フン、馬鹿の顔を拝んでやろうと思ってな」
大した顔では無いな、と自らの美貌を棚上げして、嘲笑する男は、正しく凛のボスだった。
ボスに嘲笑われた男は、突然の事態に固まっていたが、ハッと自らを取り戻すと大きな声で喚き立てた。
「――凛!殺せ!何をしている!」
「私ですか?」
「お前の名を呼んでいるが?」
「残念だったな!その女はこの私と新たに契約――」
言い終わる前に、引き金を引いた。
「ごめんなさい。だって私、ワイン飲めてないんですもの」
頽れる男を振り返ることなく、ヘリコプターから揺れる梯子に脚をかけた。
ボスはどうやら本当に顔を拝むつもりだけだったようで、凛が殺すことを疑いもせず、さっさとヘリコプターに乗っていた。凛がヘリコプターに腰を落ち着ける頃にはつまらなそうに書類に目を落としている。
「ボス黒柳、報告致します」
「ああ」
「午前11時頃、ランチタイムに外へ出たタイミングで男4人により誘拐、30分ほど車に乗せられ、着いた先はここ。ラーホファミリー別宅。さらに30分後、大凡の鎮圧が終わったのち、発信器破壊による起動。位置特定時間は記録しています。目的は当主の息子による私への熱烈な勧誘だった様で。使用弾数57発」
「発信器と弾は補充しておけ」
「あと経費でスーツと靴、落としてもよろしくて?」
「報告書の出来を見てから考えてやろう」
「ありがとうございます、ボス」
にこり、と赤いリップの唇を持ち上げる。この時間なら無事、定時には帰路に着けるだろう。
「ボス、執務室のワインひとつ頂いても?」
「予定外の出張の慰労だ。好きなのを持っていけ」
「今日は私、ステディの所に帰りますわ。ついでに黒柳も御一緒しません?」
「あの馬鹿に私のワインは勿体ない」
「私がこっそりマーケットのワインを入れておいたので、そちらで宜しいのでは?」
「……ヘリは出さん」
「ええ、部下に車の用意をさせる様、連絡しておきました」
「……好きにしろ」
ヘリの中が一気に温度が下がった様な気がしたが、凛は崩せたボスの余裕に満足だった。
綺麗な格好で横に立つだけの仕事で飲むワインより、汚れたスーツを脱いで飲むワインが、凛は好きなのだ。



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