#HCOWDC Day3
2022/02/23 22:48

「へぇ、結婚記念日」
 その西訛りの発音はどこか楽しそうに響く。夕方から社会人の参加者が増える畠中FCは午後七時を以て練習終了となる。残り少ないライトと疎らになるユニフォーム姿の人の中、中島は十歳は上のチームメイトとともに帰宅の準備を始めていた。泥だらけのスパイク、汗臭いユニフォーム。二月も中ごろになった今、汗が滴るほどの選手たちはいっそ湯気でも立てそうなほど火照った体を夜風に晒し冷を取る。きっと通りすがりの人が見れば、それだけで震え上がりそうなほど薄着した中島に、早く着替えな、風邪ひくぞと笑う大学生もまたひざ丈のユニフォームから汗を流している。あらかた、風呂上りのような汗をごしごしと雑に拭ってから、持ってきたジャンバーを羽織る中島に、社会人の男はだから明日の練習は休むよ≠ニ残念そうに言いながら、それでもどこか幸せそうに眉尻を下げる。
「ええなあ、ラブラブやないっすかぁ!」
「アハハ、そうかなぁ」
 ええ旦那さんやあ、と囃す中島に、少し照れくさそうにしながらも悪い気はしないのだろう。新婚じゃないのに浮かれすぎかなあ、と言うその口ぶりもまた、どこか誇らしげでもあった。
「毎年花買って帰るんだけど、すぐ閉まっちゃうしね。明日は会社からダッシュして受け取りに行くよ」
「わ、かっこええー!」
 俺もそんなんシュッとできるようになりたいわあ。そう言った中島にコイビトに渡したらいいんじゃない?≠ニ小突いて笑う社会人プレイヤーのその男――吉川明輝の姿は珍しく中島の陽気な笑顔にほんの少し、照れくささを雑じらせた。

 中島が花屋に入ったのはこれが人生で初めての出来事であった。母の日や父の日に彼が贈るものは母の好きなチョコレートやケーキの類であり、ネクタイであった。もともと、中島家に花は少ない。重度の花粉症患者がいるわけでも、花に対して愛でる感情がないわけでもない――実際中島家は花見が好きだ。花より団子、になっていないかと言われれば危うい線引きではあるが――が、それでも家に鉢植えや水差しがあったことはない。少なくとも、中島修一が記憶に現存する自我を持つようになってからは。母は特に花を欲しがらなかった――花よりも焼き菓子や、化粧品を欲しがる性格だったからだ――し、父親も花より物のほうが喜びやすそうだった。だから中島家の子供たちは父の日や母の日に二人で花以外のものを用意し、また自分たちも花を贈られるようなことはなかった。無くても、困るものではない。実際中島修一自身、花を贈られるより新しいスパイクや、はやりのプロテイン、新作のゲームをもらった方が嬉しかったし、花をどうすればいいのか、そんな事考えたこともなかった。卒業式と、転校前に貰った花束は母が暫く花瓶に生けていたが、そもそも自宅に花瓶があることも中島は知らなかった。
 だから初めて入ったその店は、中島にとってまるでおとぎ話の中に迷い込んだような心地さえ抱かせた。色とりどりの花が並び、生花特有の甘いような、酸いような独特の香りが少し冷たい空気にまじって肺へと流れ込んでくる。ショウケースの中にもぎっしりと並ぶ花々はどれも美しく、そして中島を悩ませるには十分すぎた。花の名前など、ほとんど知らない。花言葉がある、というのは知っているがその一つさえ思い浮かばない。可愛らしい、好ましいと思う花はあれど、その見た目から察せる名前は一つもなかった。床の方へ並んでいる輪ゴムで束ねられたそれが仏花であることは理解できたが、それ以上は右も、左もわからなかった。
 いらっしゃい。立ち尽くす中島に背後から声を掛けた女性は、花の苗をいっぱいにはめた大きなトレイを抱えている。慌てて道を開けた中島に、彼女は少し申し訳なさそうにぺこりと頭を下げると、そのまま店の奥へと花の苗を運んでいく。丸みのあるバンは可愛らしい花屋の広告でラッピングされているが、そのバンを乗り回していたであろう彼女はどちらかと言えばクールな女性だ。そのギャップに、中島はここへ来た理由を思い出した。いつまでも店前で狼狽えている場合ではない。男ならば、腹を括らねばならぬときがある。それはまさに、今この瞬間である。中島は花に隠れた小道のような、細い入口の前へ飛び出る。こういうことを恥じらい躊躇う方がダサいのだ。堂々と、教えを請い恋人を喜ばせる男の方がずっと格好いいはずだ。
「すんません!」
 中島は叫んだ。その声は無慈悲にも、ちょうど仕入れを手伝っていた神谷に呼ばれわくわくと飛び出した赤崎の小さな肩をびくりと盛大に震わせる結果となった。

「それじゃあ、リボンの色はこの箱の中から好きなものを選んでくださいね」
 結果として、赤崎との出会いは中島に花の楽しさや愛おしさを知る素晴らしいものになった。赤崎は彼が恋人にはじめて花を贈りたいのだと聞くや否や、目をきらきらと輝かせ、たしかに決して詮索するようなことは言わなかったが、それでも沸き起こる好奇心と、恋の予感に胸を躍らせていた。神谷がそれを遠くで眺めながら肩をすくめていたが、中島は喋れ、と言われるとつい喋り倒してしまう悪癖があった。向かい合う二人の利害が一致した瞬間――そこはまるで、修学旅行の女子部屋さながらに甘酸っぱい恋の話で大いに盛り上がった。
 中島は赤崎のアドバイスに従い、吉川に似合う花を一種類と、吉川が好きそうな花をいくつかで小振りなブーケを作ってもらうことに決めた。丸みもあり花びらが多い小振りなガーベラや、華やかで豪華な八重咲のドレスににたトルコキキョウをメインに据え、ブルースタアやカスミソウの小粒で可愛らしい花をあしらい、淡い水色で包んでもらう。中島が知っている、抱えるほどの大ぶりな花束とはまるで違う、可愛らしい花束がそこにはあった。大きな花と言えば三本ほどしかなく、あとは星空のように小振りな花がふわふわと咲いている、そんな花束だ。最後に白のリボンを巻いてもらった時、中島の中に生まれたのはきっと喜ぶだろうな≠ニいう期待だけ。
「どう、かしら」
 真剣なまなざしで見下ろす中島に、赤崎が少し不安そうに男を見上げた。小さい花束は赤崎と中島が選び抜いた最高の形をもって可愛らしくそこにあった。
「めっちゃええやん…… 最高や」
 少しの安堵と、わくわくした目。赤崎もつられて口角が上がるのを感じた。花屋とはぞんがいに過酷な仕事だ。冬は冷たい水で手が強張り、裂けるほど荒れたり霜焼けになったりする。夏は水が腐ってしまわぬよう、また暑さで花が咲きすぎてしまわぬように気を配らねばならない。それでも、彼女はこの仕事が好きだった。花屋は、人に渡した花束の行く末を知らぬ。喜んでもらえればいいと思う、この贈り物が客から、その客の大切な人にとって嬉しいものになればいいと願う。それでも、花屋はそれ以上を知り得ない。花束を託し、その向かっていく背中を見守ることしかできない。それでも、こうして花束を見て勇気づけられる目を、客の姿を、見守ることは赤崎にとってやりがいになった。
「絶対喜ぶで、ホンマありがとう!」
 花束を崩さぬよう、傷つけぬよう紙袋に納めたはずが、中島は何度も袋を開いて嬉しそうにする。
「あの!」
 何度も礼を言って出ていく中島を、赤崎は追い駆け気づけば呼び止めていた。なぜ、そんなことをしたのか自分でもよくわかっていなかった、ただ伝えたかったのだ。でも何を言えばいいのかさえ、わからない。あふれる気持ちがまだ、赤崎の知らないものだったからかもしれない。
「い、いってらっしゃい!」
 これから渡しに行くねん。花束の持ち運ぶ時間を聞いた時に中島がでれでれと放った言葉。気づけば祈るようにその言葉を中島にぶつけていた。きっと驚かれるだろうな、と叫んでから恥ずかしくなった。その大声に、中島以外の通行人も何事だろうかと二人に注意を向け始めてしまった。耳が、頬が、赤くなっていく。赤崎は耐えきれず、店に逃げ帰ろうとした時だった。
「おん! 行ってくるわ!」
 ほんまありがとうな! そう言って、持った紙袋を勢いよく掲げた中島はすぐさまハッとして慌てて袋を抱え覗き込む。赤崎もその挙動には思わず逃げ帰ろうとしていたことさえ忘れて飛んでいきそうになった。少し離れた遠くから、中島が両腕で大きく丸を作って笑うと、時折振り返って赤崎に大きく手を振る。
「――よかったね」
 大喜びだったよ。神谷が赤崎に声を掛けたのは、彼女があんまりにも長い間呆然と立ち尽くしていたからだ。それは神谷らしくない、恐る恐る、といった声色だったがそれでも、赤崎はそんな神谷の声に漸く意識を取り戻したようにはっと振り返ると、まるでウサギのようにぴょんぴょん飛び跳ねて神谷の周りを何度も走り回る。驚く神谷も巻き込んでぎゅうっと高い背を抱きしめると、また大慌てでおばあちゃん!≠ニ叫んで店の奥へとすっ飛んでいく。今度は残された神谷が呆然と立ち尽くし、それからほんの少し赤くなった耳をぴくんと照れくさそうに動かした。

 帰宅してから約一時間。漸く部屋着に着替えさあ洗濯でも片付けようかと腰を上げた吉川を、インターフォンが呼び止めた。郵便かと印鑑を持って扉を開いた吉川は、目の前に現れた男に自分の甘さに絶望した。ゆるいスウェットに、兄のサンダル。手には印鑑も持った吉川に、中島は即座に姿勢を正すとお届け物でえす≠ニおどけてみせた。吉川が舌打ちしたのは自らの危機感のなさと同時に、この男の笑い≠ノ対する反射神経の、腹立たしいほどの良さに対してだ。しかし、差し出された紙袋はいつまでも吉川の前に出されたままだ。
「――これは?」
「なおに、プレゼント」
 あげる、と言う中島の方が、吉川にはまるでプレゼントをもらったかのような喜びようだと思った。恐る恐る、無地の袋を受け取った。そう重いわけでもないそれを、怖々、ゆっくりと開く。
「――え、なに、これ……」
 夕時で薄暗い中では見えにくいが、袋の中には小振りなブーケが丁寧に横たわっている。まさか花束を贈られるとは思ってもなかった吉川は、恐る恐る慎重にその青い花束を取り出した。可愛らしいそれは時折貰うような花束とは、どこか違って見えた。違和感の正体に気付いたのはその花束になったどれもが――自分好みの花だったから、だと気づいた時、思わず耳が熱くなった。
「き、急に何……」
 ぶっきらぼうな言い方だな、と思ったのは吉川だった。今まで中島は、確かに記念日に煩い男だとは思ったが、それでも吉川だってバカではない。日付の一つや二つくらいなら忘れることもない。それにスマートフォンには中島が勝手にスケジュールに記念日を登録しているのだから、忘れようがなかった。それでも今日は、なんでもない日のはず。
「んー、なんとなく、なおに花、プレゼントしたなってん」
 どう? と見上げる中島に、素直に嬉しいと言えるような男であったならもう少しくらい生きやすかったんだろうと吉川は思う。声に出していうのは、とても無理で。それでも、本当は悔しいことに嬉しいと思ってしまった。恐らく花束のせいだ、今までに貰ったお手本のような万人受けする花束ではなく、明らかにこちらの趣味を押さえて揃えられた花束だったから。ほんの少しだけ、頷くように揺れる吉川の頭に、中島はぱ、っと笑ってそか≠ニ軽くこぼしながら、だらしなく口角を上げてにやけた。まるで吉川ごと押し入るように、玄関へと滑り込んだ中島は、花束を潰さぬよう吉川を軽く抱き寄せた。普段ならうるさい、うざい、あついと照れ隠しに文句を言いながらむず痒そうにするくせに、今の吉川はまるでされるがままだった。ただ、吉川が大人しくしているのもここまでだった。
「あのぉ、受け取ってもらえたなら受け取りのサインもらえたりしません?」
 できればココに、と唇を尖らせた中島の、そこめがけて持っていた浸透印をポンと押し付けると、バカじゃねーのと吐き捨てる。
「ちっが! 唇でサインしてくださいー! ……マジで押したん? マジ?」
「キャップ付けてるわバカ…… もー帰れマジ……」
 そう言って中島を押し退ける様にそっぽを向いた吉川の、項や、耳の縁が、茹ったように赤くなっているのを見逃すような中島ではなかった。中島は明日、サッカークラブへ向かう途中で花屋に寄るだろう。今日の小さな花屋にめいっぱいの礼を述べるために。それでも赤崎は、攻防の末、中島が受理印を受け取ったかどうかの結末を――察するのみ、である。



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