黒い夜

星が一つもない、月もない、そんな夜は決まって同じ夢を見る。
5年前。
パリ、サン・ドニ地区。

『……』

「本当に外に連れ出す気?」

「2年ぶりの外だ、部屋で爪を研ぐ時間は十分に与えてやった
元々の身体能力も高い、後始末の仕方も教える時間だ」

「その割にはジン、あの子、貴方から手を離さないわよ」

「誰が調教したと思ってる
俺以外と会話する事を禁じた」

「あら、随分熱心に教育したのね」

2年という監禁生活を経て、ついに夜のパリを歩く日がやってきた。
組織に入ってすぐ俺はジンの監視下で組織のどこかの部屋に隔離されて毎日モニターと向かい合う毎日。
食事もドアの窓から運ばれてくるし、トイレとシャワーも備え付けのもの。
刑務所かと思った。
監視カメラが取り付けられているので行動は制限されるし、週に何度かジンが顔を出すだけで他は誰もやってこない。
基本的にネズミの炙り出しと、外部の諜報機関の動きを監視。
異変があればジンに逐一報告。

もう、限界…

そう思う事もあったけれど、これで組織に入れるのならとなんとか自我を保ってやり過ごした。
本当に辛くなった時は床に倒れていたので大体ジンが来てくれた。
俺は上層部しか知らない存在で、ジンが極秘で裏に置いておく猫として人権すら無視されるような人間でいなければならなかった。

「アンジュ、時間だ」

そう言われたのが1時間前。
ドアが開いて入ってきたジンに擦り寄れば、少しは楽になった。

『何の、時間です?』

「狩りだ」

『……』

俺が組織の人間として動くのを許されたということだ。
2年にも及ぶ監禁生活で学んだのは、組織にも潜り込んでいるネズミが相当いるということと、ジンがどれだけの権力を持っていて、その一存でコードネーム所持者を動かせる程だということと、俺が縋り付くべき人はあの方でもなくラムでもなく、ジンだけだということ。

「久しぶりの外だ」

『…はい』

「1泊2日の外泊だ
5分後にまた来る、用意しておけ」

用意…って言われても、クローゼットにあるのはシャツ一枚とブラックジーンズだけだし…
USPは今ジン様が持ってきただけだし、靴は…一個しかないし
着替えろって事なのかな…

とりあえず着替えてUSPをセット、靴の仕込みナイフも定期的に手入れはしていたので問題はない。
5分後に来たジンは俺を見てから頭を撫で付けた。
やってきたのはフランス、パリだった。
2年ぶりに外の空気を吸っただけで手が震えるし、俺はやっぱりこの人に大分侵されたらしい。
所謂洗脳のようなものだ。

「アンジュ」

この声で呼ばれるだけで俺は緊張も何も、怖いものなどなくなってしまうくらいには染まっていた。

「取引が終わったら呼んでやる
久しぶりの外だ、散歩でもしてこい」

「ちょっと、ジン!
貴方、その間に逃げたりなんかしたらどうするのよ?」

「それはねえよ、なあ、アンジュ?」

素直に頷く。
散歩の意味がわかっているからだ。
そっと手を離し、ジンが女と通りへ入って行くのを見る。
近くの店の階段を使って屋上に上がり、数100メートル後ろから2人を眺めて、とある建物に入ったのを確認してその場に腰掛けて待っていた。

久しぶりの外で初めての仕事場所がまさかパリなんてね…
この2年、ジン様だけが支えだった…
あの人がいなかったらどうにもならなかっただろうね…

この2年、色々な事はした。
与えられた仕事さえこなしていれば反逆の目を向けられる事もなく、ジンに縋り付けば可愛がってもらえた。
まあ、飼い主は色々と俺様な所はあってもペットの世話には抜かりなかったので問題はない。
精神的に参った時はキスくらいした。
あくまで飼い主とペットという関係だけど。
弱くなった所で甘やかされて、本当に依存症にさせるつもりだったんだろう。

…あ、連絡

端末に入ってきた連絡は、住所と部屋番号。
向かいの建物の4階部分の窓側。
屋根伝いに移動して様子を伺う。
まあ、これだけ狭い路地なら向かいの建物に飛び移るくらいどうって事はない。
靴からナイフを出す。
暫くしてジンと女は建物から出てきて端末が光ったので見たら、始末とのこと。

初仕事だし、しっかりやらないとね…

標的の部屋を確認し、屋上から足を離し壁を蹴って向かいのベランダの柵に足を引っ掛ける。
コンコン、と窓をノックすると近づいてきたのは女だったので一瞬予想外のことに気が逸れてしまった。
窓を開けた女の手にはオートマグ。

…へえ、追手が来るのわかってたわけね

「Get out.」
(失せろ)

『Fais attention à ton langage, madame.』
(言葉遣いには気をつけなよ、マダム)

引き金をにかけられた指は届かずに床に落ちた。
柵に手をかけたまま女の手首を切り落として女を床に転がす。
頚動脈に仕込みナイフの切っ先を突きつけたら喚き出したので足を離してからそっと近付いて口を塞いだ。
五月蝿い女だ。
ジンに言われていたことは一つ。
留めは頭を仕留めること。
USPを取り出して額に押し当て、何も言わずに引き金を引いた。

…呆気ないもんだね
なんか、初めての仕事だけどもっと危険な感じかと思ってた…

床に無造作に横たわった体を跨いで部屋の中を見たらキッチンには夜ごはん。
トマトのスープだった。

…フランス料理も久しぶりだね
いつもなんか質素だった気がするよ、組織には申し訳ないけど

ちょっとくらいと思って手を伸ばしたら手首を掴まれて反射的に振り返って噛み付こうとした。

「何をしてる」

『…ジン、様』

「終わったらすぐ戻れ」

舌打ちをされて手を離された。
ジンはチラッとだけ女に目を向けてから玄関の方へと行ってしまった。
取り残された俺は、舌打ちされたのが気に食わなかったのか何だったのか、人格まで洗脳されていたからかジンの機嫌を損ねることは絶望的で暫く動けなかった。

「アンジュ、何してるのよ」

ジンと一緒にいた女に手を引っ張られたのでそれを振り払う。

『ジン様に…嫌われる…』

「馬鹿ね、仕事終わったんだから長居する理由もないの、置いてくわよ」

『ジン様…』

「聞いてるの?」

ため息を吐き出した女は玄関へ声を飛ばした。

「ジン、貴方のペットでしょ?」

「アンジュがどうした」

「貴方の機嫌を損ねたって言ってきかないのよ、私の話なんて聞いてないみたいだけど?」

「言った筈だ、俺以外と会話しないと」

「それってただの独占欲なのかしら?」

「お前もアンジュに殺らせようか、ベルモット」

「嫌よ、貴方のペットになんて願い下げ」

「なら言葉の選び方には用心するんだな」

キッチンでうずくまっていた俺を立たせたのはジンだった。
ジンが戻ってきたことに信じられなくて一瞬戸惑ったものの、少し安堵して手を伸ばしたら引っ張られた。

「ズラかるぞ、お前の一喜一憂に付き合ってる時間はねえ」

『…は、い』

外に連れ出され、アパルトマンの前に停まっていた一台の黒いポルシェとハーレーダビットソン。
女はバイクに近付いてヘルメットを装着。
となるとこっちの黒い車がジン。
そう思って素直にジンについていったのだが、運転席に乗っていた男を見た瞬間に足が止まった。

あの、男…
写真に写ってた、パパとママンの結婚式にいた…あの…

「アニキ、警察が嗅ぎつける前に…誰です?」

「ジンのペットよ」

「ペット…ですかい?」

「余計な事を言うな、ベルモット」

「あら、コードネーム持ってるくらいなんだから相応のペットでしょう?
ウォッカにも言ってなかったの?」

「あの方とラムだけだ、他は知らねえ
お前にだって今日会わせる予定はなかった」

ウォッカ…?
あの男のコードネームが、ウォッカ…?

「行くぞ」

『……』

「アンジュ?」

『あ、あの人…』

「ウォッカだ」

…見つけた、見つけたよ、パパ
コイツだよ、皆のことぐちゃぐちゃにしたの…

「お前は後ろだ」

ポルシェの後部座席に放り込まれ、助手席にはジン。
暫くして車内が煙草の匂いに包まれて前の席に手を伸ばす。
そしたらすぐにジンの手に阻まれた。
本当に目敏いと思う。
煙草を咥えたままのジンは俺にアンプル剤を放った。

『…これは?』

「部屋に戻る前に飲ませるようにラムから預かった」

…睡眠薬かな
自分がどこに隔離されてるかわからないようにするなんてまだ確実に信用できると言われたわけじゃないってことか…
部屋で2年の試用期間に初仕事の後はアンプル剤…厳重だね…

パキッとアンプルを折って一気に飲み干して咳き込んだ。
視界がぼやけ、頭がクラクラする。
吐き気までしてきて四肢の自由すら効かず、そのまま重力に引っ張られるようにシートに倒れこんで意識が途切れた。
次に目が覚めた時にはいつもの部屋だった。

また、此処に戻ってくることになるとは…

床に横たえていた体をゆっくりと起こして小さくため息を吐き出した。
起きてすぐに端末をチェック。
昨日の外出時に設定しておいた監視モードを解除して、部屋を空けていた時の記録やデータをチェック。
組織内の徘徊も忘れずにしていたらドアがノックもなく開いて目を向けた。

『…ジン様?お仕事、忙しいんじゃ…』

何も言わずに部屋に入ってきたジンは俺に何かを放ったのでそれを受け取る。
それはマグロの缶詰でした。

「餌だ」

…ということは?

「お前をこの部屋から出す」

『え…?』

「お前は猫だ
内部の仕事はもう出来るようになった筈だ
あの方もこれからは外も徘徊して内部と外部を監視できるだろうと見越してそう判断された」

あの方直々に判断されたなら…まあ、監禁生活からおさらばだし嬉しいは嬉しい
だけど外に出るということは本当に放り出されるってことなんだろうか…よくわからない…

「お前が外でする事は3つだ
この部屋でしていた事の継続、外部の諜報機関の情報を集める事、そして俺への定期報告」

『…実質的には、外部のお仕事が増えただけですよね…?
ジン様にはこちらから連絡を取ることが可能になったってことですか…?』

「今まで俺に連絡するなと言ったことはねえ」

そ、そうでしたっけ…
だったら俺の精神が瀕死する前に連絡こっちからすれば良かったよ…

「ネズミ捕りもお前の仕事だ」

『…実戦ですよね』

「餌ならくれてやる、残飯に気を取られるな」

餌って…マグロの缶詰じゃないですか

「ネズミ捕りの前には連絡を入れる
そのネズミはお前が探してこい、それも仕事だ」

まあ、内部のお仕事はこれまで通りだから俺の仕事だね…

『…でもジン様になかなか会えなくなるんですよね』

「お前次第だ」

『え?』

「定期報告は時間があれば直接でも構わねえ、情報を引き渡してもらえればいい」

じゃあ、外でも会えるってこと…?忙しいのに…?

椅子から降りてジンに抱き着いた。
もっと会えなくなると思ってた。
精神状態がボロボロになった時にいてくれたこの人が離れてしまうことが怖かった。

煙草の匂い
いつものジン様の匂い…

「耳は気にかけておけ」

『あ、はい…』

俺が忘れてたよ、そんなこと。
なんだかんだ俺の体のメンテナンスも欠かさないし、飼い主としてはこの上なく良いです。
俺様だということを除けば。
唇に噛みつかれて目を閉じる。
この痛みも、匂いも、髪も、全部が安定剤だった。
これまでは。
ポルシェで適当な場所に降ろされて、その後はフランスに戻って本部へ戻った。

順応性が高くてこんなに助かったことってないよ…
組織の情報網はこっちのもんだし、2年の監禁生活の後でもこんなに元通りになるなんて

本部に戻った時にはやっと解放されたかと局長に安堵され、組織の仕事も今までと同じようにこなしてたまに入るネズミ捕りも確実に遂行した。
後にベルモットと直接会うことがあったけど、言いつけ通り話はしなかった。
そしてウォッカはジンと行動しているので必然的に顔を合わせることになったがジンが監視してくれたので無駄な会話もなかった。






『……』

目が覚めたら泣いていた。
車の中は煙草の匂いがしてゆっくりと瞬きをすると、丁度落ちた涙を指で拭われた。

「あと1分起きるのが遅かったら永遠に眠らせておく予定だった」

そんな事言って、俺がいつ起きてもそう言うつもりだったんですよね…?
わかってます

『…ねえ、ジン様』

ポルシェの後部座席で二人きりの状況をみると、ウォッカは追い出されたんだろう。
体を起こしてから肩にそっと寄り掛かったらベレッタに手を伸ばされた。

『俺、前と変わりました?』

「よく喋るようになった」

『…そうですかね』

「我儘が増えた」

『え…』

ベレッタで顎を持ち上げられ、有無を言わさず唇に噛みつかれた。
久しぶりの感覚でまた涙腺が緩む。
それから右耳にも噛みつかれてジンの服を握り締める。

「処女の匂いが消えた」

え…そ、それってどうなんでしょう…
性転換してますよ…

「何をしようとお前は俺の猫だ」

『…わかってます』

ベレッタを離されたのでサラサラの髪に手を伸ばしてさっと三つ編みをする。
やっぱり会ったらこれをしておかないと気が済まない。
少しして手を止められた。

『ジン様…今日は星も月も出てないですよ』

「それがどうした」

『…いえ、何も』

初めて仕事をしたパリの夜も、真っ暗で黒くて、星も月も何もなかった。

「夜の仕事も悪くねえ
夜行性の猫が一瞬で野生に戻る」

『今度は何か持って帰ってきましょうか、獲物の首でも』

「いらねえ」

『じゃあ…』

「お前の体だけは持って帰ってこい」

『…はい』

わかります、愛ですね。
どんなに怪我しようと瀕死だろうとジンの所に戻ってこいと、そういうことですね。

『…俺の最期でも看取ってくださるんですか?』

「お前を土に埋める作業がある」

『ジン様にされるなら、本望です』

ペットの後始末までしてくださるんですね。
感謝します。

「次は1ヶ月後だ」

『はい』

煙草を指に挟んだジンにもう一度だけ噛みつかれた。
そしてその吸いかけの煙草を突っ込まれてポルシェから降ろされた。

…ジン様と間接キスです

黒い夜には煙がよく映える。
夜道を歩きながら煙草を吹かし、街灯のない裏路地を歩いて家まで戻った。





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