都心での静かな1日

『おはようございます』

今日はよく寝た。
朝はとても静かで心地いいのだが、それがたまに不安になることもある。
しかし昨日は哀ちゃんの手料理までご馳走になったし調子もいいので静かな世界を堪能することにした。
仕事上嫌でも情報は目にするし、フランスでの職務中はインカムの連絡を聞き取るのに神経を使うし、今日はのびのび過ごそう。

『……ん?』

違和感を感じた。
左耳から音が消えていた。

何かしたかな…
いや、こういうことは前にもあったし一時的なものだ、慌てない慌てない…
山積みの仕事が一旦区切りつくとこうなることもあったし、ゆっくりして一晩寝れば元に戻るだろ、所詮はストレスだ、うん
あれ、自分ではストレスフリーな生活をしてきた筈だったんだけどな…

深呼吸をしてからシャワーを浴びに行く。
いつも以上に静かだった。
それからいつものようにパン・オ・ショコラとカフェを一杯いただいて、テレビの画面を眺める。
普段ならフランスのラジオも耳に入れるのだが今日は出来ないので仕方がない。
それから念のためジンに今日は左耳の調子が悪いことも伝えておいた。
でないと電話での仕事が入ってくるかもしれないからだ。

…暇だ

休暇とはいえ、DGSEの情報局からも仕事がないのは久しぶりだ。
これは十分に休息を取れというお告げなのだろうか。
テレビを見ても字幕はないし、読唇術はできないことはないが自信がない。
ソファーで横になっていても一向に世界は沈黙を保つだけ。

やっぱりポアロに行こうじゃないか
そして米花町散策だ…!
いや、あからさまにポアロに行くのはやめておこう、ただ単に毛利探偵事務所に行くということにしておいて…

テーブルに置いておいた携帯が光った。
画面に映し出された名前を見て反射的に通話ボタンを押してしまったのだが、何も出来ないことに気がついてうなだれた。
画面をコンコンと叩く。

『しゅーい、きょう、いい、きおえあい』

そしたら電話が切れて今度はタブレット端末の無料通話アプリから電話が掛かってきた。
指で画面をスライドさせて通話に応じ、カメラを起動させた。

おお、秀一だ…相変わらずイケメンで困るな

画面越しの彼はあまり表情を変えなかった。
小さく手を振ってから、両手で拳を握って二度下に下ろし、手を画面に差し出した。

『"元気?"』

["お前よりはな"]

『"俺だって体は元気だけど?"』

["今週の電話がまだ掛かってこないと思って此方から連絡した
迷惑だったか?"]

『"…まさか、嬉しい"』

["少し根詰めすぎたんじゃないか?
休暇なのにどうせ仕事でもしてるんだろう?"]

『"情報局からの依頼が今日やっと絶えたとこ
今日こそゆっくり過ごす予定"』

["そうしてくれ
じゃないと此方の身が持たん"]

『"どういうこと?"』

["お前に無茶でもされたら困る"]

『"…本当に心配性だね、大丈夫だって"』

["お前の心配くらいさせてもらえないのか?"]

ああ…イケメンすぎて辛い…
確実に口説かれてるような気分になります
神様、これは何の試練ですか

『"…まだアメリカに?"』

["今の案件次第だ"]

『"そっか、お仕事頑張って"』

["お前はしっかり休んでくれ”]

『"そうだね…
電話、ありがとう、すごく嬉しかった"』

["耳の調子が戻ったらまた連絡してくれ
俺はお前の声が聞きたい"]

…確実に口説かれてる気がしてきた
こんな事言われたら誰でもイチコロですよね、イケメンの知り合い持ってて良かったー

『"いっぱい寝る!"』

["じゃあ、また連絡する"]

拳を握った状態から人差し指と中指を立てて、右上から左下へと下ろす。

『"またね"』

それを見て秀一は頷き、画面は暗くなった。

あ、朝からイケメンとテレビ電話…!
しかも珍しく秀一の方から電話してくれた…!
なんて日だ…事件だ、今日は…

暇で暇でげんなりしていたのが嘘のようだ。
元気いっぱいである。
静かな都会でも満喫するとしよう。
米花町散策も楽しくなりそうだ。

『……』

甘かった。
先刻まで余裕綽々だった自分に説教をしてやりたいくらいだ。
楽しくなりそうだと言ったのは誰だ、俺だ。
商店街に行ってみれば、忙しそうにしている主婦の自転車に轢かれかけ、しまいには怒鳴られる始末。
何を言っていたのかはわからないけれど、自信のない読唇術からして多分、邪魔とかそんなような内容だ。
初めて東都環状線にも乗ってみたけど発車ベルが聞こえなくてドアに挟まれかけた。
意外と痛いし。

なんで予備の補聴器持ってこなかったかな…
完全に馬鹿だった…

それがあれば右耳で少しくらいは音を拾えただろう。
この状態で外を歩くのがどれだけ危険だったかを思い知った。
結局レストランに行くのも億劫になり昼ごはんを食べ損ねたまま米花町をまたふらふら歩くのだった。

「あ、あれって灰原さんのボディーガードさんじゃないですか?」

「何言ってんだ、光彦
ボディーガードってスーツ着てるんだろ?
あのにーちゃん、スーツ着てないぜ?」

「貴方達、ボディーガードじゃないって何回言ったらわかるの?」

「なあ、灰原
なんか雪白さん、いつもと様子が違くねーか?
なんとなくオドオドしてるっていうか…」

「馬鹿ね、あのロリコンがそんなわけ…」

ドンッと後ろから自転車がぶつかってきてコケた。
やっぱりもう今日は素直に帰ろう。
帰って一人寂しくご飯を食べてさっさと寝るのが一番だ。

「ちょっと貴方、何度もベル鳴らしたじゃない!
通れないじゃないの!」

あー…なんか怒られてる
やっぱ何時間前かの俺に説教したい…

『"ごめんなさい"』

ダメ元で、謝った。
耳を指差して、腕でバツを作る。

「…あの人、耳聞こえないみたいですね
やっぱり灰原さんのボディーガードさんじゃないみたいです」

「だから最初からそう言ってるじゃない…」

自転車のおばちゃんはちょっと納得してくれたようだった。
小さくため息を吐き出して歩いていたら、やっぱり此処へ辿り着いてしまった。

毛利探偵事務所…
と見せかけてのポアロ
やっぱ傷心には癒しだよねー…

ポアロに入ろうとしたが、探偵事務所も気になったので先に視察してみることにした。
階段を上がって事務所のドアの前で立ち尽くす。

ここが例の毛利小五郎の居場所ねえ…
コナン君もこの上で暮らしてるのか

「あのー」

コナン君、確かおっちゃんにはって言ってたけど同居者が他にいるのか?
あ、それは後で調べとくか

「あの、依頼人の方ですか?」

肩をトン、と叩かれて驚いた。
そしたら女子高生が立っていて、何か喋っていた。
その子は事務所のドアを開けようとしたので慌てて逃げた。

いや、怪しまれた…
わかってるけどこれはアレだ、うん、逃げるが勝ち
とするとあの子がコナン君と何か関係ありそうだな…スーパーの袋持ってたし買い物帰りだとしたらコナン君の同居人…
工藤新一の、同級生ってところか

焦った、と思いながら結局はポアロに入ることにした。
お昼ご飯も食べたいし。
ていうかほんとにお腹減ってるし。
ドアを開けたら、いつもの音も声も聞こえなかったから暫く呆然としてしまった。

「いらっしゃいませ
いらっしゃると思ってましたよ」

あー…安室さんだ
なんか久しぶりに会った気がする
明らか営業スマイルだけど癒されたからいいや…

「蛍さん?」

とりあえず名前を呼ばれたことは理解したので何か言おうと口を開きかけてやめた。

来てしまいました、すみません…

空いてる席に座ったらメニューを差し出されたので受け取ろうとしたら、なかなか安室さんが手を離さなかった。
ちょっと引っ張ってもダメ。

「蛍さん」

ぐっと引っ張ってもダメ。

メニューを、くれ…!
お腹が空いてるんだ、サンドイッチを食わせてくれ…!

「失礼します」

安室さんの片手がメニューから離れて髪の上から右耳に触れた。

「…補聴器、されてないんです?」

すみません、早くて唇読めません
もう一回お願いしたいところだが俺はサンドイッチさえ食えればいいんだ、そしたら今日の嫌な事も全部吹っ飛ぶ筈…

「梓さん、メモ帳か何かあります?」

「メモ帳なら…はい」

「ありがとうございます」

安室さんは俺の前にメニューを少し乱暴に置いて離れていった。
今日はこれでいいのだ。
やっとお昼ご飯だ。
メニューを一通り眺めてから頼もうとして、また一時停止。

待てよ、注文…
声なんて掛けられないし呼び止めたところでメニューを指差すのか…?

すると目の前にブロックメモをバンと置かれた。

[ご注文はお決まりですか?]

横を見たら安室さん。
小さく頷いたらボールペンを渡された。

『"サンドイッチを3つとカフェ"』

それを見た安室さんは伝票にメニューを書いていく。
それからメモをめくって新しくまた何かを書き始めた。

[どうして筆談用の紙も持ち歩かないんです?
補聴器はどうしたんですか?
そんな状態で外に出たら危険だとわかっているんですか?]

いきなりの質問攻めに苦笑。

『"起きたら今日は左耳の調子が悪かったのですが…米花町散策をしようと思いまして、色々ありましたが今日は安室さん、シフト入ってると伺っていたものですからつい、来てしまいました
すみません"』

[質問に一つも答えていただいてませんよ
帰りは送りますのであと一時間程待ってていただけますか?]

『"一人で帰れますから大丈夫です"』

[貴方って本当に馬鹿なんですね]

う…文面にされると一層グサッとくる文章だ…
なんて破壊力…

[自転車に轢かれかけたと先ほどコナン君から聞きました]

え…?
コナン君に、見られてた…?

[貴方がメニューを眺めている間に、今日は耳が聞こえていないようだとわざわざ教えてくださいました
今日はいつもより早い時間にあがれるのでサンドイッチでも食べて待っていてください
僕より先に帰ったら承知しませんからね]

それだけ書き残して安室さんはキッチンへと戻っていった。

…あ、安室さんの字、綺麗
ていうかさっきのアレをまさかコナン君に見られていたとは…情けない…

テーブルにメモを並べ直す。
しかし災難だった。
仕事がないから外に遊びに出かけただけなのにこんな目に遭うとは。

今日は調子が悪いだけだ、もうお昼食べたら帰って寝よう
明日また急に仕事が入る可能性だってある、こんなにのびのび出来る日は珍しいというのに
なんだってこんな目に…

ため息が止まらない。
目を閉じるだけで何も音はない。
コーヒーの匂い、サンドイッチの匂い、それからあの可愛い店員さんの匂いと安室さんの匂い。
癒される。
これだけでもう今日のことはどうでもいいや。
いや、電車のドアは地味に痛かった。
テーブルに残されたブロックメモとボールペンに手を伸ばす。

電車のドア、痛い
商店街の主婦はせっかちすぎる
自転車でぶつかったんだから謝罪くらいしてくれ
静かな都会最高とか思ったのが馬鹿だった
とりあえず家帰って寝たい
お腹すいた
昼ごはん食べたい

愚痴を書き殴る手も止まらない。

ご飯
安室さんのサンドイッチ
カフェと新聞
ラジオ聞きたい
テレビつまらない
字幕もっとつけろ

一通り書いた所で皿を目の前に置かれた。

[溜め息をつくと幸せが逃げますよ]

ご丁寧にメモがついていた。
今時こんな事を言う人がいたのか。
俺の愚痴の上に容赦なく置かれるサンドイッチの皿。

[コーヒーは食後にお持ちします]

二つ目の皿にはそのメモがついていた。
三つ目の皿にもメモがついていた。

[今日はコーヒーサービスしておきます]

なんということだ。
顔を上げた時にはもう安室さんはキッチンに戻っていたし、なす術もなく素直にとりあえず食事をすることにした。

美味い…
これは流石すぎる、そんな大食いじゃなかったんだけどこれなら何故か3皿くらいぺろっといけちゃうんだよな
そしてエプロン姿の安室さん、最高です…
今日来て良かった…
やっぱりやさぐれたら癒されるのが一番だな、イケメン最高です
可愛い子も最高です

「彼、いつも美味しそうに食べますね」

「蛍さんですか?
見ていて気持ちがいいくらいです、作り甲斐がありますよ」

お腹も空いていたのであっという間に食べてしまった。
今日はもう一皿いけそうなくらいだ。

「コーヒーです」

カフェもちょうどいいタイミングで運ばれてきた。
完璧すぎないか、この喫茶店。
ゆったりとした時間はまさに癒し。
再びボールペンを手にとってメモに色々書いていく。

癒し
サンドイッチおいしい
カフェおいしい
お姉さん可愛い

満足である。
カフェを飲み干したらスッと目の前にメモを一枚差し出された。

[感想は食べ物と梓さんだけですか]

ん?

伝票を置いた安室さんがジロリと俺のメモを見ていた。
あ、また機嫌悪そう。
何かしただろうか。

[今日の接客、僕なんですけど]

『"いつも通り、丁寧な接客だと思いますよ?"』

あ、もっと機嫌損ねた…
えっと、何かいけない事書いたかな…

苦笑してメモを見返す。

『"いつもより丁寧な接客でした!"』

慌てて書き直して渡してもあまり効果がなかった。

あれ、もしかしてそういう問題じゃなかった?

安室さんは溜め息を吐き出したので、さっき皿に貼られていた幸せが逃げますというメモを差し出す。
苦笑された。
一体どういうことだ。
とりあえず会計を済ませてから、一枚だけメモに書き付けておく。

あ、安室さんのメモ持って帰ろう…
こんなのレアだよね、イケメンのメモ…

上がりだという安室さんはまた白いRX-7を回してくれて、助手席に乗り込んだ。
確かにきちんと消臭されていた。
携帯の画面で文字を打ち込んだ安室さんは俺にそれを渡してシートベルトを締める。

[危険なことは避けてください
もう補聴器もなしに出歩くなんてことはやめていただきたい]

うーん、確かに危険だったかもしれない
俺の考えが甘かったのは確かだし

『"気をつけます"』

そう打ち込んで携帯を返した。
工藤邸の前で車が停まったのでシートベルトを外す。
安室さんの肩をトン、と叩いて頭を下げる。
ダメ元で手を動かしてみた。

『"今日、後悔したことが一個あります”』

安室さんが理解してくれたかはわからない。
さっきポアロで最後に急いで書き付けた一枚のメモを差し出してから、もう一度頭を下げて車を降りた。

[安室さんの声が聞きたかったです]

恥ずかしい。
早足で工藤邸に入って玄関のドアを閉める。

イケメンて俺にここまで言わせるんだね、すごい…
普段ナンパされたってここまで俺言ったことないからね…!

俺は悪くない、と思い込むことにしてテーブルに置きっ放しにしていた補聴器に手を伸ばしてやめた。
今日だけは静かな1日として過ごすことにしよう。
嫌なことは忘れよう。
今日はそこそこいい日だった。

寝よう!






「言い逃げって流石にずるいんじゃないですかね…」

メモを運転席のサンバイザーに挟んだ後、RX-7は静かに工藤邸から去っていった。





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