爪を切った。
みんなにとっては至って普通のその行為は私にとってしてみればものすごく、それこそ世界の終わりかのごとく特別な意味を持つ行為だった。
「もう終わりにしませんか」
強い意志と、それでも捨て切れなかった躊躇いとが混ざったような声と表情で君が言った。暮れていく夕日は沈みかけても尚ギラギラとあたしたちを照らし、その足元に二人分の影をつくりだした。
「もううんざりなんです。君のワガママもヤキモチも全部、全部」
吐かれている言葉はとてつもなく酷いことなのに、アレンが言ったその言葉に優しさを感じてそれから私は何も言えなくなった。
(嘘つくの下手なくせに、)
事の発端は私にあり、それ故に私は彼の優しさを無下には出来なかった。わかった、今までありがとう。そんな薄っぺらい言葉で終わってしまうのかと笑いそうにさえなったけれど、彼の顔を見たらそれ以上何も言えなくなってしまった。
明日のこの時間、私は空港で重いスーツケースを引きずっていることだろう。数時間も経てばあっというまに言語も文化も全く異なる見知らぬ国の地面を踏んでいる。ホームステイ先の家族に歓迎されて、明日からの生活に期待と不安を抱きながら眠る。きっとそれの繰り返し。2年後には帰ってくるつもりだけれど、それすら危ういのかもしれない。
ずっと憧れていた留学の2文字が実現しそうな手前で、アレンは私に「ずっと僕の傍にいて下さいね」と笑いながら言った。きっと深い意味のない、極めて自然な愛の言葉だったのだろうが、その一言がズシリと私にのしかかってきて、私は手続きの紙とパンフレットを丸めてゴミ箱に放り込んだ。それほどにあたしは彼を愛していたらしい。けれども、彼はそれを見つけてしまったのだろう。どうりで別れる直前までやたらとそわそわしていたわけだ。
彼が綺麗だと褒めてくれた長い爪を切った日、爪と一緒に色んなものが落ちていった気がして私は爪を切りながらたくさん泣いた。私の夢が叶うまで待ってて、だなんて言えなくて、あの時パンフレットを部屋のごみ箱じゃなくてシュレッダーにかけてすぐに捨ててしまえば良かったなんて今更どうしようもない後悔に駆られた。
閉じた瞼の裏であの日のアレンの今にも泣き出しそうな顔がちらついた。泣きたいのはあたしの方だったのに。
優しさのはかり間違い