※黄青寄りの青黄青










 目と鼻の先まで、端正な男の顔が近づいた。思わず仰け反り、部屋の壁際まで押し寄せられる。他人の匂いが充満し、時折香水の香りが鼻を掠める室内は、とても男を連想させるものではない。
 「青峰っち」と切なげに名前を呼ばれ、俺は思わず鳥肌を立てた。黄瀬の瞳からは、確かに劣情の色が見え隠れしている。
 さて、どうしてこうなったのだったか。
 部活の帰り、二人きりになった部室で、女性経験についての話になった。中学生で既に女性と体を交えたという話は、ないことはないが、あまり耳にしないし少ないことなのだろう。自分もその中の一人だったが、黄瀬に先を越されるのが何となく癪で、考えなしに性行為を経験したことがあるのは当然だ、と答えてしまった。
 それなら話は早いと近所のビデオレンタルショップまで連れられ、数本のアダルトビデオを借り、黄瀬の家へと招かれた。「最近恋人と別れて溜まってたんスよ」などと宣巻く黄瀬にテレビの前にあるベッドへ座らせられると、俺はそこで初めて、動く性行を目にした。
 雑誌などを介して写真で見たことはあるものの、実際に嬌声を聞いたことはこれまで一度もなく、かなりの衝撃だった。
 知ってか知らずか、黄瀬は「この女優うるさい」だの「臭い台詞っスね」だの、次々と文句を言う。他の情事について全くの無知だったため、熱る自身のやり場のなさに、ただただ黙るしかできなかった。
 処理に困っていたところ、終わったらしいDVDを黄瀬は取り替える。耳に数度、軽く残る程度の機械音が響いて、再生され始めた。
 先ほどの物は男性視点で撮影されていたものだったが、これは違うらしい。男性が主な視点であることに変わりはなかったが、しっかり顔も映っている。更に大きな違いといえば、序盤から女性の姿があまり見られないくらいだな、程度にしか思わなかった。
 しかし、話が先に進むにつれ、何か様子がおかしい。いつまで経っても女性一人出てこない上、唐突に男同士でキスをし始めたのだ。まさか同性愛の動画を見る日が来るとは夢にも思っておらず、あまりにショックで、呆然と男同士の縺れ合いを眺めた。暫くして、慌てて黄瀬を見る。詰まらなさそうにじっとテレビを眺めていたが、視線に気付いたのか、にやにやと笑いながらこちらを向いた。
「なに、もしかして男同士のに興味あんの?」
 ぐい、と迫る黄瀬を「違ぇよ!」と撥ね退ける。余裕そうにけらけらと笑う黄瀬が腹立たしく、ここで動画を止めれば何かに負ける気がする、という意味の分からない対抗心に火がついて、結局中断することなく流し続けた。
「お前こそこんなの借りるなんて、もしかしてゲイなんじゃねえの」
 からかうつもりで軽く黄瀬の肩を押しながら言う。恐らく誤って選んでしまったものなのだろう、そう思いながら「そんなことないじゃないっスか」という言葉を待った。
 だが、一向に返事が返ってくる様子がない。訝しんで、見ると、ぱちりと目があった。笑い声はなく、表情が動くこともない。そこで一つだけ思い当った。
「黄瀬、お前本当に」
「そんなことあるわけないじゃないっスか、青峰っちビビりすぎ」
 先ほどまでの真摯な顔つきはどこへやら、あっけらかんとした態度で黄瀬は言ってみせた。「考えたこともなかったしね」とリモコンを手に取り、停止ボタンを押す。室内に広がっていた男の唸るような喘ぎが消え、安堵した。やり場に困っていた性器はすっかり萎えていたので、男同士の性行為を見たのは間違いでなかったと思うことにする。
「でも、興味はあるかも」
 白いテーブルの上にリモコンを置きながら言う黄瀬を、思わず二度見た。「ね」なんて笑顔を浮かべる黄瀬へ苦笑しか返せない。
 座っていたベッドに黄瀬が手をつき、ぎしりと音を立てながらその端正な顔を近づけてきた。
 そして冒頭に至る。
 同性愛に偏見を持つつもりはない。だが、自分がそんな目で見られるとなると話は別だ。しかし一方で、モデルを生業としているだけある整った顔立ちに、黄瀬なら良いかもしれないと思った。
 近付く唇に縛り付けられたように体が動かない。鼻の先が付き、冷やりとした。滑らかな肌の感触に眩暈がする。
 一瞬のことだった。
 閉じられた黄瀬の目蓋がゆっくりと開く。唇に張り付いた温もりが、やけに生々しい。長い睫毛が黄瀬の目を縁取り、艶のある雰囲気に彩りを加えている。獣のような瞳に捕らえられた時、とっさに黄瀬を突き放していた。鈍い、体と壁のぶつかる音が耳にこびり付く。俺が肩で息をしている間も黄瀬は無言で、呼吸の音一つ立てなかった。
「……引いちゃった?」
 自嘲して口角を上げる黄瀬に掛ける言葉が見当たらない。乱雑に置かれた鞄を掴み、逃げる様に去るしかできなかった。





 * * *





 無言で差し出された手に、反射的に後ずさると、すぐさま笑い声がした。
「なにも取って食おうとしてるんじゃないんだから」
 忘れ物を届けに来たのだという黄瀬は、不自然なほどに普段と変わらなかった。昨日のキスのことなんて忘れた、とでもいうような振る舞いが、逆に違和感しか生まない。部活のことを話題に上げて絶えなくなった黄瀬からの一方的な会話は、俺の目にはどこか痛々しく映った。
 黄瀬の話を受け流す間、あの時のことを考える。
 女性と体の関係を持ったことがあるが最近ご無沙汰で、欲求不満だからアダルトビデオを見よう、と持ちかけた黄瀬は、確かに、女ではない男の俺とキスをした。軽く触れるだけのそれでも、何度かしたことがあるのだろう、とわかるくらいに上手かった。と思う。異性だけでなく、同性相手にも怯むことなく、それはできるものなのだろうか。
 ほんの憶測にすぎないが、一つ理由を想像した。あの時と同じことを。
「黄瀬って、ゲイ?」
 ぴたりと黄瀬の口が止まる。大きく目を見開く姿を見て、声に出してしまっていたのか、と漸く自覚した。
 「やだな」と黄瀬は笑む。
「そうだったらどうするの?」
 何も言葉が出てこなかった。は、と息が漏れる。廊下の窓から照る光が、黄瀬を覆うのを、じっと見ていた。金の髪が今は黒く塗りつぶされているようだった。





 もしかすると、黄瀬は俺のことが好きなのではないだろうか、と思うことが、何度もあった。ワンオンワンを申し込むときの視線や、肩を抱き合ってじゃれた時の目、ベンチで俺のプレイを眺めるときの表情が、とても憧れだけで片付けられるものではないのではないか、と。キスをした、あの時だって。
 あまりに尻尾を振って追いかけてくる黄瀬に対し、冗談のつもりで「お前、俺のこと好きなんじゃねえの?」と問いかけたことがある。あの時に空いた一瞬の間も、今思えばその証拠だったのではないか、と。
 考えれば考えるほど、頭の中がごちゃごちゃになる。本来ならば気持ち悪がるべきところなのに、なぜかそう出来なかった。単に無意識化で同性愛への偏見とも取れる思考を避けようとしているのか、それとも。
 整理がつかず、頭を冷やすために家を飛び出した。
 行く当てもないまま、ふらふらと街中を歩き回る。電車を何本か乗り継いでついたここは、あまり見覚えのない場所だった。唯一分かることと言えば、夜が更けてきている今でも、喧騒が止まないどころか、益々賑わいを増してきているということだけだ。
 だが、少し路地に足を踏み入れれば、大通りの騒がしさが嘘のように静かで、しかし光の色は目に痛いくらいになってゆく。通りに並ぶ怪しい看板を見て、きっとそういった類のホテル街に出てしまったのだろうと理解した。
 男女が揃ってホテルに消えて行く。それを見た時、先日の動画を思い出し、思わず赤面した。頭を何度も犬のように左右に振り、記憶を消そうと努める。通りがかったカップルの女性がぎょっとして振り返るが、気に留めず溜息を吐く。落ち着いたところで顔を上げると、視界の隅に見慣れたものが映り込んだ。
 金の短い髪が、ネオンの中に揺れている。白い肌の中にあるその顔は、紛うことなく黄瀬のそれだった。
 どうしてここにいるのだろう。
 目を背けられずにいると、辺りを歩く人と同じように、黄瀬の傍らにも連れがいることに気付いた。
 こんな場所を歩いているのだ、道に迷うか、自分のような人間でない限り、ここにいる理由はそれ以外にないだろう。しかし、どこかで黄瀬はそうじゃない、と否定していた。
 歯を食いしばり、その相手を見る。黄瀬と付き合うほどなのだから、余程の美人な女なのだろう。視線をずらして見れば、そこにいたのは、期待とは全く違う、男の姿だった。
 かっと顔が熱くなる。足は勝手に二人の元へと駆け出して、脈拍は早くなる一方だ。口が動き「黄瀬」と叫ぶ。目を丸くして振り返った顔に向け、衝動的に拳を振り翳していた。殴った黄瀬の顔が止まって見え、聴覚が消える。瞬きをして次に見た時、黄瀬は地面に倒れ込んでいた。頬が赤くなっている。歯にぶつかり口の中が切れたのか、黄瀬が唾を吐きだすと、唾液に血が混ざり、赤くなったそれが地面に落ちる。呆然とする黄瀬にかまわず胸倉を掴み上げた。
「お前が好きなのは俺だろ!」
 黄瀬は大きな金の瞳を丸くし、それを睨みつけた。だが、薄く開いた唇が不意に動き「消えろよ」と、かつて聞いたこともない低く冷ややかな声が聞こえ、驚きを隠せない。だが、どうやらそれは俺ではなく、連れの男に向けられたものらしかった。男はいくつかの文句を言うが、黄瀬の威圧的な態度に口を噤み、背を向けて走って行く。
「……あれ、良かったのかよ」
「邪魔してきたのは青峰っちでしょ」
 ジーンズに軽くついた砂を払い、黄瀬は言う。自分で怒鳴りつけておきながら、申し訳なくて眉尻を下げた。殴りつけた後になって気付いたが、決して恋人同士でホテルを選んでいたというわけでもないかもしれないのに。
「じゃあ、行こっか」





 行こっかって、どこに。という問いは、引かれた腕によって消され、いつの間にか手近なホテルの一室にいた。先にシャワーを浴び、今は黄瀬が浴室にいるが、いまいち状況が掴めていない。頭を抱え、柔らかなベッドに倒れ込む。心地好い感触にまどろんだ。大分安い料金だったため心配していたのだが、欠陥のホテルではないらしい。
 重くなる目蓋に身を任せようと、目を閉じかけた。が、今の状況を思い出して跳ね起きる。このままでは貞操の危機だ。ファーストキスはおろか、初体験まで男に捧げることになるなんて、とんでもない。
 罪悪感はあるが、黄瀬がシャワーを浴びている間に抜け出さなくては。
 ベッドに手をついて立ち上がろうとした時、脇に設置されている棚が目に付いた。
 正直なところ、棚だけではなく、室内のあらゆるものに興味がある。どれもこれも新鮮で、どれにでも手を伸ばしたい。……噂に聞いていた回るベッドがないのは、少し残念だが。
 逃げ出さなければいけないとわかっていながら、後学のためだと言い聞かせ、室内の物色を始める。一番に手を付けたのは、とりわけ気になっていたベッド脇の棚だ。全部で三段のその棚の上には、クリアファイルと電話が置いてある。クリアファイルにはメニューが挟まれているらしく、コスプレ用の服の種類や料理の名前も載っている。カレーやラーメンという文字を見ただけで腹が鳴り始めたため、開いた後にすぐ閉じた。流石に注文できるほどの金も時間もない。
 次に、棚の上段を開く。現れたのは数個の箱だ。それがなんなのか判断がつかず、よく見ると、極薄だとかいちごの香りだとか書いてあり、次いでコンドームの五文字が見えて、すぐに棚を閉じた。
 二段目には何もなく、最後に三段目を開くと、ピンクや黒の様々な道具が出てきた。球体の物や男性器の形を模したものがあり、思わず手に取ってまじまじと見つめる。大きいのか小さいのかは判断できないが、男性器の形をしておきながら色が黒いため、生々しさはあまり感じなかった。かといって、見ていて気分の良いものでもなかったが。
 元々あった場所に置こうとするが、根元のあたりに一つボタンを見つけ、思い留まる。思い切ってスイッチを押すと、黒い性器がモーターの音を響かせて、うねうねと左右に動き出した。
 ありえない動きに数度瞬きをして呆けた後、何が面白いのか自分でもよくわからないが、笑いが込み上げてくる。暫くは耐えていたが、我慢ならなくなり、声をあげて笑った。何だこれ気持ち悪い、とモーター音が聞こえるごとに笑う。そのため、黄瀬が浴室から出てきたことに気付かなかった。
「何それ、誘ってんの?」
 黄瀬の声に笑い声も手も止め、機械音だけが室内に響く。身構えたが、襲いかかってくる素振りも見せず、黄瀬は傍に腰かけた。途端に馬鹿馬鹿しくなり、手に持っていたものを棚にしまう。少し距離を取り、隣に座った。
「それとも、使ってみたいとか」
 僅かに横にずれて近付いた黄瀬から、同様に体を動かし距離を取る。「酷いっスよ」と泣き真似をする黄瀬にうんざりしつつ、普段と変わらない姿にほっとした。ただ、やはり言葉一つ一つが冗談だとは受け取れない。
 会話が続かず、目のやり場にも困り、頭を掻く。「あのな、その」そう言って続く言葉を探した。
「お前って、さっきの奴と付き合ってんの?」
 男の姿を思い出す。親しげに笑い合っていたが、恋人とも決めつけられない。意を決して問い掛けたが、期待している答えは一つだった。
「違うよ」
 答えに驚きつつ、願っていた返事に胸が晴れる。勢いよく顔をあげて黄瀬を見ると、その目元は笑っていない。
「って、言って欲しかったんでしょ」
 手首を掴まれ、痛みに顔を顰めた。想像以上の力で、手の甲に血が届かないのを痺れで感じる。甲には血管が浮かび上がった。
「青峰っちの思ってる通り、あの男とは恋人で、さっきはセックスするためにホテル探して歩き回ってるところだったっス。最近ヨリ戻したばっかなの、何だかんだで気も合うしさ。あいつゲイだし。俺だってゲイだ。……幻滅した?」
 黄瀬の掠れた声が、聞いていられないほど痛々しかった。悲痛な叫びが胸中から漏れ出してくるような告白に、肯定なんてできない。「いや」と頭を振ると「青峰っちは優しいね」と返った。
「ねえ、どうしてあの時、あんなこと叫んだんスか」
 黄瀬の胸倉を掴んだ時のことを指しているのだろう。
 自分だってよくわからなかった。黄瀬からの好意を独占したい、子供染みた欲のせいだったのだろうか。それとも、俺も黄瀬を。どちらも上手く噛み合わないような気がする。
「それは」
 曖昧なままの答えは、ついに音になることはなかった。黄瀬の、答えを拒むような、その唇で。
 それが二度目のキスだと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
 一度目よりも荒々しいそれに、初めは抵抗を見せるが、次第に身を委ねるように瞳を閉じる。口端から漏れる息の温かさに、凍り付いていた体中の筋肉が弛緩する。薄く目を開くと、酷く必死な黄瀬がそこにあった。
 ゆっくりと男の重みが肩に落ちた。そのままシーツの上に雪崩れ込み、堅い体を受け止める。
 その晩、俺は黄瀬に抱かれた。


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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