こちらの作品から少し続いていますが単体でも問題ありません。年齢操作を含みますのでご注意ください









 大学を卒業して数年たち、企業を興して、多大な利益を得た。スポーツと関わらない現在自分が身を置いている世界に、中学や高校の記憶など付きまとうことは殆どなかったし、あって欲しくもない。そんな中に突然現れたのが、学生時代以来会話の一つもしたことが無い、紫原だった。
 アポも無しに会社のエントランスで、困惑する受付に「赤司に会いたい」「赤司はどこにいるの」と追求する姿を見たのは、本当に偶然だ。それは今日が、欧米諸国との諸々の取引を終えて帰国した日であって、本来ならば一日休暇を取る予定だったのだから。
 それなのに会社へ来たのは、今回の案件をまとめるため、定例会議用のUSBメモリを使用したかったからだ。紫原の姿を見て、明日でも良かったかもしれないと、後悔はしている。
 気付かれないように放置しておくだけでも良かったのだが、エントランスで騒がれていては困る。名前を呼んでやれば、彼は、学生時代にそうであったように、優しく笑っていた。




 自分でも殺風景だと思う自宅は、高層マンションの十六階にある。煌びやかにまとめられたホールや渡り廊下を抜け、自分のテリトリーに入ると、雑誌でよく見かけるようなありふれた部屋が現れる。白いテレビラックと、四十六インチのテレビ。白い壁と黒いカーテンに、テーブルはガラス製のもの。モノクロにまとめられた室内は、生活感が無いように思う。
 今日は普段と違い、黒いソファに座る紫頭の頭が、珍しい。
 来客用に用意してあった茶菓子を出すと、無遠慮に頬張り始める。流石に大人になって、両手に歌詞を抱えて食べ歩くことはなくなったようだが、昔とあまり変わらない姿に安堵した。
 コーヒーでも構わないか、と聞くと、ただの水が良い、と返ってくる。自分のためだけにドリッパとフィルタを取り出すのにも気が引け、インスタントコーヒーで済ませることにした。
 グラスにミネラルウォーターを注いで、紫原の前に出してやる。自分の手元にはコーヒーカップを置いた。しかし、相変わらず紫原は菓子に手を伸ばすばかりだ。
 紫原は、一向に会話を始めようとしない。かといって、もう何年も会っていないというのに、特に話題が無く、自分から話しかけることもしなかった。仕方なくノートパソコンを開き、取引のまとめを始める。
 学生時代、こうした状態は、幾度となくあった。求めるのは互いの存在だけで、会話が無くとも、心が安らいでいたと思う。しかし、今は。
――息が詰まりそうだ。
 キーボードを叩く音ばかりが、室内に響く。紫原の口内には、次々と菓子が消えていった。ただそれだけだというのに、この空間が酷く重苦しいものに感じられる。それはきっと、自分だけなのだろう。紫原と最後に出会ったあの時、あの拒絶をあまりにも重く受け止めていたのは、自分以外にいないのだろうから。
 やはり会社のエントランスで騒ぐ紫原は、あのままにしておくべきだったのかもしれない。
 後悔しながら、軽く唇を噛んだ。乾燥していたようで、ざらざらしている。水が足りないのか、それとも。
「赤ちん」
 今の今まで自分に向けて発せられることのなかった紫原の声が、唐突に飛んできた。パソコンのディスプレイから顔を上げてみると、先程まで深皿に詰まっていた筈の菓子がすべてなくなっている。足りなかったのだろうか。
「……敦は相変わらずだな。貰い物であれば、まだあった筈だけど」
「赤ちん、違くて」
 押し入れにしまったままの貰い物の茶菓子を取りに行こうと立ち上がるが、紫原に手首を掴まれ制止される、思いの外強い力だったが、顔色一つ変えず、掴まれた手首を見た。元々白い方だった手の色が更に白くなり、僅かに青みを帯びる。手の甲に徐々に浮かぶ血管が生々しい。
 手のひらにしびれを感じ始めた時、紫原は薄く青くなった、血管の浮き出た手を見て、慌てて手を離した。少し動かしてみるが、殆ど感覚はなく、ただ、じんじんと鈍い痺れが広がっていく。
「ごめん」
 酷く申し訳なさそうな表情をする紫原に「気にしていない」と返す。それでも、掴んだ後の残った手首を見て、触れ、優しく撫でてきた。それがあまりにも優しげで、手を振り払ってしまう。
「……それで?」
 ソファに再度腰掛け、紫原と向き合った。ノートパソコンを開く気には、到底なれない。
 手が痺れてしまうほどに強く引き止めたというのに、紫原は口籠る。何度か瞳を左右に動かした後、紫原は、彼の脇に置いてあった鞄から、一冊の雑誌を取り出した。それは、一般にそれなりの人気を博しているライフスタイル雑誌で、コンビニや本屋でよく見かけるものだ。表紙には"美男子若手社長の素顔に迫る"と大きく書かれており、中央には、どこか愁いを帯びた表情の、自分の姿が映っている。……先日「新興企業だというのに瞬く間に発展を遂げた会社の責任者である、貴方の記事を書きたいのだ」と会社にまで訪れた雑誌記者の取材に応じた際、撮影されたものだったと思う。紫原はその雑誌を、睨むように見つめていた。
「たまたまコンビニ行ったら、見つけて。赤ちんが写っててびっくりした」
 何故か徐々に歪んでいく紫原の顔に、泣きたいのはこちらの方だ、と胸中で一人ごちた。
「今までもずっと赤ちんのこと探してた。電話にも出ないし、メールも返事ないし、なにやってるか、どこにいるか、高校卒業してから何もわかんねーし。だからこれ見つけて、会社調べて、そしたら赤ちんに会えるって思って」
 ウインターカップが終わったあの時、会いたくない様な事を仄めかしたのはお前の方だろう。そう言いたいのをぐっと堪え、ただ紫原を見た。
 何度か紫原から連絡が来ていたことは、知っている。電話には出なかったが、時折送られてくるメールは返信しないものの必ず見ていた。初めのうちは、ほんの些細な近況報告を。「ここの大学に入ったよ」、「バスケやってるよ」、「新作のまいう棒が美味しいよ」と、身の上話ばかり。しかし日が経つにつれて、「赤ちんと一緒にバスケやりたい」、「赤ちんは今どうしてるの」「成人したから、今度一緒に飲みに行こう」と、こちらに話題が向くようになった。
 嬉しくない、と言ったら嘘になる。しかし、紫原と再会したところで、恐らく以前のように、一緒にいる必要などないのだと言われるのだろうと思っていた。だから、こちらから拒絶する他になかったのだ。
「そこまでして、どうして僕を」
 あの時の言葉を覆してくれるほどの、紫原の言葉を期待していた。それは寧ろ期待というよりも願望の様なものだったが。
「逆に、赤ちんはなんで、俺のこと避けてたの」
「それは」
 言うべきなのだろうか。言葉に詰まって、口を開けたまま静止した末に、俯いた。
「敦が言ったんじゃないか」
 我ながら、なんて女々しいのだろうか、と情けなくなって、拳を握る。
 ウインターカップ後のあの時の、紫原の言葉が蘇る。赤ちんとは、違う所に行きたい。何度繰り返したって忘れてしまいたい言葉で、けれど脳の奥から離れることは、決してなかった。
「……あれはね、赤ちん」
 少し悩んでいた紫原だったが、何を指されているのか、気付いたようだ。頭に大きな手を置かれる。学生時代から変わらない、大きく節張った手だ。
「赤ちんと一緒にいたら駄目だと思ったんだよ。赤ちんといると、赤ちんが優しくて、甘えちゃうし」
「それは、僕の行動が迷惑ということか?」
「違くてさ」
 紫原にしては珍しく強い語勢を伴って、否定を返される。驚きを隠せずに体を跳ねさせしまうと、困ったような紫原の表情が視界の隅に映り込んだ。髪が乱れてぐしゃぐしゃになるほどに掻き回される。
「駄目なんだよ。俺、赤ちん無しじゃ、生きていけなくなる」
 乱暴に頭を掻き回していたというのに、今度は胸の中へ飛び込んできて、胸に顔を埋めている。久々の感覚がむず痒く、目元が熱くなった。
 力強く背中にまわされた腕が体を締め付け、少々苦しいが、どこか甘い痛みを持つそれが、心臓を掴む。
「敦は馬鹿だな」
 今度はこちらから紫原の頭を撫でてやる。少し顔を上げた紫原が破顔して、幸せそうに笑んだ。
「うん、馬鹿だよ、だって、もっと赤ちんがいないと駄目になったし。最初っから一緒にいれば良かったね」
 視界が歪んで、目尻に雫が浮かび上がる。紫原はそれを掬い取って「なんで泣いてるの」と笑いかけてきた。「泣いてない」と言えば、「そうだね」と笑うが、それでも尚目尻から雫を何度も掬う。最後には、まるで飴でも舐めるかのように、瞼ごと舐めとった。
「もう俺、赤ちんがいないと死んじゃうよ」
 こちらとて、そんなのとっくの昔からだ。





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