数学の授業を終えて自分の教室に戻ってくると、あたしの机の上には一冊の本があった。
その本は数学の教科書で、当然だけどあたしが持っているものと全く同じ。この授業は他クラスと混合で組分けされてる授業(どうやって分けてるかは、とか先生は教えてくれなかった)だから、さっきの授業であたしの机を使っていた誰かが忘れていったのだろう。
よく分からない、三角形が描かれた表紙をひっくり返し、裏の名前欄をみる。
何も書かれていなかった。
教科書を机に戻し、椅子に座り、考える。
名前を書けと教えられていなかったのか。てか書けよ。名前が分からないんじゃあ、返すにも返せないじゃないか。でも隣のクラスの人だったらどうしよう。隣のクラスって行きづらい。扉をがらっと開けて「〇〇さんいますか」もしくは「この教科書誰のですか」と交流のない同級生に尋ねる、あの行程があたしはどうにも苦手だった。簡単に言えばチキンなのである。
もし、この教科書がチャラ男のだったり、ギャル系の人のだったらどうしよう。いや、めったに居ないと思うけれどさ。
いや、でもこの状況で教科書の存在を無視するのは良くないんじゃないか。先生も言っていたでしょう、人を見た目で判断してはいけません! ん、お母さんだったかな。まぁとにかく、今こそその教えを体現するとき!
先生、あたしは大切な一歩を踏み出します!
乱暴に教科書を引っつかんで教室のドアを振り返れば、見えたのはドアではなく人間だった。
…もっと要約すると、あたしの背後にげん君が立っていたのです。
「え、い、いつのまに…!」
「教科書を置きっぱなしだったのに気付いて、すぐに戻って来たんだが」
考え事をしてるみたいだから、待ってた。
だから何だ? とでも言うように少し首を傾げるげん君。いや待ってないで話し掛けようよ! こんなときに無駄な親切心発揮しなくていいから!
猛烈に恥ずかしくなって、なんとかこの場を切り抜けようとげん君に無理矢理教科書を押し付ける。うん、これで解決!
さっさと自分の席に帰ってしまえええ! なんて誠に自分勝手なことを念じながらげん君を見ていると、彼はふっと小さく息を漏らしてから、微笑んだ。青い瞳が細められて、少し前髪に隠れる。
「…ありがとう」
ぽかん、口を開けて硬直するあたし。突然黙りこくったあたしを見て、またいつも通りに眉間にしわが寄るげん君。普段笑みなんか全然見せないくせに、急に笑顔を見せるなんて、ずるい。
始業のチャイムが鳴った。席に戻るげん君の背中をぼんやりと眺めて、ひとつ溜息をつく。
…なんだか今日は、授業に集中できそうにないなぁ。
座席に残った微かな体温にまた恥ずかしくなったなんて、絶対に知られたくない。
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