降り続いていた雨は一夜明け、正午を過ぎてから漸く止んだ。いつ雨が降っても可笑しくはない曇り空ではあったが雲の切れ間から陽の光も射し込み、冷えていた気温は徐々に上がり始めていた。
 攘夷志士たちの本陣は慌ただしく人の気配と声が行き交っていた。幕府天人連合軍に動きが見られたと偵察部隊から知らせが届いたからだった。桂は高杉や坂本など各隊の隊長たちを集め、最終的な作戦の確認をしていた。そこへ鉢金をだらりと首から垂らし、気だるげに欠伸をする銀時が現れる。どうやら今の今まで寝ていたらしく、それを見た高杉の眉間に皺が寄った。

「昨日の軍議にも遅刻して来た癖に良い御身分だなァ」
「うっせーな、過ぎた事をネチネチ言ってんじゃねーよ。遅刻でも軍議にゃ参加しただろが」
「最後の十分だけだろ」
「やめんか貴様ら! これから戦だというのに」
「「黙れヅラ」」
「ヅラじゃない桂だ!!」

 見慣れた漫才のような光景に、坂本はおんしらほんに仲良いのう、と言って笑った。
 手短に最終確認を終え、各隊で集まって順に本陣を出て行く。談笑していた者達の顔から笑みが消えてはるか先の戦場を見据える。鬼兵隊を引き連れた高杉が最初に出て行き、それに坂本が続く。銀時は桂と一番最後を歩いていた。

「桂さん、銀時さん!」

 陣を出る直前、声を掛けてきたのは負傷して療養している桂の隊の男だった。

「どうした?」
「あの子はどうします? 負傷兵たちのぶんと一緒に昼食の用意はありますが、銀時さんたちの誰かがいないと部屋から出ませんから……」

 あの子、とは間違い無く和月のことだった。和月は昨日あのあと、夕食の時刻に声をかけられて出て来ただけで、そのあとはすぐに部屋へ戻ってしまった。

「……そうだな。一応声をかけて部屋の前に置いておくといい。あまり刺激しないようにな」
「はい」

 御武運を、と頭を下げる男に見送られながら、本隊に少し遅れて二人は陣を後にした。暫くして、桂がそれにしても、と口を開いた。

「出来るだけ早く慣れてもらわねば志士たちも困惑するだろう。……今のままでは駄目だ」

 何の事だと聞かずとも和月のことだと分かった。

「そう簡単にいくなら誰も苦労しねーよ」

 桂が言いたいのは、和月が態度を変えない限り、近いうちに出て行かせるべきだと主張する者が現れるかもしれないということだ。
 和月を本陣で預かる旨を志士たちに告げた時、戦場の真っ只中に子供がいることに良い顔をしない者は少なからず存在していたが、異論を唱える人間はいなかった。和月が怪我をしている上、放り出すにはあまりに幼いからだ。その和月が警戒心も露に、他人に寄り付こうとしたがらないのだから、あの子の怪我が治ったころ不満を口にする者が出ることは想像に難くなかった。
 その時、戦場の方角から轟音が響いた。戦の始まりだ。

「おら、行くぜ」

 二人は会話を切り上げ、戦場へと駆け出した。



 銀時と桂が寺の門を出て、やがて見えなくなった。二人を見送っていた男が頭を上げ振り返ろうとしたところで、和月は慌てて柱から顔を引っ込め、部屋へと踵を返した。
 早朝から響いていた廊下の外の物音と人の声で目を覚ました。武器の音や何度も聞こえた「敵軍が動き出した」「出陣だ」などという言葉で、これから彼らが戦へ行くことを悟り、襖一枚隔てた外のどこか張り詰めた空気に、和月は外へ出ることを躊躇した。そのうちまた眠ってしまい、今しがた目覚めたところだったのだ。
 自室へ入り障子を閉ざす。和月は立ったままぼんやりと部屋の中を見るともなしに見ていた。

(外、でてもいいかな……)

 ここへ来て二日めだが、ここへ連れられてから本陣の外へ出ていない。禁じられてなどいなかったが、肩の傷が癒えていないこと、雨が降っていたこと、そして志士たちに遭うことに不安を覚えて、本陣はおろかあまり部屋からさえ出なかった。今なら負傷兵しか残っていないから大丈夫だろう。和月は刀を刀を右手にしっかり抱えて、また障子を開けて外を覗いた。そして誰もいないことを確認して、本陣の外へと駆けて行った。
 雨が上がった空の雲の隙間からは太陽の光が差し込んで、濡れた青葉を照らしていた。本陣に使われている寺のまわりに広がる木々の中を、ちいさな背中が歩いている。和月の結い上げた銀色の髪がゆらゆらと揺れる。どこへ行きたいわけでもなかった。ただ、村のある方角は避けて歩いていた。

「さくら……」

 暫く歩いたところで、和月は足を止めた。桜の巨木が一本聳えていた。桜の木の周囲にだけ他の木は一切生えていない。和月は呼び寄せられるようにその桜に近付いた。まだ三分咲きといったところだが、満開になれば見事な姿を見せてくれるのだろう。その幹に背中を預け、ずるずると座り込む。さわさわと吹く風の声にまぎれて、鳥が鳴いている。
 ーーおい、大丈夫か?
 ふと脳裏に浮かんだのは、昨日の銀時の姿だった。木から落ちた和月に駆け寄って、迷う事なく手を差し出した。心配してくれているのも分かっていたし、お礼も言わず差し出された手を取ろうともしなかったことがどれだけ非常識で薄情なことなのかも重々承知していた。それなのに、和月は答えることができなかったのだ。銀時だけではない。肩の傷の手当を申し出てくれる桂や、和月を笑わそうとする坂本の優しさも分かっている。目付きが怖い上、あまり和月がいることを好ましく思っていないのがすぐに伝わってくる高杉だって、悪い人では無いのだ。ぴかぴかに手入れしてくれた刀で分かる。

(わかってるよ)

 すっかり忘れてしまったかのように、どんな表情でどんな言葉を返せばいいのかわからなかった。何故彼らはこんな自分を傍に置いておいてくれるのだろう。
 桜の枝が風で揺れている。和月はぼんやりとした頭で、家の庭にも桜があったことを思い出した。この桜ほどではないけれど毎年春になると大輪の花を咲かせて、花が散れば地面は桜の絨毯のようになったのだ。そしてそれに引き摺られるように蘇りかけた、忌まわしい記憶を慌てて抑え込む。思い出してはいけない。銀色の頭を振って、何かないかとあたりを見渡すうち、足元に土筆が生えているのに気付いた。確か土筆は食べられるのでは無かっただろうか。大所帯の攘夷志士たちを思い浮かべ、和月は少し迷ったあと土筆を取り始めた。

 足下の自分の影の長さに、和月ははっとして顔を上げた。何時の間にか周囲は夕暮れに紅く染め上げられていた。太陽は西の空に低くかかり、遠くを烏が鳴き声を上げて飛んでいる。思わず立ち上がると強い風が吹き、足がもつれて背後の桜の幹に手を付いた。折角取った土筆がばさりと落ちる。咲き始めたばかりの桜の花が風に舞っている。見上げた桜も、その背後にある空も、すべてが燃えるように紅い。ごうごうと鳴る風の音に和月は思わず背中を丸めて一歩退いた。ついさっきまで居心地の良い場所だったはずなのにここがとても恐ろしいところのような気がした。

 紅い夕焼け、曼珠沙華の咲く道、すべてが紅く染まった世界。

「……つ」

 思い出さないように目を逸らし続けていた記憶が脳裏に瞬き、和月は刀を抱き締めてその場に座り込んだ。もう半年も前のことなのに、今目の前で起きた出来事であるかのように鮮明に思い出せる。いつも忘れようと意識して思い出さないようにしているのに、時折こうやって突然思い出して和月の傷を抉る。
 顔を上げれば自分の周りにはあの紅い世界が広がっていて、目の前には咲きかけの桜が聳えているのだろう。ここに居たくない、逃げたい。でもどこへ、どこへ逃げたら。どこへ、帰れば。
 ―――そんな顔すんなって。何もしねぇよほら。
 そのとき一番に脳裏に浮かんだのは、死んだ魚のような目をしたしろい男の姿だった。
 地面を見たまま足元に置いていた刀を右手に抱えて立ち上がり、和月は振り返りもせず駆け出した。まだ治りきっていない左肩の傷が振動で痛むが気にしていられない。自分がこの場所から逃げるために走っているのか、それとも銀時に連れてこられた攘夷志士の本陣に帰るために走っているのか、和月自身にも分からなかった。

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