彼は大変残念な人である。話し方はイタリア混じり。赤い鋼をもつその姿はうつくしい。しかしいかんせん人間嫌いという欠点が浮き目立ちしている。それはその欠点が重度のものであるからだ。怪我をしたからとリペアを勧めると放っておけと手を振り、交友を図ろうと話しかければ腕に隠す刃を抜かれる。彼にとって人間とは、「人間風情が」と蔑まれる程度の生命体である。その部分だけでいえば、彼はディセプティコンに似ている。そう言えば激昂を表して刃を首元に伸ばされるのだから、困ったものだ。
「お前はもうちょっと空気を読んだ方がいいな」
大佐が苦笑いを添えて助言をしてくださる。けれどもそれは私の心にすとんと落ちてこない。何故。と、その言葉が次々に生まれてくる。大佐の手には缶コーヒー。私たちが座っているのは簡易ベンチ。いまは休憩中である。
「何故ですか。私はすべて自分の思いの真実を伝えているまでです」
「その伝えるタイミングが悪いんだよ」
大佐が言うに、私がリペアを勧めたときはリペア室からアイアンハイドの悲鳴が漏れていた。話しかけたときは陰口を言われていた。似ていると言ったのはいつであっても言語道断である。とのこと。なるほど言われればそうかもしれない。しかし彼のような人にへりくだって媚を売れば、益々軽蔑の対象に置かれてしまうだろう。どうすればいいものか。ううむと唸れば、大佐は「まあ、頑張れ」と言って奢ってくださったカプチーノを私の前に置いた。
と、そのとき。ピリリリリと電話の鳴る音が響く。大佐の電話だ。ひと言私に断わって電話を耳に当てると、そこからは溺愛の声が出てきた。なんでもつい先日、初めて電話がかけられるようになったらしい。それは大佐のカレンダーに赤いペンで二重にぐるぐると印をつけられていることから、基地内で有名な話となっていた。アナベルと電話をする大佐の顔は幸せそのものだ。確認のために取出していた電話を凝視する。彼の通信回路はパートナーとして任命されて数週間後にオプティマスから教えられていた。




「ということで電話をしてみました」
「……で、お前はなにがしたかったんだ?」
「幸せな気持ちになるかと」
「くだらねえ」
電話からの音声がブツッと途絶える。けれども彼の声は途切れない。「大体、こんな至近距離で通信するやつがいるかよ」戦闘中でもあるまいし。彼の言葉に、少々きょとんとしたまま 彼のなかでも通信は離れたところで行うものなのだ と認識する。戦いばかりの毎日だったと いつだったかオプティマスから聞いたものだから、彼らのなかで通信とは近くでも声が聞き取りやすいようにやるようなものだと予想したのだ。しかし外れたらしい。「そうなのですか」と言えば、彼は口から大きく排気を出した。実に人間臭い行動である。そう思ったが、それを言うと空気を読んでいないことになると、先ほどの大佐との会話で学んだので口に出さなかった。
「お前馬鹿だろ」
「一応人間のなかでは馬鹿と呼ばれる頭はしていないはずです」
「そういう意味じゃなくてよ…」
彼は指を頭にやり、ぽりぽりとかく仕草をする。困っている。ひと目でそうわかる仕草だ。もしや彼は、馬鹿(と認知しているのは彼だが)な私にわかるようにとわざとそういう行動をしてくれているのだろうか。それならば、すぐに大丈夫だと伝えなければならない。けれども人間臭いなどと言ってしまえば、彼は激昂するらしい。はたしてどうすればよいのか。またううむと唸る。「あなたは難しいひとですね」と言えば、「人間じゃない」とむすっとした様子でどこかへ行ってしまった。


×



「ディーノ、気分はどうですか?」
「最悪だ」
車内からビーッと大きな音が出される。振動で車体が揺れ、下に落ちかけていた雫と泡がぽたぽたと滴っていく。いま私の手にあるのは銃ではなく洗車用のスポンジ。そして足元にあるのは予備の弾丸ではなく、バケツである。
スポンジを動かすたびに黒ずんだ泡が売らわれ、洗車場の床へと落ちていく。彼が洗車をやりたがらないのが仇となっているのだろう。それらは何度往復させてもやむことがない。彼の残念なところはここにもある。ただでさえ戦闘での泥や砂で汚くなっているというのに、彼はなかなか洗車を受けようとしない。人間に洗われるのが嫌だというのだ。オートボットたちがやると言っても、人の姿をしてやらないでくれと拒否をする。オートボット達はなんとかしてディーノと人間との交流を図ろうとしているし、なにより洗車は人の姿でないとできないため、仲間たちはみなオプティマスの痺れを切らした「洗車命令」を待つ他ないのだ。その時の彼の機嫌と言ったら、すこぶる悪いものである。そして必然であるかのように、洗車には私が駆り出される。彼はこう称するのを嫌がるが、私が彼の相棒だからだ。バケツとスポンジを持って歩いているとき、仲間たちからは「大変だな」と憐れみの言葉を掛けられるが、私にはむしろ好都合なことである。他の人間がやってしまえば、彼の不機嫌により洗車は不完全のまま終わるかもしれない。それはあまり喜べないことだ。
「ディーノ、あなたはもう少しほど、洗車の回数を増やすべきだと思います」
「人間の習慣をするなんて御免だな」
「けれど汚れたままでは不衛生です。オプティマスたちはヒューマンモードを搭載していますが、あなたはしていないのでしょう。ならもっと受けるべきです」
「どうでもいい」
「私は受けてくれると嬉しいです」
「もっとどうでもいいな」
機嫌斜めであるときの彼は、人間の言葉にまったく聞く耳を持たない。そういうときは諦めるしかないのだが、けれど今回はあまり引き下がりたくなかった。だから独り言のようにぺらぺらと話す。「だって、もったいないではありませんか」彼からの返事はない。いつもならば、「なにがだ」などと返答をしてくれるのだが、いまは不機嫌であるから仕方がない。腹を立てることをせず、手の動きを止めることもせず、私は話していく。「こんなに美しいボディを持っているのに」
バケツのなかにスポンジを放り込み、シャワーを取り出して スイッチを押す。少し控えめに出した水の下に見えた赤に、思わず手を触れる。うっすらとした水の膜が、赤に艶やかさを持たせている。ああ、なんて、なんてうつくしい。
「あなたと初めて会ったとき、私は感嘆したのですよ。なんて美しいのだろうと」
「…」
「いまだって、そう思うのですよ」
「…」
「ですからせめて1週間に2回は受けてください」
ホースを隅々まで伸ばしながら、ひとかけらも泡を残さないように水をあてていく。泡の感触があるかを聞こうとしたとき、「一回なら受けてやる」と彼が言った。


×



昼の仮眠中であった。大きな音が響いて飛び起き、部屋を出た。走る足は寝起きを感じさせず、むしろ心は不思議なほどに高揚している。大佐曰く、軍人根性と言うものらしい。こうでなくてはならない。まるでそれを望んでいるかのように体が一刻も早くその場へ走ることを命令している。それは頭の片隅ほどの話で、考えることは武器の調達と彼への通信、そしてその音が襲撃か 些細なトラブルか。そのことであった。スキッズとマッドフラップがまた喧嘩したのかもしれない。アイアンハイドとサイドスワイプが修行でやりすぎたのかもしれない。願うのはそちらの方で、反対に望まないのはディセプティコンの襲撃。本拠地に攻め込まれたとなれば、それこそ危うい事態になりかねる。ともかくはやく行かなければ。行かなければ。
「…ディーノ?」
音のした場所は私の部屋から近くであり、走って数分のところにあった。そこにいたのはツインズではなく、困りもの師弟でもなく、驚異の対象であるマークを体につけた欺瞞の民でもなく、私の相棒だった。先日洗ったばかりのボディの背中をこちらに向けて立っている。彼の体の向こうには尻餅をついた人間の姿。軍人の格好をしている。私と目を合わせると、大慌てで立ち上がり、走ってこの場から去った。あの顔は知っている。たしか、あまり基地に居ることのない部隊の者だ。「stronzo!」と、彼がイタリアの言葉をはく。なんとなくだが、おそらく汚い言葉だ。「喧嘩ですか」そう声を掛けると、彼はゆったりとした動きでこちらを向いた。ビーグルモードにもならない。自然と彼を見上げる形になる。私は首が痛い。
「だったらどうする?」
「原因を聞きます」
「あいつが気に食わないことを言った」
「気に食わないこととは」
「作戦中は命令に従えだと。俺は馴れ合いに来たんじゃない。ディセプティコンを倒しに来たんだ。それ以外のことなんてどうだっていい」
ふん、という具合の言葉に、私は思わず目をまるくさせる。その理由は、彼にとって本当の気持ちだろうか。彼と私たちの間に、協力の言葉は入らないのだろうか。とたんに悲しみと怒りが込みあがってくる。対ディセプティコン用の特殊訓練は辛いものだ。それを二年も三年も、ずっと受け続けてきた。その日々は、彼のなかで評価されることではないのだろうか。「私は、あなたはすこし、勝手が過ぎると思います」胸の内側が痛んでいる。「なんだと?」と、低い声が地鳴りのように響く。彼の機嫌が悪くなっていくのはわかっていた。それでも衝動は止まらなかった。懇願する声が喉から出ていた。
「ディーノ、人とわかりあってはみませんか」
「うるさい」
「ほんの少しでもいいのです。ほんの少し、作戦で協力するくらいは、」
「うるせえっていってるだろうが!」
大きな音が響く。今度は耳元から、体中に広がっていく。体のすぐ隣の壁に刃が突き刺さっていた。そのときの衝撃のせいか、私の体は尻餅をついている。見上げると、刃が伸びているのは彼からだった。青色の瞳が、やけに冷たく見える。呆然としている私に、彼は低い声で言った。

「二度と俺に構うな」


×



誰も居なくなり、ステンドグラスが夕日に浸されている。基地のなかに設けられたとはいえ、教会は美しさを保って顕在していた。日曜日、仲間たちとここに来て牧師の話を聞いているとき、私はいつも感動と畏怖にそわそわとしているものだ。けれども今は、それが随分と昔にあったことのようにひとつの感情しか持てない。胸は重く、それに連なって体も力を失っているようだ。長い椅子に座り、手の指を両側の隙間隙間で組んで、そのままずっとここにいる。私はとんでもないことをしてしまった。神に寄り頼むほか、なにができようか。
「ここにいたのか」
低い男の声がする。彼の声ではない。もっと落ち着いていて、優しく、凛とした声。顔を上げるとそこにはやはり ラチェットがいた。ヒューマンモードになった頬に、ステンドグラスの色が溶け込んでいる。美しい。けれど、今はその言葉を思うたびに息苦しい。幾分か目線を漂わせ、俯くと、ラチェットは隣に腰かけてきた。立ち去る気はないらしい。
「出動命令ですか」
「そうだったなら君に直接通信が来るはずだ」
「…では、何故」
「近頃だが、君は具合が悪そうだ」
「そんなことはありません。至って健康体です」
「食が細くなっているね」
否定ができなかった。確かに最近は、ご飯のほとんどを誰かにあげるなどしていた。みな、気づいていたのか。ばれないようにしたが、意味がなかったらしい。
「レノックスも心配していた。彼だけじゃない。この基地にいる皆が君を按じているよ」
「…個人的な悩みです」
「その悩みは、ひとりでは解決できないものなのだろう」
「…」
「私は全般的な医学を身に着けている。君の役に立てると思うのだがね」
「…ですが、」
「水臭いのはなしだ」
「…」
「我々は仲間だろう?」
とどめにその言葉を言われれば、こちらは言わざるを得なくなってしまう。ラチェットは尋問の知識も身に着けているのだろうか。そんな風に疑ってしまいながら、「私はいま、神に話していますからね」と生意気にそう言って、目を上げる。ラチェットはあまりに優しい笑みを持っていた。それを見てしまったら、もう言ってしまうのが憚られるなど、知ったことではなかった。
「お許しください。神よ、私はディーノを 怒らせてしまいました。
それはいつものことです。彼はよく不機嫌になりますし、怒りもします。けれども今回は相当のものなのです
ここ数日、彼は口をきいてくれません。作戦でも勝手な行動が大きく目立っています
神様、それはすべて、私が悪いのです。あのときはディーノが、あの軍人になにか言われていたかもしれないのに…」
あの部隊の者の数名は、トランスフォーマーに対して オートボットに関しての偏見も持っているだろう。加えて彼の残念である所ばかりを聞いていたのなら、やいのやいのと言ってしまったのかもしれない。私はなにも知らない、ただ一部分を見ただけで、あんな言葉をかけてしまった。不機嫌で、悲しんでいた彼に、勝手が過ぎる などと言ってしまったのかもしれないのだ。
「ここで終わってしまうのでしょうか。私は彼と、こんな形で離れてしまうのでしょうか」
組んでいる手を、またぎゅう と強く握り合わせる。言ってしまった後は、なんとも言えないような不安に襲われる。なんといわれるだろう。責められるだろうか、それとも、なにも言われないのだろうか。何年か前の入隊試験を思い出す。はたして、あのときもこんな風に辛く、痛かっただろうか。

「もし終わったとしても、再び始めることが肝心だ」

顔を上げる。ラチェットの微笑んでいる口元が眩しさのなかに見えた。

「神はいま きっと そう言っておられるだろう」


×



砂ぼこりの匂いが鼻についている。手には機関銃。足元には予備の弾丸。ダダダダダ と音を鳴らすたび、手へ大きな振動が伝わる。取りこぼさないために脇に挟んで使用しているため、体が折れてしまいそうなほど衝撃を直に感じる。終わったら湿布をべたべたと張らなければならない。慣れたことだ。それよりもまず、彼と話さなければならない。ゴーグルのレンズ越しに赤のボディを見る。先立って突き進む彼は、着々とディセプティコンを薙ぎ倒している。そのやり方は周りに損害を出すことも厭わないやり方で、物はなんであろうと壊すし、人間がいるすれすれのところに敵を押し倒したりなど、少々肝が冷えることもしていた。仲直りができたら、一度頼んでみなければいけない。物を壊しすぎであること、恐ろしいことはしないでほしいこと。すこしほど私たちのことを信頼してほしいこと。腹を割って、思いの真実を述べなければならない。そのためにはこの戦場を乗り切らなくては。意識を新たにして、予備の弾丸を装填する。と、そこで、耳に微かだが 声が聞こえた。
「新しいディセプティコンがきた!全員下がれ!一度下がれ!」
大佐の声だ。そうわかったころには、前線に向かっていた仲間たちはこちらに下がってきていた。その間でも打ち続けるのはやめない。新しいディデプティコンは刃を剥き、前線のところに立っていた。いつ見てもおぞましい。ゴーグルを少しばかりだけ目から離して凝視する。そのディセプティコンは、皆が去ったはずの前線へ目を向けていた。そしてにやりと笑う。不可思議に思い、それを辿ると、そこにはなんと、あの 赤が。
「ディーノ!なにしてる!下がれ!下がれ!」
大佐の怒鳴る声は私にも聞こえる。だから、彼にも聞こえるはずだ。それなのに、彼は下がらない。まだディセプティコンと刃を交えている。「ディーノ!」二度目の呼びかけの声が聞こえたころには、私の足は走り出していた。軍人根性なのか、なんなのかはわからない。大佐の呼び止める声が聞こえたが、それでもただひたすらに走る。はやく行かなければ。行かなければ。行かなければならない。
背中に背負っていた武器をおろし、手早く発射させる。一発目。二発目。三発目。ばらばらのところだったが、ふたつは当たった。新たに現れたディセプティコンがこちらを向く。赤い目は、彼と全く違う。似ているところなどどこにもない。
「お前を撃ったのは私だ!ここにいる人間だ!」
言った直後、すぐに背を向けて走り出す。全身の力を振り絞り、逃げることだけに使う。すぐ近くに障害物があったはずだから、おそらく大丈夫だ。大丈夫。それだけを胸の内で繰り返しながら、後ろから迫り来る大きな足音を耳に入れる。遠くの方で誰かが私の名前を呼んでいる。腕になにかが当たったと思ったとき、視界がすべて失われた。


×



「お目覚めかな トムボーイ」
視界は白くかすんでいる。そのなかに、ひとつだけ金髪が見える。よく見知っている人物のものだ。それはわかる。加えて、それは思い出さなければならないほど知っている人物。誰だっただろうか。いかんせん頭がぼうっとしてしまっていて、よくわからない。とても最近、とても大切な相談に答えてくれた人だ。あれはステンドグラスが輝く教会だった。そうだ、基地内にある教会だ。基地のなか、基地…。ああ、ああそうだ、思い出した。これはラチェットの輪郭だ。
思い出したとたん、頭が一気に働き出す。ぼやけていた視界がだんだんとピントを合わせ始め、完全にラチェットを映す。トムボーイ、お転婆娘。それは先ほどのことだろうか。あの後どうしたのだろうか。疑問に思い、まずは身の安全を確かめる。心臓は動いているし、目も正常。耳も聞こえる。鼻には消毒薬の独特である匂い。生きているときの症状だ。
「左腕の骨は真っ二つ。他にもいくつかのねんざあり。頭は数針縫ったし、頬には切り傷。とんだ無茶をしたものだな」
ラチェットがいるだろう方溜息の音が聞こえる。傷む首を無理やり動かしてそちらを見ると、案の定あきれきった顔をしていた。表情から見るに、もはや怒りもないらしい。「これぐらいで済んでよかったと思え。死んでいたかもしれないんだ」とのきついお言葉に、ぼんやりとだが、素直にうなずく。どうして私は、単身でディセプティコンに突っ込んでいくなどと 無茶なことをしたのだろう。そう考えてすぐに、あの美しい赤を思い出した。体が飛び起きそうなほどに動揺する。彼は、彼は無事でいるだろうか。からからと水分を求める喉を精一杯に広げる。咳が出そうだ。けれど咳などをしたら、体中に痛みが走りそうな気がするから我慢をする。「ラチェット、彼は…ディーノ、は…」「安心しろ。ぴんぴんしている」うるさいくらいにな。憎たらしい、というような表情をしたラチェットに、思わずほうっと息を抜く。その様子からいえば、本当に無事なのだろう。リペアを終え、お説教も終えた後の顔をしている。一気に安心してしまった体が、再び眠りに付こうとする。しかしその前にまたひとつ思い出したことがあり、はっと目を開けた。前々から、これは気になっていたのだ。いまここではっきりさせておかないといけない。
「ラチェット…もうひとつ、教えていただきたいことが」
「なんだい」
「心臓に、異常はありませんでしたか」
「心臓?」
きょとんとした目。虚をつかれた表情をしているラチェットは、まさか心臓について聞かれるとは思っていなかったようだ。首を傾げ、手に持っていたカルテを見直している。
「何も見られなかったが…なにか思い当たる節が?」
私はぐむりと一度黙る。ラチェットは医者である。だからここでなんでもないと紛らわそうとすれば、白状するまで聞いてくるだろう。それをわかっていて黙ったのは、少しほど言いにくいことだからだ。ラチェットも困ってしまうかもしれない。図書館にある医学書のなかをすべて探してもなかった症状なのだ。けれどラチェットの目は容赦なく私に「言え」と突き刺さる。おずおずと顔を上げると、ラチェットの青い目と会う。そうなると、私の口は嘘をつけなくなるようにできているのだから。困ったものだ。いま心を決めて、ラチェットを見る。父のような我が軍医は、話しやすいようにしゃがんでくれている。

「正直に言います。私はディーノに辛く接されると、とてもいたいのです。心臓が、とても。辛くされるなど慣れています。私は女なのに軍人で、NEST部隊に入っていますから。そんなのはしょっちゅうです。けれどディーノだけは、ディーノにそうされるのだけは、耐え難い。泣いてしまうほどに。こんなのは、まったくおかしなことです…ですから、帰ったら診察をしてもらおうかと思ったのですが、」

がしゃん。音が響く。小さな音だ。誰かが食器を落としてしまったような音。首をすこしだけ傾けてラチェットの向こう側を見ると、そこには赤い髪とこちらに向けまるくなっている青い瞳を持つ男がいた。うつくしい赤だと、はじめに思った。


(110923)