「カフィ。ミス.カフィ、起きろ」
彼女が目を覚ましたのはそんな声からだった。彼女は一度、それを自分の母だと認識した。しかしそんなはずはない。彼女の母は数年前に死んでいた。それは父も同じであり、交通事故とのことだった。それきり彼女はひとりで家にいた。だから朝に起こされる感覚など、久しく味わっていなかったのである。待って、あと五分。一晩のブランクでうまく機能しない喉をそんな言葉に使おうとして、彼女はとたんにはっと体を起こした。横たわっていた体は急な動きにぐらりと傾き、具合の悪さを表している。思わず頭を抑えた彼女に、再び声が振ってきた。「大丈夫か?」それはこちらを覗き込んでいる。おそるおそる手をのけると、そこには心配そうにこちらを見るレノックスがいた。
「………れのっくすさん」
「大丈夫みたいだな。寝癖は酷いが」
レノックスが笑いながら彼女の頭を撫でる。寝癖を直そうとしているようだが、どんなにやっても手がのける瞬間にそれはぴょんと不思議にはねる。その光景がついおかしくなり、レノックスはまた笑った。こんな穏便な朝を迎えている者を見るのはいつ振りだろうか。レノックスの周りにいる人物は大体が軍人であり、それら皆は起床の際にのろのろとするものはあまりいない。女性とは別々の寮で過ごしているため、彼が自分の妻以外の女の寝起きなどを見るのは久方ぶりであった。もう何か月帰っていないのだろう。いつもの悩みの種であることを哀愁に思いながら、レノックスは未だすこしほど焦点の合わない彼女の肩をたたく。「シルバー将軍の命令だ。身支度ができたら部屋から出てきてくれ。基地内を案内する」「……わかりました」かすれた声は聞き取りにくいが、頷く仕草ははっきりとわかった。レノックスは緩やかな足取りで部屋を出ていく。ぱたんと扉が閉まり、くあぁと大きく欠伸をしたとたん、彼女は昨日の一連のことが夢ではなかったのだと改めて実感した。






基地のなかは広かった。オートボットと共に過ごしている基地なのだ。それは当たり前だ。けれども幅の広い廊下や些か高すぎる天井は彼女の心を高揚させるには充分なものだった。地図を渡され、レノックスから細かな説明を受けるなかで 彼女は昨夜にあったことをすべて忘れたかのように笑い はしゃいでいた。「ここはどういうところなんですか?」そう言いながら聞いてくる様子はレノックスに自分の娘であるアナベルのことを連想させた。あの子も大きくなればこんな風に「パパ、あれはなに?」と言うようになるのだろうか。早く家に帰りたいという思いを同時に持たせながら、その想像はレノックスの心を和らげることとなっていた。
レノックスは彼女にカフェオレを買って与えた。彼女はまるごしで逃げだしたため、財布もなにも身に着けてはいなかったし あったとしても押収されて使えなかっただろう。冷たさが滲む缶を両手で受け取ったとき、彼女は嬉しそうに微笑んだ。レノックスはそのことにほっと息をついてしまいそうな程度は安心していた。彼の瞼の裏にはアナベルの姿がちらちらと見えている。
「ミス.レティと君が会うことは、しばらく禁止になっている」それいえば、彼女の表情がまた曇ってしまうことは安易に予想できた。そして、それは事実だった。彼女はひと時ほど目をまるめ、それから泣きだしてしまいそうな顔になった。レノックスは慌てて付け足す。「禁止と言っても少しすればまた会えるようになる。大丈夫だ」そういうと、彼女はしょんぼりと沈んだ目を伏せて「そうですか…」と呟く。レノックスは彼女に泣かれたくなかった。泣いているアナベルを泣きやますことができなかったことと、サラに泣かれたことを思い出し、加えて彼女がまだいたいけな少女であることが彼を罪悪感に浸らせるからだ。不安そうな顔をされるのはまだいい。しかし昨夜のような顔と、泣き顔だけは見たくなかった。

「なんだレノックス、浮気か」

レノックスの肩に重みがかかる。人の手だ。それもレノックスがよく知っている人物。彼はそれが誰なのか特定がついていた。だからこそ茶々入れにちょっとした睨みを利かせて振りかえる。「誰が浮気だエップス。俺は愛妻家だ」肩におかれた手をたたく。レノックスの同僚であるエップスはおかしそうに笑って「それに親ばかだな」と付け足すと、ぽかんと置き去りにされた子供のような顔をする彼女を見た。「それで、この子は?」
「今回の件の一般人だ。名前はカフィ」
レノックスは濁すような言葉を使って紹介する。カフィは控えめに微笑みながら「こんにちは」と言った。しかし、エップスは違った。一度顔色を曇らせると、やり辛いという風に微笑み、「こんにちは」と答える。それから被っていた帽子を目深に頭に押し込むと「それじゃ、仕事に戻ります」と冗談交じりに言い残して足早に去って行った。レノックスはその後ろ姿を見ながら、仕方ないなと彼女に聞こえないように小さく息を吐く。彼の予想のなかで、エップスは彼女とはあまり話そうとしないだろうと思う節があった。戸惑っているだろうと予想できる彼女に視線を戻してみると、やはり、彼女は呼び止めることもできずに呆気にとられていた。自分はなにかしただろうか。そう言いたい顔をしている。レノックスは苦い笑みをもって彼女と目を合わせた。

「俺とエップスは元々カタールってところにいたんだ。そこで…ディセプティコンの襲撃があってな。それですこし奴らについての敵意が強いんだよ」

とたんに、彼女の顔色がまた一気に悪くなる。両手でカフェオレが入った缶を握り、目伏せて「そうだったんですか」と呟くような弱弱しい声音で言った彼女に、レノックスは首を傾げる。レノックスは昨夜 彼女がカタール基地の映像を見たことを知らなかった。



(110924)