突然に起こったことだった。それは嵐のようだったと 彼女は振り返る。
そのとき、彼女はコーラを少しずつ飲みながらテレビを見ていた。テレビといっても、それは設置されている液晶を見るのではなく それがぐしゃぐしゃに割れ 大破したテレビを見ていた。それはある日から彼女の日課のようになっており、仕事から戻った後の時間や休みの日のひとりの時間を 彼女はほとんどその意味のない行為に費やしていた。性格に言えば、それ以外にやることが見当たらないし しようという気さえも起らなかったのである。それをしている彼女の頭のなかはいつもぼんやりとかすんでいる。そんななか、ひとつの轟音が現れたのだから 彼女はそれはそれは驚いたものだった。「カフィ!」と、友人であるレティが名前を呼んで家へ走りあがってきたとき 彼女はようやく轟音の正体を理解した。レティが扉を勢いよく開いたのだ。しかし彼女が理解したすぐあとに、レティは怒鳴るようにして彼女の手を引っ張った。「立って!逃げるよ!」強い力で引っ張られるまま彼女は立ち上がる。そして裏口にずんずんと進んでいくレティにようやく問いかけをした。「どうしたの?」レティはピッキングで裏口の鍵を開けながら答える。「軍人だよ。軍人が来たの。押しかけてきたの!」レティは彼女の顔を見る余裕さえないようだった。眉は眉間により、その顔に剣幕を作り出している。「軍人?」彼女は白黒とさせたままの目を持ちながら首をかしげる。「どうして軍人さんが?」驚愕が混じったその問いに、レティはいらだった声で「知らない」とだけ答えた。かちゃりと鍵の開く音がして、彼女はレティが軍人のことを嫌いとしていることを思い出した。
「あいつらいきなり来たくせに腕を引っ張って連れて行こうとしたのよ」彼女の手を握り、レティは怒った声で話し続ける。彼女は握りしめられる手をぼんやり見ながらついていく。痛い。「ああいうやつに付いて行ったら、絶対ろくなことにならないんだから。だから気絶させて逃げてきたの」彼を見つけた林のなかを早足で歩きながら、彼女は自分が簡素なスリッパをはいていることに気付いた。何故自分も連れ出したのか など、野暮なことは聞かなかった。自分のところにもその軍人が来ていたのだろう と、彼女は安易に予想したからだ。それは事実であったし、彼女の手を握る手とは反対側の手にスタンガンが握られていることが証拠となっていた。
しばらく進んでいると、家のほうからなにやら騒がしい音が聞こえてきた。レティは苛立った舌を打ち、彼女の手を引っ張った。「走って!」彼女は言う通りに走り、レティの隣に並びながら その音について考えていた。あの音はなんだろう。どすん。どすん。まるで巨人が足を踏み鳴らしているように思える。しかし、その思考は一度ぷつんと中断された。家のなかから人々の声が聞こえて、同時に林へ向かってくる足音も聞こえたからだ。それまでなにも感じていなかった彼女は、そのとたん急に恐怖を感じた。迫ってくる。恐怖が迫ってくる。道を外れ、歩道に出て、レティは彼女の目を真摯に見ながら言った。「ここからは二手に分かれよう」彼女は息をのみ、とっさに首を横に振りそうになった。二手に分かれるということは、ひとりでいくということなのだ。彼女の心中は、もはや恐怖で埋め尽くされそうだった。レティは彼女がなにか否定的な行動をする前に続けた。「少ししたら携帯に電話するから、そうしたらいつもの場所で落ち合おう」レテイは諭すように言うと、強い力で彼女を抱きしめた。まるで母親が二度と会えないことを知りながら子供と別れるときの抱擁のようだと彼女は考えて、すぐにそれを強く抱きかえすことによって振り切った。体が離れると、ふたりは一目散に別れた二手の道をそれぞれ違う方向に分かれ、走った。後ろの遠くの方から人の声がする。車の騒がしい音もする。彼女は走っている最中、何度も「探せ!」という声が気がしてすくみ上りそうだった。しかし、すぐ気を持ち直して走り続けた。どこにいっているのかなど解らないまま、ただ逃げなければならないという強迫にも似た感覚が彼女を追いたてた。遠くの反対側の道のほうで高い声が上がった途端、彼女のスリッパが片方足から抜け出して、彼女は躓き、そのまま倒れた。道路は固く、そして痛い。いたぞ! 高く上がった声がその三文字を示している気がして、彼女はそれを無視して立ち上がり、もう片方のスリッパを脱いでまた走る。肺が圧迫され、喉が手で無遠慮に握りしめられている錯覚がし出すと 彼女は頭のなかで落ち合うはずのいつもの場所を思い描いた。そこは草臥れた廃工場だった。所謂彼女たちの秘密基地というもので、元々はレティが小さいころに見つけた場所を彼女にも明け渡した という形で ふたりがいつも遊びをしているところだった。遊びと言っても、レティがなにやらばちばちと作業をしている様子を 彼女が黙って見ているだけというのが多いのだが ふたりはお互いそれで満足していたし、それで楽しめていた。それを思い出すと、すこしばかりでも彼女の心持は保てていた。しかし、それも限界があった。後ろの方から「いたぞ!」という甲高い声が聞こえたのだ。心臓をつかまれ、拒絶反応を起こした感覚が彼女を襲ったが、それでも疲れ切った喉は声を出させはしなかった。彼女は渾身の力を振り絞り すぐ近くにあった脇道へと飛び込んだ。周りを目線だけで見てみると、そこはよく知っているところだった。「いつもの場所」に行く時に使う、建物と建物の隙間や廃工場のなかなどがあり、よく知らぬ人間が通れば迷う可能性が存外に高い複雑な道だった。ここを乗り切れば大丈夫。彼女はそうやって自分を励ました。騒がしい足音があちらこちらへ散らばり、背後から音が聞こえてこないことは 彼女にとって心の救いであった。
「こんばんは、おネェちゃん」
その声が聞こえたとき、彼女は小さく声を上げてしりもちをついた。彼女がいつも通りの健康体だったのなら、もっと大きな声を上げたかもしれない。長い寝巻が膝までめくれ、ちらりと下着が見え隠れしている事態など気にかけれないほど 彼女は驚いた。そして恐怖した。どうしてここにいるのだろう。彼女の目の前に立つ者は、人間ではなかった。人間の数倍はあるだろうその姿を見て、彼女は今にも震えそうな体のなかで 数か月前に出て行った彼のことを思い出した。彼の目は赤く、目の前に立つ者の目は青い。そこが決定的な違いだ。その手がゆっくりと自身へ向かってくるのを見ながら、彼女はもう諦めて目を閉じようとしていた。しかし、「いつもの場所で落ち合おう」と言って抱きしめたレティの声が、ぬくもりが、それを叱咤した。彼女は素早く立ち上がり、その手から逃げ出した。大きな体だったため、脇をくぐって走り去るのは容易なことだった。巨体から声が聞こえたが、止まる気など毛頭なかった。彼女は裸足のまま「いつもの場所」へ向かった。それからどうするかなど知ったことではなかった。


周りを取り囲む街々と同じように「いつもの場所」は彼女を静かに受け入れる。体は汗だらけで、喉から出る呼吸は 決して正常なものではなく、隙間風が吹いているような音が聞こえる。廃工場の真ん中までふらふらと歩くと、彼女はばったりとその場に倒れた。もう体は動かなかった。足はまっすぐな鉄筋が入ったように重く、体は重りがのしかかったように倦怠感を訴えている。それなのに肺はどんどんと酸素を求めるのだ。まるで喘いでいるように。彼女は目をつむった。止まったことによって、足の裏にできた傷がじんじんと痛みを鈍く体中に発し、心臓にかえってくる。じくじくと蝕むような痛みを頼りに 彼女はまぶたを下げないでいられる。たすけて。呼吸のために開いた唇が、聞こえるはずのない声を紡いだ。ポケットにはいった携帯が着信音を鳴らすことがなく、そしていま 自分以外に誰もこの場所にいないということは 彼女を絶望感に浸らせた。彼女は目をつむり、レティの無事を神に祈る。そしてすぐに彼のことを思い出し、ぽたぽたと涙を目からこぼさせた。もう否定できないおもいが彼女のなかに渦巻く。最初に会った時のように怪我をしていたらどうしよう。と、彼女は不安に思い出す。あのときはレティがいた。しかし、いまはどうなっているかわからない。自分ではどうしようもない。彼女は歯がゆく、そして苦しかった。いま大声で泣きわめけたらどんなにいいだろうと思った。しかし喉は萎んだように力がなく、それは体全体にまで及んでいた。祈るように折り重なる両手を見て、彼の無事も強く祈った。自分にはそれしかできないと思うと、また目の奥がじわじわと熱くなっていくのがわかった。それは事実だった。入り口で誰かが声をあげたのを音だけでとらえながら彼女は目をつむった。


(110829)