つるりと滑る床を打ち鳴らす足音は苛立ちを響かせていた。しかしそれはロベリアの心中と比べれば、まだ足りないものである。彼女は特に義務にかられた宛もなく足を動かしていた。普段冷静さの虚勢を張っているロベリアがここまで怒りをむき出しにすることは珍しい。周りの軍人もちらちらと彼女を見たりしたが、けれども話しかけようとはしない。それがまたロベリアの苛立たしさを煽っていた。その怒りの原因は元々は先ほど行った彼との対話にある。彼がとぼけていないなどと信じるわけではないが、その後に続いた「恐れている」と嘲られたことに腹が立ったのだ。当たり前ではないか。彼女は心底怒りをおもう。当たり前ではないか。人を殺すというのだから。恐怖を感じてなにがおかしいのだ。彼の言葉は、つもりに積もっていた彼女の疲労やストレスを一気に沸かせるものとなっていた。
彼女は別段ディセプティコンに恨みがあるわけではない。しかしそれが彼のような奴らばかりの集団ならば、すぐにでも嫌いになれそうだと思った。

「どちらに」

後ろでついてきていた秘書の声があがる。ロベリアはつり上がったままの目をそのままに青年を振り向く。彼女は自分がいまどんな剣幕をしているのか知らなかった。それでも青年は無表情にロベリアを見続けている。
「コーヒーを飲みに」
「ご一緒します」
「結構よ」
きつい言い方だ。そのことで、ようやくロベリアは気付き、はっとした。きつくあがっていた眉が情けない顔を作り、言いよどむ。こんなのは八つ当たりだ。

「…ごめんなさい。苛立ってるの。本当に。あなたを不快に思いをさせてしまうから、いまはひとりにさせて」

そういうと、ロベリアは青年に持たれていた自分のバッグを優しい力で取る。青年が表情になんの変化も持たずに「わかりました」と言うと、彼女はまたひとつ「すいません」と眉を下げたまま言って再び歩き始めた。基地内に備えられたカフェでコーヒーを飲もうと思っているのだ。ロベリアは自分の心が荒んだ際、どのようにすればいいかを知っていた。上司に理不尽だと思うような叱りを受けたとき、交友を図ろうとして失敗に終わったとき、月に一度にくる女特有の事で苛立ちを身にまとっているとき、ロベリアはいつもコーヒーを飲んだ。砂糖を少しほど加え、落ち着きを持った座席でゆっくりと飲み干すとき、己の心が雪の降る日のように穏やかになっていくのを、彼女はこれまでに何度も経験していた。けれども、今回は反省のためにそれを使いそうである。廊下に響く足音は 先ほどよりは小さく、それは彼女が罪悪感に浸されていることを示していた。







「その足が治るまでは基地内を好きに動いていい。くれぐれも悪化させるようなことは避けるんだぞ」
それが彼女に告げられた言葉だった。足に巻いてある包帯は定期的に替えているし、ねんざだと診断されているそこは すでに回復の兆しを見せている。もう痛みもあまりない、ほどほど自由に歩けるほどだ。そんななかで好きに動いていいと言われたのだから、彼女は随分驚き、そして戸惑った。もしも自分が逃げようとしていたらどうするのか。そんな無謀なことをするつもりは毛頭ないが、レティならありえると思ったものだから 彼女は不安でもあった。
(私がどこにいけるというのだろう)
こっそりと脱走の準備をするレティの姿が頭のなかだけで想像されるなか、彼女はひとり部屋に留まっていた。見張りの軍人はいつの間にかいなくなっていたし、近くの図書室らしきところから本を少々借りてきている。彼女は部屋を出るつもりなど毛頭なかった。連れてこられてから最も多く過ごしていた場所だからか、この部屋は居心地がいいし、なにより基地内にいる軍人と会いたくない。それは嫌悪からではなく、恐怖からであった。カタール基地でのことはもちろん、おそらくこれまでにもディセプティコンを倒し、そして犠牲者が出ているのだ。それは容易に想像できた。だからこそ、彼女は怖かった。基地の案内をしてもらったとき、エップスにとられた態度が彼女を外を出るという意識から遠ざけていた。
(なのにどうしてこうなってるんだろう)
包帯のまかれた足をブーツで隠し、なるべく音をたてないようにと注意しながら、彼女は人気のないところを歩いている。本当なら外に出たくなどなかった。好きにしていいと告げられた昨日は今こうして自分が外にいるなどと考えもしなかったほどだ。けれど、部屋から出なければならない理由ができたのだ。彼女が手に持っているのは幾度にも重なった食券の束。それは昨日、好きにしていいと告げたのとついでにルークが渡してきたものである。自由にしていいということは、つまり食事も自分で取りに行けるということなのだ。それは考えてみれば当然のことで、しかし少しほど不満を言いたくなることだ。いままでは決まった時間に食事が運ばれていたのだから。
(ずっと食べないでいたら、誰か持ってきてくれるだろうか)
もちろん、そう考えたときもあった。しかしその案は彼女の思考のなかに居る良心が邪険にして実行へ通そうとしない。彼女はできるだけ人気のないところを歩いていたが、この広い基地のなか 全く人間がいないところなど早々ない。たまにすれ違う軍人がちらちらと目を向けてくるのを、地図とにらみ合うことで避けていた。そうしなければすぐにでも泣きだしてしまいそうだった。







「すいません、コーヒーは先ほどのひとつできれてしまったんです」
カウンターに立つ店員が申し訳なさそうに眉を下げ謝罪をする。ロベリアはコーヒーの値段ぴったりのドルを手に持ちながら「え」と小さく声をあげた。なにを言っているのだ。そんな目をして店員を見る。困ったように、けれども精一杯明るく笑おうとしている店員は、少々慌てながら弁解に似た言葉を紡ぐ。「けれど新商品のカフェラテ・ビターは如何でしょう。人気なんですよ」甘すぎず、しかし苦すぎない。男性にも女性にも、この基地内での良い評判を受けている。如何ですか?店員は愛想の良い笑みを携えて進めてくる。しかしロベリアにはすべてがどうでもいいことだった。放心状態である彼女は目を伏せて「いいえ、大丈夫よ。なにもいらないわ」と言うのが精いっぱいだった。
それと同時に、カフィの心中も慌ただしいものとなっていた。そのまますぐ空いているなかのひとつの席に座っていたなら、彼女は焦ることもなかっただろう。けれども彼女はつい聞いてしまい、そして立ち止ってもしまった。彼女がいま、手のなかに持っているのは ロベリアが買おうとしているコーヒーであり、加えて彼女はロベリアの一歩前に並んでいた。
なんという偶然だろう。カフィは憂鬱に悩みながらそう嘆く。はたして、自分はこのコーヒーを渡したほうがいいのだろうか。手元にあるカップを見る。彼女は別段これといってコーヒーを飲みたいと思ったわけではなかった。飲みなれているのがそれだっただけで、正直なところカフェラテ・ビターというものでも構わないのだ。しかしこの女性はどうだろうか。視線をちらりとカウンターと向き合っているロベリアに向ける。その目は憂いに伏せられ、明らかにしょんぼりとした雰囲気を背に負っている。「あの、」と、声を掛けたのは思わずのことだ。彼女は言ったのち すぐに後悔した。女性だが、おそらくこの人も軍人だ。ならばどんな目をして自分を見ることだろう。カフィは先ほどの短い呼びかけの言葉が聞こえないようにと願った。けれどもそれは無理なことだった。
ロベリアは暗く沈ませた目をカフィに向け「はい」と些か覇気のない声で受け答える。なんですか。そこまで問いかける気力はない。カフィの行動も素早かった。腹をくくった、と言わんばかりにロベリアの目を見、コーヒーを持つ手を差し出す。こうなればはやく済ませて部屋へ戻ろう。自分が「例の件の一般人」だと気付かれないうちに。
「これ、あげます」
「…はい?」
「すいません、カフェラテ・ビターをひとつください」
「わかりました」
店員がカウンターの奥へ消え、自分の手にコーヒーのカップが握られていることに気付いたとき、ロベリアはやっと事態を把握した。コーヒーを譲られたのだ。ロベリアの瞳が輝く。「いいの?」その子供のような輝きに、彼女は思わず微笑みそうになりながらうなずいた。「いいんです」そしてはた、と気づく。この人は。ふたりが同時に、同じこと呟く。
「あのときの軍人さん」
「あのときの女の子」
そのとき、カフィの頭のなかでは映像を見させられたときのことが思い出され、ロベリアの脳内は書類上で見た彼女の情報が駆け巡っていた。カフェラテ・ビターを持ってきた店員の声がよく聞こえていた。



(110928)