カモミール・バスタイム


ちゃぷん、と身体の動きに合わせてお湯が揺れる。二人で浸かってもゆとりのある広いバスタブにお湯をたっぷり張って、お気に入りの入浴剤を使えばもうそこは極上の空間になる。
ほのかに甘い香りと清潔なシャンプーの匂い、それからお互いの匂いが満たしている。
「調子悪かったんなら寝てても良かったんよ、頑張り過ぎて疲れても大変な思いするのはチスなんやからな」
「わかってる……でもどうしても今日はチリとお風呂入りたかったんよ」
ほのかに上気したほおでチスは笑う。いつもならシャワーで済ませてしまうことも多いチリをたまには、とバスタブに浸かることを勧めるのはチスだ。
壊れてもなお、面倒見がいいところは変わらない。優しくて温かい、何よりもチリを心配してくれている。
けれど、その代わりに子どものようにチリがいないと不安がりひどい時にはパニックを起こすこともある。そんな双子の妹を守れるのはチリしかいなかったし、チス自身も頼れるのがチリしかいなかった。泣き出してしまうこともある。小さな子どものような行動はチリに対してのみ見せ、他の相手にはかつての彼女のような凜とした雰囲気を見せる。
四天王と一介のポケモントレーナー、周囲のプレッシャーと影口、チスの過度な努力が彼女を壊してチリへの依存を深めてしまった。それをチリはよくわかっていたし、その一端の責任が自分にあることもわかっていた。
飄々とした『チリちゃん』として振る舞いながらもチスへの配慮は忘れることはなかった。四天王はチリの事情を知っている者が多く、幼いポピーを除けば面識がある。
特に同僚であるハッサクには随分と助けられた。チリは気にしていなかったが、それが気安いやりとりと軽く言えてしまう程には疲労していたのだろう。
チスに支えられている自覚があったからこそ、チリの不調を目ざとく見つけたハッサクにたまにはしっかり休むように、と忠告されてしまい、それを受けたのだ。
今日は一緒にお風呂入りたい、というチスの希望を断る理由もなく二つ返事で受け入れた。
「まぁたチリちゃんのシャンプー勝手に使っとるやん」
「ええやん、減るもんやないし」
バスタブの淵に置いたシャンプーボトルはチリが普段使っているもので、それを勝手に使って泡立てるチスは上機嫌だ。
ちゃぷちゃぷと手慰みに水面を揺らすので、チリの長い髪が揺れている。
「まぁ使たら減るけどな」
「ウチはチリの髪綺麗で好きや」
チスはチリの髪を一房掬って口付ける。その仕草があまりにも様になっているから思わず見惚れてしまった。
「ん?どないした?」
「いや……なんでもない」
誤魔化すように、チスの身体を抱き寄せれば耳元でくふくふと笑う声が聞こえた。そのままぎゅっと抱き締めれば同じ力で抱き返される。
「なぁ、今日はこのまま一緒におってええ?」
「うん、もちろんええよ」
チスが甘えるように擦り寄ってくるのはいつものことだ。チリもそれを拒むことは無いし、むしろ歓迎している。
子どものように身体や髪を洗い合って、はしゃぎながら湯船に浸かる。その後はドライヤーでお互いの髪を乾かし合って、ソファで眠たくなるまでゆっくりと過ごすのが日課になった。
「ウチな、チリがおって本当に良かったって思うとる」
チスの唐突な言葉に首を傾げる。急にどうしたのだろうか。不思議に思って隣を見れば先程までとは打って変わって真剣な表情を浮かべていた。その眼差しは真っ直ぐとチリに向けられている。
「だって、ウチ一人やったら耐えられへんかったもん」
そう言って笑うチスはどこか儚くて消えてしまいそうだった。だから思わず抱き締めてしまったのだけど、それが正解だったかは分からないままただ黙って背中をさする。
「……チリちゃんはな、チスをこんなにしてしもたチリちゃんが許せんよ」
「そんなん言わんでや!チリは悪くないって言うてるやん!」
「でも、ウチのせいやから。ごめんなぁチス」
そう言って謝る彼女を見ていられなくて目を背けることしか出来なかった。
なんでこの双子の妹はこんなに優しいんだ。もっと責めてくれれば良いのに。そうすれば少しは楽になれるかもしれないのに。
そんなことを考えているうちに涙が滲んできて慌てて手で拭う。そんな様子に気付いたのか彼女は困ったように笑いながら頭を撫でてくれた。その手つきはとても優しくて余計に泣きそうになる。
「泣かんで、チリ。ウチ、チリに泣かれたらどないしていいかわからんくなる」
「……チス」
「ウチは平気や、チリ。なんて言われてもどうされても、大丈夫やから、な?」
そう言って笑う彼女が眩しくて思わず目を細める。確かにそうだ。二人一緒ならきっと乗り越えられる気がする。彼女の優しさと強さに救われたチリは小さく笑みを浮かべた。
チスはそんなチリを見て安心したように微笑んだ。その笑顔を見て、チリは何があってもこの子だけは守ろうと改めて心に誓うのだった。
「チリ、ほんまにありがとうな」
そう言って笑う彼女の顔はどこか寂しそうでもあって。だからせめて自分だけは一緒にいて味方でいようと思ったのだ。
「別にええよ。ほらチス、手ぇ繋ご?」
「……うん」
差し出された手を握ると嬉しそうに握り返される。その手は自分と似た大きさのはずなのに、とても頼りなく小さく見えた。
「大丈夫やから、安心しい」
そう言って笑いかけるとチスも釣られて笑ってくれた。
その笑顔はいつもと変わらないもので安心すると同時に、この笑顔がいつか失われてしまうかもしれないと思うと怖くなった。また無理をしてチスが壊れてしまうのではないか、と。
チリの心配をよそに、チスはもう大丈夫やからと笑っていた。それが強がりだということはわかっていたけれど敢えて気づかないふりをして頷いた。
「チリはなぁんも悪くあらへんよ、ウチが悪いんよ。強くなれなかったから全部チリに押し付けてしもた」
「チス……」
「でもな、チリ。ウチはチリが大好きやで。それだけは変わらんよ」
だから安心して欲しいと言う彼女の表情は穏やかで、もう大丈夫なのだと確信していた。それでも心配なものは心配だったので、しばらくの間チスの様子を確認することにしたのだった。
「チスの手はあったかいなぁ」
「チリの手は冷たいなあ」
「さっき温まってたんやけど、やっぱアカンみたいやな。ごめんなぁ、チス」
そう言いながらも手を離そうとしないのが可愛らしいと思う。冷たかった手は段々と温まってきて心地よい。チスの体温を感じることで心が安らいでいくのを感じた。
「ぎゅってしてたらおんなじになるよ」
おいで、と広げられた腕の中にチリは身体をすべりこませる。そのままチスを抱き締めると、同じ力で抱きしめ返された。
「あったかいなぁ」
「……うん」
チリはチスの肩口に顔を埋めて大きく息を吸うと、肺いっぱいに彼女の匂いを感じた。それがとても心地よくて思わず笑みがこぼれる。
チスはそんなチリの様子を見て小さく笑うと、優しく頭を撫でてくれた。それが嬉しくてさらに強く抱きしめると、苦しいわと文句を言われたけれどすぐに笑い声が聞こえてくる。
「ふふ……幸せやね」
「せやね」
そう言って笑い合う二人の顔はとても穏やかで優しいものだった。この幸せな時間がいつまでも続けばいいと思うくらいには満たされていたし、きっとこれからも続いていくのだろうという確信があった。
「ずっとこうしてたいわぁ」
「そうやね」
二人は顔を見合わせて微笑み合うと、もう一度しっかりと手を握り合ったのだった。
「チリは明日も早いんやろ、もう寝よう」
「せやな、おやすみチリ」
チスはそう言ってチリに布団をかけ直すと自分もその中に潜り込む。そしてチリの身体をぎゅっと抱き寄せた。
「おやすみ、チス。いい夢見てな」
「うん」
チスの体温を感じながら目を閉じると、すぐに睡魔がやってくる。その感覚に逆らうことはせず身を委ねているとやがて意識が遠退いていくのがわかった。
「チリ、大好きやで……」
そんな声が聞こえたような気がしたけれど返事をする間もなく深い眠りに落ちていったのだった。
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