わすれなぐさとの会話


記憶喪失の青年と出会ってから数週間、ブルーノは彼のことを思い出すことはあまりなかった。遊星達のDホイールの調整を手伝ったり、ちょっとしたトラブルに巻き込まれたりと一人で出掛けることもなかったから。
だからその花屋の前を久しぶりに通るとふわりと香ってきた花の香りに不思議と泣きたくなった。懐かしいような、綺麗な思い出に触れたような気持ちになりながら店先に飾ってあった一輪のバラに眺めた。
「……この花、枯れてる?」
「あ、この前の……」
前回会った時と同じネイビーのエプロンをしていた青年はジョウロを片手に現れた。少し長めの髪を後ろで一括りにして、朝日の眩しさに目を細める。
「おはようございます、お元気でしたか?」
「おはよう。おかげさまで。君も元気そうでよかったよ」
「それは良かったです、えぇと……まだ名前聞いてなかったですね」
ブルーノの返事に視線をさまよわせながら彼はジョウロの水を撒き始める。これからの時期、高くなる気温は花には大敵だ。
道端で色を添える可憐な花びらも焼けてしまうことがあるからこまめに水撒きをするのだと彼はつぶやくように教えてくれた。
「ブルーノだよ、……君は名乗らなくていいよ。 覚えていない名前を無理に思い出さなくてもいいから、僕の名前だけ覚えて」
ブルーノはそう言ってから彼に先ほど見つけたバラを指差した。花びらの先が変色してしまっている。おそらくこの陽射しで焼けてしまったのだろう。
「ありがとうございます、ブルーノさん。まだ開店前で良かったです。他の花も点検しないと……」
彼はそう言って件のバラを手に取って別の入れ物に移すと店先に飾っていた花を一本ずつ点検し始める。花と会話をするように花びらを撫でて、茎を確かめていく姿はデッキを組み上げていくデュエリストの姿にも重なった。
「名前、思い出したい?」
ブルーノは気がつけばそんなことを聞いていた。別に意地悪をしたいわけではなくて、不意に疑問に思っただけだ。ぽっと浮かんだ純粋な疑問。
「……どうでしょう、まだわかりません」
彼は目を細めて花びらに触れて微笑んだ。
「ブルーノさん、中へどうぞ」
「……え」
彼は店内に入るとブルーノの方に手を差し出して、穏やかに笑った。少しためらいがちに中を覗き込むと店内にはテーブルが並べられてその上には様々な種類の花が並んでいた。その花々の瑞々しさは枯れているものや萎れているものなど一つもない。
「この花屋はね、まだ開店前なんです」
彼はそう言って一輪の花を手に取った。それは赤いバラだったけれど花弁が一枚欠けていた。それを茎から丁寧に外して花瓶に挿す。
「これは売り物にはならないけど、飾り物にするには十分なんです。……誰かの手に渡らないのは悲しいけれど、僕の目を楽しませてくれますから」
その理屈はよくわからなかったが、彼の瞳は悲しそうだけれど、どこか楽しげにも見えた。彼は花瓶を店の中央に置くとすぐに次の花の手入れをしていく。茎の長さをそろえたり、汚れてしまった花弁を取り除いたりして見栄えがよくなるように整えていく。
「それに、この花屋は僕の居場所なんです」
彼はそう言ってからブルーノに椅子に座るよう促した。そして一輪の花を手渡すとにっこりと微笑んだ。
「何も覚えていなかった僕をここのご夫婦は置いてくれているんです。何も知らない、見ず知らずの人間にご飯を出してくれるんです」
彼はそう言いながら水で湿らせた布で花瓶のまわりや茎の部分を丁寧に拭き始めた。その手つきはとても優しく丁寧だ。
「だから、ここで働いているんですよ」
彼はそう言ってブルーノに一輪のバラを差し出した。花弁は欠けていないし、茎も真っ直ぐに伸びている。
純粋な白に少しだけ目がくらむようだった。
「……ここにいれば何かが見つかるような気がしているんです」
彼はそう言ってはにかんだ。
小さな蕾がゆっくりと花開くように少しずつ思い出してほしい。もしいつか何かを思い出せたら、それが一番嬉しいことだから。
「お花は君みたいだね」
「どういうことですか?」
ブルーノは店内に並ぶ花を愛おしげに見つめて微笑む。青年は自分が褒められていることに気づいていないようだった。
「どこを見ても健気で綺麗で、優しくて……どこか寂しそうだ」
そう言ってブルーノが微笑むと彼はきょとんとした顔をした後、吹き出すように笑った。なんだかおかしくなって二人でくすくすと笑った。
「なんだかロマンチストですね、ブルーノさん」
彼はそう言って嬉しそうに微笑んだ。それから一番近くにあった白い花を指でつついた。その花は他のものよりも丈が短く、まるで最初から見栄えを良くするために切り落とされたみたいだった。
「この花を見てるとね、いつも何かを思い出す気がするんだ」
「どんな思い出ですか?」
「……わからないな」
ブルーノはそう答えてから店内の花々を見回した。それはどれも同じようでいて違うものだ。一輪一輪の花弁の形や色が違うし、茎の長さも葉の大きさだって違う。でもみんな美しくて優しい花だ。だからきっとこの花屋には彼みたいな人が相応しいのだろうとブルーノは思った。
「この花も君が育てたの?」
「はい、お店の準備は僕が任されているんです。……お花の手入れと簡単な掃除、それから予約の入っているブーケを作ったり…」
彼はそう言って慣れた手つきで花を束ねていくと花束を作り上げた。ブルーノはその出来栄えに見惚れていた。それは本当に見事で売り物にしても申し分ないものだったから。
「すごいね……」
思わずそんな言葉が漏れてしまうほどで、彼は照れくさそうにはにかんだ。
「ありがとうございます。でもまだまだです。僕を拾ってくれた人たちへの恩返しになっていませんから」
「それでも、すごいよ。僕は……そう思う」
ブルーノがそう言って笑うと彼もまた微笑んでくれた。その微笑みには喜びと照れが入り交じっているように感じられた。だから、もっと彼のことが知りたいと思ったんだ。この花屋に来ればいつでも会えるのだから。
開店の時間が近づくと彼はブルーノに先ほど作ったブーケを手渡して穏やかに微笑んだ。
「今日、会いに来てくれたお礼です。よかったら受け取ってください」
「そんな、僕は何もしてないのに……」
ブルーノはブーケを見つめながら戸惑っていた。自分にはもったいないと思ったからだ。花の美しさを損なわないように大切にされているものだと思ったから。
けれど、彼は穏やかに首を横に振って、ブルーノの手を包み込むようにしてブーケを持たせる。そして懇願するように見つめた後、そっと手を離すと一輪のバラを追加で差し込んだ。
「じゃあ……今度来る時はぜひ何か買ってください。それだけで十分ですから…」
「うん、わかったよ」
ブルーノがそう答えると彼は嬉しそうに笑ってくれた。それから開店時間になると彼は店先に立って客を迎える準備を始めた。ブルーノはその後ろ姿を眺めながらもらったばかりのブーケの香りを嗅いでみる。
甘くて優しい香りが胸を満たした。
「また来るよ」
ブルーノはそう言ってから歩き出したけれど、彼は仕事に夢中で気づいていないようだった。
でもそれでよかったのかもしれないとブルーノは思った。そのブーケの香りが彼のことも思い出させてくれたから。この花が枯れてしまわないように大切にしようと心に決めた。また彼が笑いかけてくれる日が来ればいいなと思いながら。
「いらっしゃいませ」
今日も花屋の店先では彼の明るい声が響く。花を買い求める人々が少しずつ集まってくるのを尻目にブルーノはポッポタイムのガレージへと急いだ。
この季節の日差しはとても眩くて、まだ太陽が真上に上る前に花は色褪せてしまうから。
だから早く帰らないと、あっという間に色褪せてしまう。
「ただいま、あれ?」
ブルーノがガレージに到着すると遊星は気難しい顔でパソコンの画面を見つめていた。どうやらまた何か難問にぶち当たっているらしい。
「……あぁ、ブルーノ。実はここの調整に悩んでいるんだ」
画面を覗き込むとどうやらDホイールの加速部分の調整を行っていたらしい。画面にはプログラム画面があり、それを遊星があれこれ弄っているようだったがどうにも上手くいかないようだ。
「前はこれで行けたんだが……やはりここを変えるべきか……」
遊星はぶつぶつ独り言を言いながらプログラムを弄っていく。ブルーノはその様子を側で眺めていたけれどやがてあることに気がつく。このプログラムでは不具合が生じてしまうことに。
「ここをこうしたら上手く行かないかな?……このコードをこっちに持ってきて……」
「なるほど、助かった。試してみる価値はある」
遊星はブルーノの意見を取り入れてプログラムを組み直すと早速試運転を開始した。その様子を見ながらブルーノは自然と笑みがこぼれてしまう。
「上手くいったみたいだね」
「あぁ、ありがとうブルーノ。これで安心してDホイールの試験走行が行える」
遊星はそう言って嬉しそうに微笑んだ。それから日が落ちるまで彼はガレージの中で作業を続けては調整を繰り返していた。
そして作業が終わるといつものルーティンであるコーヒーを飲みながらデッキを調整していく。それはもちろんブルーノも例外ではないし、むしろ彼の方が熱心だった。
彼から受け取ったブーケを小分けにしてガレージに飾っていくうちに甘い匂いがただようようになって、知らないうちに脳裏に彼の姿を浮かべるようになった。
「また花束を持って来たのか?」
「うん。あの花屋の店員さんがくれたんだ」
遊星は興味深そうにブルーノの話を聞いている。その眼差しがどこか優しく見えるのは自分の気のせいだろうかと彼は思った。
「あぁ、この前言っていた花屋の準備をしていた人か?」
「そう。……今日は開店前のお店の中に入れてくれたんだ。それで会いに来てくれたからってブーケをくれたんだよ」
ブルーノは思い出しながら語ると遊星も穏やかに微笑みながら呟いた。その微笑みはまるで懐かしいものを見るかのように穏やかで優しかった。
「いい人なんだな」
「……うん、すごく優しくて……でも少しだけ寂しそうで……」
ブルーノの言葉に遊星は静かに頷いてコーヒーカップを傾けた。それから思い出したように呟く。
「また、その水色の花が入っているな。前に持って来たのと同じ花だ」
「……本当だ、わすれなぐさだね」
ブルーノはその花をそっと手に取って首を傾げた。この花を見ると何かを思い出しそうな気がするのにそれが何かはわからないままだ。
「わすれなぐさには『わたしを忘れないで』っていう花言葉があるんだって、彼が教えてくれたんだ」
「忘れないで、か……まるで誰かを思い出しているようだな」
遊星はブルーノの話を聞いてそう呟いた。その横顔はとても穏やかで優しくてどこか切なげだった。
「そうだね……」
ブルーノは遊星の呟きに小さく頷いた。それからブーケをそっと胸に抱き寄せて目を閉じると彼のことを思い出す。
あの優しい微笑みや優しい声音を思い出すだけで心が満たされるようだった。でもそれと同時に胸が締め付けられるような苦しさも感じる。
この気持ちは一体何なんだろう。
彼は一体誰なんだろうか。
ブルーノには考えてもわからなかった。
数日後、花屋を訪れると彼は変わらずそこにいた。ブルーノは花を一輪購入するといつものように彼に話しかけた。
「こんにちは、また来たよ」
「いらっしゃいませ、あ……ブルーノさん」
彼はブルーノの姿を見るなり嬉しそうに微笑んで迎えてくれた。その微笑みに彼もまた同じように喜んでくれているような雰囲気を感じて嬉しくなった。
「今日は何かお探しですか」
「ううん、君の顔を見に来たんだ。元気そうで良かった」
「ありがとうございます。でも、僕は変わりありませんよ」
「よかった。じゃあ、この花は僕から君にあげるよ」
そう言ってブルーノは買ったばかりのオレンジのチューリップを差し出した。彼はそれを受け取ってから不思議そうな顔をして、ブルーノの顔をまじまじと見る。
「この花はね、見た瞬間に君にぴったりだと思ったんだ」
ブルーノはそう言ってチューリップを差し出すと彼は一瞬だけ戸惑っていたが、すぐに両手で受け取ると小さくお辞儀をして微笑んだ。
「ありがとうございます」
その微笑みがとても柔らかくて温かいものだったから、ブルーノもまた自然と笑みが溢れてしまう。
それから二人はしばらくの間花屋の前で他愛ない会話をしていたが、老夫婦に呼ばれて店内へ戻らなくてはいけなくなった。
「あ……そろそろ戻らないと。ブルーノさん、立ち寄ってくれてありがとうございました。最後に……オレンジのチューリップの花言葉は『照れ屋』ですよ」
彼はそう言ってまた微笑むと店内に戻って行った。ブルーノは店先のオレンジのチューリップを見つめながら呟く。
「照れ屋……」
この花言葉はまるで彼のようだと思った。
でもそれが何なのか思い出せなかったし、今は特に問題もないと思ったのでそのまま帰路についた。



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