始まりのわすれなぐさ


その花屋は小さくシティの端にこぢんまりと位置していた。
白いレンガ造りで朝日を眩しく照り返している。空の青さと対比するように店先に色鮮やかな花がたくさん並べられている。名前も知らないきれいな花が店の色合いを引き立てている。
赤い花の手入れをしている青年にふとブルーノは足を止めた。彼はネイビーのエプロンを腰に巻いていて、枯れた花がないか元気がない花がいないひとつひとつ見て回っている。
ブルーノは徹夜明けでぼんやりする頭でぼうっと彼を見ていると目線があった。
「ごめんなさい、まだ開店前なんです」
「あ、……ごめん、僕こそジロジロ見ちゃって、えぇと、ここのお店のひと?」
少し申し訳なさそうな顔をして彼は手にしていたハサミをガーデンテーブルの上に置いた。それからブルーノの顔を見てはにかんだ。
「いえ、僕は下宿させてもらっているだけなんです。でも、置いてもらっているから何かしないと落ち着かなくて。あなたもあまり見ない顔だけど、このあたりに引っ越してきたんですか?」
「僕も似たようなものだよ。知り合いに紹介してもらったところでアルバイトしてるんだ」
ブルーノは手にしていた買い付けたパーツが入った紙袋を彼に見せた。何かわからないような顔をした彼だったが、興味を持ったように近づいて中身を覗いて小さく首を左右に振った。
「何かわからないけど、あなたには大切なものなんですね」
「うん、これがないと困るんだ。D-ホイールの性能を上げるにはこれが一番良いんだ、エンジンとかモーターの出力がぐんと上がってスタートの初動が全然違うんだよ。それから……」
ブルーノはそう勢いよく話し始めたが、彼はポカンとした顔をして聞いていた。どこかの見知らぬ言葉を聞いたようなそんな反応にハッとして話すのを止める。
少しの沈黙の後、彼は苦笑いしながら今度はジョウロを手に取った。
「機械いじりが大好きなんですね。僕にはさっぱりですけど、きっとあなたがいるところは楽しいんだろうな」
「そういう君はお花が好きなんだね、こんなに朝早くから手入れをして水やりをしているんだから」
彼は少し青さが増した空を見上げてからブルーノの方を見て今にも泣きそうな顔をした。ブルーノにはわからない静寂を含んだ表情に紙袋を持つ手に力を入れていた。
水をたっぷりと入れたジョウロで花に水をやりながらさみしそうに笑っていた。
きらきらと朝日を受けてきらめく水を見ながらブルーノは彼を見つめることしか出来ない。石畳の色を変えながら排水溝へ流れていく水を眺めて彼は小さく呟いた。
「誰も僕のことなんてわからないんです」
「……え?」
「あ……いえ、なんでもありません。早く行かないとアルバイト先の方が困るのではないですか?」
青年に促されて思ったよりも長くこの花屋にいてしまったようだ。ブルーノは時計を見てカンカンに怒っているであろうジャックのことを思い出して急に青ざめた。遊星だって困っているに違いない、買い物に出かけた自分が買い物に行ってからずっと帰って来ないのだから。
「そろそろ帰るよ、でもまたここに来てもいいかな?君ともう少し話したいんだ」
「ぜひ、お待ちしております」
あくまでも礼儀正しく穏やかに彼は微笑んだ。
白いレンガ造りの清潔感溢れる花屋の青年はブルーノに数本の花を差し出した。
「これは?」
「今日の記念にお持ち帰りください、わすれなぐさです」
小さな水色の花が無数に咲いていてる。それを白い紙で包み、青いリボンで結ぶと彼に再び渡した。そのリボンの色はブルーノの髪とよく似ている。
わすれなぐさ。初めて聞く名前の花にブルーノはしげしげと眺めてからお礼を小さく言ってから彼と別れて、ポッポタイムのガレージへと向かった。
案の定、帰ってくるのが遅くなったブルーノはジャックから大目玉を食らい、クロウと遊星からは心配された。
明け方にパーツを買いに出たはずがすっかり日は高く昇っていてゆったりと朝の時間が始まっている気配もある。あの花屋の青年と話し込んでいた時間が心地よかったのか、のんびりしすぎてしまったらしい。
「どこ行っていたんだ、ブルーノ」
「あぁ、うん。パーツはいつものところで買えたんだけど、街角で花屋を見つけてたんだ。そこで店員さんと話し込んじゃってね」
「花屋?……あぁ、あのご夫婦でやっているところか」
遊星はブルーノがパーツを買いに行くときによく見かける花屋をすぐに思い出した。その店はシティの中でも珍しいほど穏やかな夫婦で経営している小さな花屋だった。
「うん、そこの店員の人とすっかり話し込んじゃったよ」
「店員?今の時間はまだ開店してないはずだが……」
「お手伝いって言ってたからたぶんお孫さんか誰かじゃないかな。穏やかそうな人だったよ」
ブルーノの言葉にクロウは朝食として持ってきたトーストとコーヒーを渡しながら、二人の会話に口を挟んだ。
「あそこの花屋、じーさんとばーさんしかいないはずだぜ?孫はシティにいないはずだからな」
「え?でも、お手伝いって……」
「いいや、確か息子夫婦が孫を連れてシティを出てヨーロッパに住んでるって聞いたぜ」
「じゃあ、そのお孫さんが手伝っているのかな?」
ブルーノの言葉に遊星はふむ、と考える。
確かにあの花屋は夫婦二人で経営していて、いつも笑みを浮かべているような穏やかな老夫婦だったはずだ。しかし、手伝いがいるほど忙しい店ではないし、何より遊星がいつもの店へパーツを買いに行くときにはまだ開店していない。それに店員の青年もいなかった。
「最近帰ってきたとかなのかもな。つーかどうすんだよ、それ。花なんかもらって飾る場所ねぇぞ」
「コップに挿しておくよ、せっかくもらったんだから飾らないのも悪いし」
「まぁ、いいが……。しかし、花屋がまたどうして?」
「それがさ……」
ブルーノは今朝あった出来事をジャックとクロウに話す。すると二人は顔を見合わせて首を傾げた。遊星が静かにコーヒーを飲みながら何か考えている。
「なんとなく気になったんだ。変なところなんて何もない人なんだけど、朝早くから花の手入れをしていたから」
「それだけかよ?」
クロウは顔をしかめてテーブルを指でトントンと叩いている。ジャックも首を左右に振ってからブルーノを見る。
「花屋のことはもういいだろう。オレは眠いから一旦寝るぞ、遊星」
「あぁ、オレも少し休む。ブルーノも休んだ方がいい、調整するのにも身体は休めた方がいいからな」
「あ、うん……。ありがとう、二人とも」
遊星とジャックは寝室に消えていき、クロウは後片付けのためにキッチンへと戻っていった。
ブルーノは一人ガレージで買ってきたパーツをテーブルに並べながら考える。あの花屋が何だったのかはわからないが、時間があればまた行ってみようと思った。
それから一週間ほど経った頃だった。
その日はどんよりとした曇り空で、今にも雨が降り出しそうな空模様をしている。それでも、白いレンガ作りの店先には老夫婦やあの青年の姿があった。
シャッターが開いていたのだ。それがあまりにも意外で通りがかったブルーノは思わず足を止めた。
店先には色とりどりの花が並んでいてそのどれもが美しく咲き誇っていた。まるで今朝摘んできたばかりのようにみずみずしい花々が並んでいる。
「いらっしゃいませ……あ、この前の」
「こんにちは。あの……元気、だったかな」
「はい、おかげさまで。今日はリナリアが入荷したんですよ、見て行きませんか」
この前のようにネイビーのエプロンをつけて彼は水やりをしている。ブルーノの言葉に嬉しくなったのか目を細めると花の方へ視線を戻した。
花々は色鮮やかに咲いていて香りも華やかだった。
リナリア、フリージア、ローダンセ。
青年の説明をひとつひとつ聞きながらどれも生き生きとしている花々をブルーノは見つめていた。
「どれもきれいだね」
「えぇ、この花は今朝摘まれたばかりなんです。だから香りが強いでしょう?」
彼は水やりを終えてエプロンで手を拭いながらブルーノの隣までやってくる。
花の香りに混じって彼の香りがするような気がして、少し胸が高鳴るのをブルーノは感じた。その香りはどこか懐かしくて、でも思い出せないようなそんな感覚だ。
「この花はクレマチスと言って、大輪のお花を咲かせてくれるそうです。僕もまだ本物は見たことがないんだけど、ツル植物の女王と言われるくらいきれいなんだそうです」
「へぇ、そんな花があるんだ。いつか見てみたいなぁ」
「僕もです。花をたくさん育ててみたいです」
青年の瞳がきらきらと輝いていてブルーノもそれに釣られて微笑んだ。こんなに話しやすい人に出会ったのは初めてかもしれない。
彼はエプロンを畳んで小さく折りたたむと店の奥に入っていった。その後ろ姿を見ながらブルーノはふと疑問を口にした。
「そういえば、君はずっとここで働いているの?この前、ずいぶんと朝早く花の手入れをしていたけど……」
その言葉に彼は少し困ったように笑ってから口を開いた。
「えぇ……実は僕、記憶がないんです」
「え……?」
突然の告白にブルーノは言葉を失ったが、彼はそのまま続ける。
「この花屋に来る前のことは何も覚えていなくて……。セキュリティの人の紹介でここに来たんです」
「記憶喪失、ってこと……?」
青年は静かに頷いた。ショックだったかもしれないがブルーノは黙って話を聞くことにした。
彼の瞳に嘘や偽りの感情は感じられなかったからだ。きっと本当のことなんだろうと静かに思った。
青年は話を続ける。その声はどこか寂しげで、美しい花の話をしたいとはとても思えないくらいに重い声だった。
「……あ、ごめんなさい。あなたに話すようなことじゃないですね、すみません。忘れてください」
「ううん、いいんだ。僕も聞くようなことじゃないこと聞いちゃってごめんね」
ブルーノは素直に謝ったが彼は慌てて首を振った。そんな表情をさせたかったわけではないのだ。ブルーノは少し考えてからまた口を開いた。
「でも……きっと本当の君は優しい人なんだろうね」
「どうして、そう思うんですか?」
「……だって、この花々を見たらわかるよ。毎日丁寧に手入れして、水やりも欠かさないで……愛情を持って育てているんだなって」
その言葉に青年は少し驚いた顔をしてから小さく笑った。その笑顔にブルーノは釣られるように笑みを浮かべた。彼は花々を見て、それから小さく頷いた。
「そうですね……きっと僕は花が好きなんです」
「うん、わかるよ」
彼の言葉が嬉しくてブルーノも自然と微笑んでいた。
青年はそんなブルーノを見て少し驚いたような顔をしたがすぐに微笑み返した。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」
彼の笑顔を見ているとなんだか心が温かくなるような気がしてブルーノは不思議な気持ちだった。まるでずっと昔から知っているような、そんな感覚だ。
しかし、それが何なのかわからずにただ黙って彼を見つめていたら、彼は困ったように笑ってから店の奥に入っていった。
「あ……」
そんな声が無意識に出ていたのを自分で聞いてからブルーノは我に返って頭を振る。
きっと彼が気になったのは自分と環境が似ていたからだ。持っている雰囲気があまりにも寂しそうで、この世にたった一人だけ取り残されてしまったようだったから。
その時、店の奥からまた彼が出てきた。手には小さな花束を持っている。
「これ、売り物にならないリナリアの花です。良かったら持っていってください。この前の花のわすれなぐさの花言葉、知っていますか」
「花言葉?」
「……なんて言えばいいかな、えぇと、植物の花とか実に象徴的な言葉をつけたものって言えばいいですかね。わすれなぐさの花言葉は『わたしを忘れないで』です」
ブルーノはリナリアの花を見る。きれいな薄いピンク色の花だった。小さくて、脆くて可憐な印象を受けた。彼はエプロンで手を拭いながらブルーノを見る。その顔はどこか泣きそうに見えて、ブルーノは目を細めた。
「ありがとう……でも……」
「……お願いです。また来てください。あなたともう少しお話したいかも、しれませんから」
あまりにも切実な声にブルーノは思わず花束を受け取ってしまった。それを見て青年は泣き出しそうに微笑んだがすぐに背中を向けて店の奥へと消えてしまった。
それがなんだか遠く感じてブルーノは小さく溜息を吐くとリナリアの花束をそっと抱えた。
「また来るよ、きっと」
小さく呟いてからブルーノは店を後にしたのだった。
それがちいさな奇跡の始まり。
白いレンガの花屋さん。
ネイビーブルーのエプロンをした記憶喪失の青年。同じく記憶喪失のブルーノ。
二人の出逢いがちいさなきらめきをもたらしていく。


[ PREV | NEXT ]
もどる