きんもくせいのようなひと


「どうしてジャックが泣くの、お願いだから泣かないで」
彼の言葉にジャックは言葉をなくした。
確かにわかっていたはずだ。このために彼はジャックのリーグ優勝を見届けて、一番に祝ってくれた。だが、いざそれが突きつけられると俄かに真実として受け入れがたく感じている。
彼の選択を鈍らせてはいけない。
ほおをすべり落ちて行く涙を止める術をジャックは持たない。彼がそっと指先で涙を拭うとその手を反射的に掴んだ。
「……ほんとうに、死ぬのか」
「まだそんなこと言うの?あなたが見届けてくれるって言ったから、僕はやっと決意できたんだよ。ジャック、あなたがこの街の今季のプロリーグいなかったら僕は苦しみながら死んでいた。それを自分の手で終わらせることが出来るんだ、僕は今とても冷静で穏やかな気持ちだよ。……ねぇ、ジャック。お願いだからこのまま穏やかな気持ちのまま終わりたいんだよ」
きんもくせいの街でたまたま二人は再会した。その時には幾ばくもない命をジャックといると決めていた彼をもう止められないのだとジャックはまた涙をこぼす。
自分はこんなに弱くなかったはずだ。仲間でさえ殴り飛ばすこともあり、どこまでもマイペースで強さを求めて邁進して行くのがジャック・アトラスだったはずだ。
それなのに。
「……お前は、どうしてそんなことを簡単に受け入れてしまうんだ……」
震える声で呟くと彼は困ったように笑った。
「僕はジャックには笑っていてほしいんだよ」
そう言って彼が微笑むのにたまらなくなってジャックは強くその身体を抱きしめる。彼は少し驚いたようにしていたが、やがてゆっくりとジャックの頭を撫でた。
「ジャックはほんとうに強くて、優しいんだね……あなたにこんなに悲しんでもらえて僕はほんとうに幸せ者だな」
その言葉だけで充分だった。それ以上は必要なかった。
彼が望むなら笑顔で彼の最期を見送ってやりたかった。しかし、そうしてやれるほどジャックは強くはない。
強くないと気付かされてしまった。
デュエルでは確かにジャックは着実に強くなっている。チームでは極めることは全て極めることができたと言って故郷を出てきた。
だけど、誰かを失うことに関してジャックはまだその痛みを知らなかったのだ。彼がいなくなるということがこんなにもつらいなんて思わなかった。
「ジャック、あなたはとても強くなったんだよ。……もう仮初のキングなんて言わせない、僕が保証するよ。あなたは正真正銘のキングだ」
そっと背中をたたかれる。まるで駄々をこねる子どもをあやすようだったが、それでもジャックは首を横に振った。彼の願いなら叶えてやりたい。けれど、このままこの痛みから立ち直れなかったらどうすればいい?
「……お前は、本当にそれでいいのか?」
「いいんだ。遅かれ早かれ僕はどのみちもう死ぬ。最期くらいは自分で決めたいんだ」
ジャックのほおを再び涙が伝う。どうして、とまた聞きたくなる。だが、それすらも彼は受け入れてしまうだろう。だからジャックはただ彼の手を握り続けた。少しでも彼が安心できるように祈りを込めて。
「ねぇ、ジャック」
彼が優しく呼びかける声に顔を上げる。彼は変わらず微笑んでいたけれどその瞳は僅かに潤んでいるように見えた。
「今日はジャックに会えただけで嬉しかったよ。……ほんとうに、ずっとお礼を言いたかったんだ」

彼の手を握る指に力がこもる。その指に彼は自分の手を重ねるようにして言葉を続けた。
「僕のそばにいてくれてありがとう。……僕なんかがこんなこと言っていいかわからないけど、僕はジャックをとっても尊敬しているよ」
それから二人はしばらくの間言葉を交わすことはなかった。医師が持ってきた安楽死に使用する薬をジャックは死神に会ったような気持ちで見つめていた。
それを飲めば彼は自らの命に幕を下ろすことになるのだから。
「では、ここにサインをお願いします」
承諾書と書かれた一枚の紙に彼がペンを走らせて名前を書く。それを見届けると同伴してきた看護師は薬を彼の前にトレーとコップ一杯の水を差し出した。
ごくり、と喉が動いたのを見てジャックは安堵する。彼はゆっくりと薬を飲んでいくと力尽きたようにベッドに倒れ込む。
「一時間ほどで効いてきますから、このまま少しお休みになられてください」
看護師が声をかけるとジャックはゆっくりと彼の手に触れた。まだ温かい。
彼は小さくうめくと、ジャックの手にすがるようにして手を握りしめた。
「ジャック……ほんとに、ありがとう……」
彼の声がかすれていきゆっくりとまぶたが落ちる。
そこで彼が最後に何を言いかけたのかは分からなかった。しかし、最後までジャックの手を握ってくれたことを思えば想像することは容易だ。
(オレはお前にとってなんなのだろう)
決して友人と呼べるような関係ではなかったはずだ。そもそも彼と出会ったのは偶然だったし、ゴドウィンの養子として会う必要もない状況の中で自分と出会ったから彼はジャックのそばにいてくれたに過ぎないのだ。
それでも彼にとってジャックが特別であったように、また特別な存在だったのだと思えるようになったのはごく最近のことだ。最初は鬱陶しいばかりでさっさと逃げてしまおうとさえ思っていたというのに今ではこんなにも愛おしい。
もっと早く気づくべきだったのだと今更ながらに思うけれど、そんなことを言ったところでもう遅いのだ。
「……最期まで看取ってやるからな」
小さく呟いてジャックは彼の手を優しく撫でた。せめて最期の時まで一緒にいようと再びベッドサイドに寄りかかって彼の横顔を見つめる。
安らかな表情で眠っている彼はいつもよりも幼く見えたがそれでもジャックにとっては変わらず好ましかった。
だが、そのまぶたが開かれることがないことはわかっている。あの薬を飲んだが最後、彼は目覚めないのだから。それでもジャックは彼を見守り続ける。彼が旅立ってしまっても、今この一時だけはとなりにいることが許されているような気がしたのだ。
それからどれだけ経ったのかもう時間の感覚がなかったが、医師が看護師を連れて病室に入って来る。もう冷たくなり始めていて、息をしていない彼の状態を観察し、聴診器で心臓の音を確認し、目にライトを当てて確認してから静かに告げた。
「ご臨終です」
ああ、そうか。彼は逝ってしまったのか。
それを理解してもジャックはただ黙って立ち尽くしていた。
悲しむべきか喜ぶべきなのかすらわからない。あまりにも突然すぎて涙すらも出なかった。そんなジャックに医師は静かに続ける。
「痛みや苦しみはなかったはずです」
その言葉にはっとしてジャックは彼の方を見たが、相変わらず表情はなかった。

確かに唇の色もなく呼吸もないようだったが血色が悪いというわけでもないように思える。少なくとも安らかであることは間違いないだろう。
それを見てやっと安堵の気持ちがわいてきたような気がした瞬間、視界が滲んでいくのを感じた。ぽたりと落ちたしずくはそのまま彼のほおを伝って流れていくのを見て自分が泣いていることを自覚すると同時に堰を切ったように溢れ出す涙が止まらなかった。
そんな自分に困惑しつつも嗚咽を止めることは出来ずにただじっと彼を見つめていた。
彼が安らかに旅立ったことを悲しむことは間違っているのだ。そうはわかっていても涙は止まらなかった。
そんなジャックを医師と看護師は静かに見守っていたがやがて静かに部屋を出ていったのだった。
(ありがとう、ジャック)
彼の最期の言葉が耳に蘇る。
もう届かない言葉なのになぜだか聞こえた気がした。
それは都合のいい幻聴だったのかもしれないけれど確かに彼はそう言ったような気がしたのだ。ジャックの手をずっと握りながら最期を迎えたのかと思うとなんとも言えない気持ちになった。それが悲しみなのか安堵なのかわからないまま、ジャックは泣き続けたのだった。
「……ふぅ」
ようやく落ち着いてきた頃、ジャックは深く息を吐いて涙を拭った。まだ胸の内にはもやもやしたものが残っているけれどひとまずこれで区切りがついたのだろうと思うことにする。彼が最期に遺した言葉の意味を噛み締めながらジャックはずっと彼を見つめていた。
(オレもお前に会えて良かった)
ジャックが心で語りかけると彼はかすかに微笑んでくれたような気がした。そんな彼の手に自らの手を重ねるようにしてそっと握ると彼の冷めた体温が伝わってくるような気がしてまた泣きたくなるのをこらえる。
「……お別れは十分にしてください」
医師にそう言われたが、ジャックは程なくして彼が暮らしていた部屋をあとにした。
だが、彼を担当していた看護師に呼び止められてジャックは足を止める。
看護師はちいさな箱を手にしていて、それを手渡してきた。
「彼から自分が死んだら渡して欲しいって頼まれていたんです。本来はこういうことはしちゃいけないんですけど……、彼はここの生活が長かったから」
「……」
ジャックは何も言わずにそれを受け取り、看護師に礼を言うとそのままホスピスを後にした。
ホテルの部屋に戻ってからようやくジャックは箱を開く決心がついた。中には乾燥したきんもくせいの花とメモ紙。
彼のような丸っこい文字で二人が再会した日と近くの公園にて、という文字があった。それを裏返すと小さな文字で“ジャックにお礼を言えた”と書いてある。
「ばかめ、そんなことで満足なはずないだろう」
ジャックは呟いたが、その声が僅かに震えていた。涙が再びこぼれ落ちるのを感じながらジャックはそれを抱きしめるようにして箱を抱え込んだ。
「……オレは、まだお前と話したいこともやりたいこともたくさんあったというのに……」
涙はにじんたが堪えた。彼との約束だ。
笑っていて欲しい、と。
自分は笑っていた方がいい、と。
そしてまたジャックの心に一つの想いが湧き起こる。
彼がそう願ったのだから、彼の最後の望みを叶えなければ。
(オレは絶対に負けない)
決意を固めると自然と笑みが浮かんだ。彼は最後に笑って欲しいと言っていたから。

「そうだな、お前のことは忘れない」
こんな非凡な日々を忘れるわけがないのだ。
ジャックにとって生きるということそのものが特別なのだから、それは当たり前のように思えていたことだったけれど本当はとても当たり前ではないということを彼に教えられたような気がした。
彼の存在がジャックにひとときの安らぎを与えてくれた。ただのひとりの人間として生きられたことを感謝している。だからこそ、これから先も生きていくことは出来るし生きていきたいと思えるようになったのだ。
このきんもくせいの街で起きたちいさな奇跡の物語を胸に、ジャックはこの先も生きていく。
ホテルをチェックアウトした後、ホイール・オブ・フォーチュンにまたがりジャックは旅路へと戻る。
彼との思い出と約束を胸に。

きんもくせいの花言葉は気高い人、真実、陶酔。
彼のような花だとのちにジャックは語った。

Fin.