きんもくせいの覚悟


彼は命の終わりを決めた。
誰にも相談もなく、この小さな部屋で静かに決意を固めたのだろう。その薬を飲めばもう話をすることさえ出来なくなり、ジャックとデュエルの話をすることもない。
発作の苦しみを終わらせることが出来るなら構わない、とその時彼は笑った。
今は鎮静剤を飲んで穏やかに寝息を立てている彼を見つめながらジャックは骨の浮き出た手を見つめる。その手でこれまで必死に争ってきたのだろう。
「……なぜお前が死ぬんだ」
ジャックは気がつけばそう口にしていた。
彼を失うことが惜しいと感じている。もっと話をして、デュエルを教えて戦いたい。仮初のキングだった頃の自分にも変わらずに話しかけてくれたゴドウィンの養子としてではなく、ただの友人として彼と話したい。
確かに遊星やクロウとは今も親交がある。時折連絡があり、あの双子達やアキともやりとりをしている。チームの仲間達はかけがえのない友人だ。だが、彼とはまた少し違う。
うまく言葉には出来ないが何とも言葉にしがたい友人だった。キングとして君臨し続けていたジャックを陰ながら支えてくれた恩人、とでも言おうか。ゴドウィンの養子という立場でありながら誰の目にも触れることなく、静かにあのシティの片隅で過ごしていた。そんな彼はこの芳しいきんもくせいの街で終わりを決めた。
美しい小さなオレンジ色の花が咲く、小さな街で。
プロリーグが開催されたこの街はきんもくせいで彩られていていい匂いはするが、悲しさを感じさせるのはなぜなのか。
ジャックにはわからない。デュエルを通して様々な相手と戦ってきたはずだが、このきんもくせいの匂いが呼び起こす悲しさの理由はわからなかった。
だが、感情とは別にプロリーグは始まるし大会は進む。彼のことを抱えながらも戦い続けなければならない。デュエリストとは常に冷静に戦況を見極めて、その手札で持ちうる最高のプレイをすることが求められる。だから、一旦彼のことは頭の片隅においておく。
今は目の前の敵に集中しなければならない。
ホテルへ戻って夕食を済ませようとルームサービスを頼んだが、どうにも食欲が湧かずにブルーアイズマウンテンブレンドだけを飲むことにした。舌に馴染んだ芳醇な味のはずだが、ひどく苦く感じたのはこの大会の終わりと同時に彼の終わりを知ったからか。
「……オレはプロリーグでもキングになる」
ずっと強さを求めて生きて来た。騙されていたとしても、サテライト出身のキングと罵られても。強くあらねばなるまいと自分を強く持ち、どんな強敵にも立ち向かってきたのだ。
仲間も得た。だが、彼だけは失おうとしている。
「オレはキングであり続ける」
ジャックは窓の外を見つめて、そう呟いた。その言葉は彼に対する宣言でもあったし、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
翌日の二次予選では白熱した戦いが繰り広げられている。ライディングデュエルの醍醐味であるスピード・スペルをやりくりした戦術の応酬。モンスター効果、シンクロ召喚、それからエースモンスター同士の激突。
勝敗を分ける一手。悲喜交々あるが、それでも互いの戦略を読み合う駆け引きはたまらなく興奮する。
そして遂に決勝へコマを進める8人が決まった。ジャックはもちろんのこと、予選を勝ち抜いて来た猛者達が名を連ねることとなった。
マスコミが次々にフラッシュをたいて猛者達の写真を撮り、インタビューでは我先にと興奮冷めやらぬといった様子で選手たちが己の戦略を語る。
「ジャック、今のお気持ちは!?」
とインタビュアーにマイクを向けられた時、ジャックはじっとそのマイクを見つめていた。それからゆっくりと顔を上げると笑みを浮かべる。
「素晴らしいデュエルだった。お互いに持てる全てを出したと言えるだろう」
模範解答のような回答だ。だが、その言葉とは裏腹に彼の目の奥には燃えるような炎が見え隠れしていた。それを感じ取ったのかマスコミ陣も感極まったように叫ぶとカメラを構える。
インタビューの最中もカメラのフラッシュは鳴り続け、関係者たちは忙しそうに動き回っている。
「ジャック、最後にファンの皆さんに一言お願いします!」
「オレ達に暖かい声援を感謝する。勝敗を決めるのは最後まで冷静さを保った奴だ!」
彼の返答にまた会場は歓声に包まれた。だが、その声色はどこか悲しみを帯びているようにも感じる。恐らくそれはジャック自身にも感じ取れる程の深い闇だった。彼は再びカメラに向かって笑みを見せると、ゆっくりとその場を後にする。
そのままジャックがホテルへ戻ったのを確認するとマスコミたちも引き上げたようだ。
その足で彼のいるホスピスへ向かおうとしたが、ファンに囲まれて身動きが取れなくなってしまった。マスコミが群がっている間に通らなければならないかとも考えたが、流石に不謹慎すぎると思いとどまる。
結局ファンへのサービスが完了したのはそれからだいぶ時間が経ってのことだった。
エレベーターで彼の部屋がある3階までいき、308と刻印された部屋の扉を開けた。
彼は横になったままジャックに気がつくと体を起こそうとする。だが、力が入らないようで起き上がることが出来なかったようだ。
仕方なくジャックはその体を支えるように隣に座った。そしてじっと彼の顔を見つめると静かに口を開く。
「気分はどうだ?」
「……いつもと変わらないよ」
彼の言葉からは死の匂いを微塵も感じさせない強い意志が感じられた。弱っていく自分を見せたくないのだろうか。
頑固だが、芯の強さを持つ彼らしいとも思った。
「そうか」
ジャックは頷くと持ってきた袋からコップを取り出し、水を注いだ。それから彼を抱き起こしてコップを口元へ持っていく。彼は無言でそれを受け取った。
喉仏がゆっくりと上下して水を飲み込むのを見ながら、ジャックは黙って見守っている。やがて半分ほど飲んだところで口を離すと彼は苦笑した。
「ありがとう、やっぱり病気には勝てないなぁ」
彼は苦しげにそう言うと大きく息を吐き出した。それからゆっくりと目を閉じると静かに呼吸をし始める。
「ジャック、今日のデュエル見ていたんだよ」
彼は穏やかな口調でそう言った。それからジャックの手を取ると自分の胸に押し当てる。弱々しく、今にも消えてしまいそうな程に小さな鼓動だった。それでも彼の心音は確かにこの手のひらから伝わってくる。
「こっそり抜け出して見ていたんだ。ふふ、あとで看護師さんに怒られちゃったけどすごかった」
彼は目を細めてそう言うとジャックに向かって微笑む。ジャックもまた彼の手に己の手を重ねて優しく握り返した。すると彼は安心したように息を吐き出す。
「ねえ、ジャック」
彼は優しい声色で名前を呼んだ。まるで子守歌を聴いているかのようで心地よい響きだった。このまま彼の声を聞いていたいという欲求に駆られたが、そんなジャックの思いとは裏腹に彼は口を開く。
「あなたの成長を見れて良かったよ」
「……お前が言うのならそうなんだろうな」
ジャックは短くそう答えると、それ以上何も言えなくなってしまった。何を言えば良いのか分からなかったのだ。こんな時、何を言っても上辺だけになりそうで怖い。そう思った瞬間だった。
彼は少し目を伏せてから再び顔を上げる。その表情はとても穏やかで慈愛に満ち溢れていた。そんな彼の表情を見たのは初めてかもしれない。ジャックは心臓が大きく脈打つのを感じた。
「強くなったね」
彼はもう一度そう言って微笑んだ。その言葉がじんわりと心に広がっていく感覚がある。今まで受けてきた称賛とは何かが違う気がしてならなかった。胸の辺りが熱くなるような不思議な感覚に戸惑いながらジャックは小さく頷いた。
「少し頭を下げてくれるかい」
言われた通りにすると彼は笑みを深めると優しくジャックの髪を撫ぜた。
まるで幼子にするような仕草だったが不思議と嫌な感じはしなかったし、むしろ心地いいとさえ思ったくらいだ。それからそっと手を離してまた目を閉じたかと思うと小さく息を吐き出したのが分かった。
「思ったよりも髪の毛硬いんだね、もう少し柔らかいかと思ってたんだけど」
「そうなのか?」
ジャックは驚いて問い返した。彼は小さく頷くとふっと笑う。その笑顔を見ているとなぜか胸が苦しくなったような気がしたが、どうしてなのかはよく分からなかった。だが、悪い気分ではないことは確かだ。むしろ嬉しいとさえ感じるのだから不思議なものだなと思う。
彼はしばらくそのままでいたが、やがてゆっくりと手を下ろすとジャックの顔を見つめてきた。その表情はどこか切なげであり、何かを言おうとしているようにも見えたが結局何も言わずに口を噤んでしまったようだ。
「ジャック」
彼は震える声でそう言った後、静かに息をついた。その唇が小さく動いて言葉を紡ごうとしているのが見えたがやはり声にはならずに消えてゆくだけだ。だが、それだけで十分だった。
「また会おうね」
そう言って微笑む姿があまりにも儚く見えて思わず抱き締めてしまいそうになる衝動に駆られたがなんとか我慢することができた。その代わりに彼の手を握る力を強めると彼も握り返してくるのが分かった。それだけで充分だった。
彼の身体のことを考えればあまり無理はさせられない。いつ発作が起きるともわからない身だ。
「明日から本戦だね、楽しみにしてるよ」
「だが、勝手にホスピスを抜け出すようなことはダメだ。もし何かあったらどうするつもりだったんだ」
「ごめんなさい……」
彼はしゅんとした様子で俯いてしまった。その姿を見た途端、罪悪感に苛まれるような感覚に襲われて慌てて言葉を探す。
「いや……怒っているわけじゃないんだ。ただ、お前の身体は限界に近いことを忘れないでくれ」
ジャックはそう言うとそっと彼の手を握り締めた。冷たい手だ。ひんやりとしていて熱を帯びているはずなのに冷たく感じる不思議な感覚があった。
確かに彼は生きているはずなのに何故かそうは思えない時がある。だが、それでもこの手で握り返す力の強さは変わらないし、僅かながらにもその熱を感じることができるのだ。
「うん……ジャックが優勝したらお祝いをしないとね」
彼はそう言うとふわりと笑みを浮かべた。その表情を見ると愛おしさが込み上げてくるようで堪らなかった。
「ああ、楽しみにしている」
ジャックも微笑み返すと、彼は満足げな笑みを浮かべたままゆっくりと目を閉じた。それからすぐに寝息が聞こえてきて、彼が眠りについたことが分かった。
「おやすみ」
ジャックは小さく呟くとそっとその手を離し、立ち上がった。
そして部屋を出る前にもう一度彼の顔を見つめると静かに扉を閉めるのだった。
責めて、夢の中だけでも彼が穏やかに過ごせるようにジャックには願うことしか出来ない。
「……なぜ、お前は薬で死を早めるような真似をするんだ」
ジャックのこの大会が終われば彼は薬を飲み、静かに命を終える。短くも、彼が望んだ穏やかな人生の物語。
そのフィナーレを飾るのが自分のデュエルだというのならば、今まで培ってきた全ての力をぶつけてやろうじゃないか。
きっとそれが彼の望みでもあるはずだから。
そして、この街のプロリーグの歴史にジャック・アトラスの名を刻もうと誓った。