きんもくせいに希う


ようやく咳が落ち着き、寝息を立てる。
ジャックは彼がもう長くないことを様子を見に来た看護師から聞いた。これまで彼を訪ねてくる人などいなかったから驚いている、とも。
それもそうだろう。
本当ならばネオ童実野シティで潰えるはずだったその命を仕事の邪魔になるからと言ってゴドウィンがこの街に行かせたのだから。一人で来たのかと聞けば、看護師は父親と名乗る男性と一緒だったという。
ゴドウィンは彼を連れてこのホスピスまで来て、ここに置き去りにしたのだ。病弱な養子を一人きり、きんもくせいの街に。
「だから、いつもは一人で帰ってくる彼が誰かと帰ってくるのを見てとても驚いたんです。まさかそれがあなたのような有名人だとは思いませんでしたけど……」
ジャックはWRGPのこともあり、世界的にも名を馳せたデュエリストだ。同じチームだった遊星やクロウ、アキ、双子たち、ブルーノも。
チームが解散した後もジャックは強さを求めた。
各地のプロリーグを点々とし、今はヨーロッパのとある地域の大会を回っている。このきんもくせいの街はそのプロリーグの支部がある比較的有名な場所だった。
「……確かにオレはデュエリストだ。だが、それ以前にオレはこいつの友人でもある」
「そういう人がいてくれて、きっと彼も喜んでいると思いますよ」
看護師はそう言うと退室していった。
病室には沈黙が落ちる。聞こえるのは彼の小さな寝息だけ。穏やかで静かな時間が流れていて、ジャックは少しだけ彼の華奢な肩に指先をすべらせた。骨の浮き出た細いそれは彼の栄養状態を表しているようでジャックは眉をしかめた。
余命いくばくもないと言われていると彼は話した。命の終わりを迎えている彼をもう一度見つめてため息をついた。
見知った顔が亡くなることはジャックにとって初めての経験だ。育ての親であるマーサはまだ元気だと聞く。ポッポタイムのゾラだって変わらずに元気にしていると風の便りで聞いた。
だから、まだ若い彼がそうだという実感が湧かなかったのだ。
彼が死んでしまうことが、ひどく悲しかった。
「……お前は、死ぬのか」
ジャックはぽつりとつぶやいた。静かな病室ではその小さな声もよく響く。ジャックは目をつむり、彼の肩に頭を乗せた。
ジャックは彼に、もっと生きていて欲しいと願っていたと気づく。まだ仮初のキングだったジャックに穏やかに話しかけてくれた時のように、もっと話をしたかったのだ、と。
「ん……」
彼が身じろぎをした。ジャックが体を起こすと彼はゆっくりと目を開いた。まだぼんやりとしているようでこちらを見てパチパチと目をまたたかせる。それから、ハッとしたように起き上がろうとするのを押さえてまたベッドに横たわらせた。それさえも彼には苦しいのか小さくうめく声が聞こえた。
「寝ていろ」
「……大丈夫……だよ……?」
弱々しい声に眉をひそめて顔を覗き込んだ。彼の表情は辛そうでとても大丈夫だとは言えない表情だった、特に眼の下の隈が目立つ。
その顔色の悪さも痩せた顔つきも全て彼が病を患っていることを知らしめるには十分で、彼の余命がそう長くないこともジャックに知らせていた。
「お前には聞きたいことがある」
ジャックは静かに言った。彼はその言葉を聞くとビクリと震えて視線を落とした。まるで怒られることを悟った子どものようだった。
「……ごめんなさい……」
「なぜ謝る」
彼は口をつぐんでしまった。ジャックはため息をつくと、彼の頭を乱暴に撫でた。驚いて顔を上げる彼に笑いかける。
「オレは怒っていない」
「……ほんとう?」
不安げに見上げてくる姿がなんともいじらしいと思ったジャックは彼の頭をもう一度ぽんとたたいた。
「ああ、嘘をつく必要などないだろう」
ジャックが頷くと、彼はようやく安心したように笑った。
力の抜けた柔らかい笑みだった。
「ジャックは優しいね。……父様とは違うなぁ」
ジャックは彼のその笑顔に胸を押さえた。なぜかはわからないが、心臓が大きく跳ねたのだ。思わず胸に手を当てて首を傾げていると彼は不思議そうにこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
ジャックは咳払いをすると、改めて彼と向き合った。彼はじっとジャックを見つめ返している。
その目は暗く、諦めの色を見せていた。
ジャックはそれに気づかないふりをして口を開く。
「ゴドウィンは本当にお前を見捨てたのか」
「……見捨てた、のかな。一回も会いに来てくれないし、父様は僕のことはどうでもいいのかも」
彼はそういう時決まって弱々しく笑った。しかしその瞳は暗く淀みきっているように見えた。それは彼の諦めからくるものなのか、それとも父親であるゴドウィンの冷たい態度に絶望したためかジャックにはわからなかった。
ジャックは彼の言葉になんと返せばいいのかわからず、黙り込んでしまう。ゴドウィンがなぜ彼を見捨てたのかジャックにはわからない。だが、彼の体調が悪くなったのはこの数年以内ということは確実だろう。
そしてその間、彼は一人きりでホスピスにて生活していたことになるのだ。
「お前はそれで良かったのか?」
気がついたらジャックはそう口にしていた。彼は目を見開いてそれから寂しげに笑った。その笑みにジャックの胸はズキリと痛んだ気がした。
「いいんだ。僕はこのきんもくせいの街が好きだから」
彼はそう言って窓の外を眺めた。小さなオレンジ色の花が咲いている。きんもくせいの花は風に吹かれ、優しく揺れていた。
彼はその花を見つめながら言った。
「僕はここで死にたいんだ」
その言葉はジャックの心に残ったままだった。
きんもくせいの街で彼が何を思ったのかジャックには分からない。だが、それが彼にとってかけがえのない物だということはその寂しい笑みを見ればわかった。
「そうか」
なぜだかジャックは悲しくなった。
彼がこの街で死にたいと思っていることが悲しい。
そんな小さな街で死にたいなど、まるで自分の居場所はあのホスピス以外他にはないと言っているようだったからだろう。
「お前はもっと自分の幸せと向き合うべきだな」
ジャックは言ったが彼は不思議そうに首を傾げただけだった。
「それはあなたもだよ、ジャック。僕はこの街で静かに死ぬことを選んだ、それが幸せだと思ったから」
「オレは……」
ジャックは言葉に詰まった。彼はそんなジャックをじっと見つめている。まるで何かを探るように、静かに。その瞳から逃げるようにジャックは顔を背けた。すると彼がふっと笑ったような気がした。
「きっとあなたはまだ生きる意味があるんだよ」
彼の言葉に胸が苦しくなった。
そんなことはない、と否定したかったが言葉が出てこない。彼の瞳を見ていると否定できなくなるのだ。
彼はジャックのことを分かっているかのように柔らかく微笑んだ。その笑みを見ていると、なぜだか泣きそうになる。ジャックはぐっと奥歯を噛み締めた。
「ねえ、ジャック」
彼が手を伸ばしてきた。その手を取り握ると彼の体温が伝わってくる。
冷たい手だった。だが、生きている人間の体温だ。彼は目をつむったままゆっくりと話した。
「最期にあなたと会えたのは神様がくれたチャンスだと思ってるんだ。……ジャックは強いし、優しい人だから。お礼を言うご褒美をくれたんだって思ってる」
彼はそう言いながら弱々しく笑った。
ジャックはその笑顔から目が離せなかった。
「ねえ、ジャック。試合が終わってからでいいから、お願いがあるんだ」
彼はそう言うと目を開けてジャックを見た。その瞳が潤んでいることに気づいた時、心臓が大きく跳ねた気がした。
「なんだ」
動揺を隠しながらジャックは言った。彼はジャックの手をぎゅっと握ると、そのまま額に押し当てた。まるで祈るような仕草だった。
「僕と一緒にいてほしい。……僕の最期を、見届けて欲しいんだ」
「なっ……」
ジャックは驚いて言葉を失った。彼はジャックの手を握ったままじっとこちらを見つめている。その瞳には強い意志が宿っていた。
「僕はあなたに会えて嬉しかった。だから、最後のわがままだと思って聞いてくれないかな」
彼はそう言って微笑んだ。その笑みはとても穏やかで優しくて、儚かった。まるで彼の命を表しているかのようだと思った。
ジャックは息を呑んで彼を見つめ返した。彼は本気だった。本気で言っているのだ、と直感的にわかった。
「それがお前の願いなのか」
「うん」
彼は小さくうなずいた。その表情が悲しげに見えて、ジャックは何も言えなくなってしまう。どうしてだろうかわからないが胸が締め付けられるような気がした。
「分かった……それでお前が穏やかに死ねるのであればオレは……」
最後まで言葉を言うことができなかった。自分は何を言っているんだと思ったからだ。
彼はジャックの手を額に当てたまま微笑んだ。その顔は穏やかで、幸せそうだった。
「ありがとう……ジャック」
そう言って微笑む彼を見ていると胸が苦しくなった。なぜなのかは分からなかったが、ジャックは彼の手をぎゅっと握りしめたまま黙り込んでしまうのだった。
あれからどれほどの時間が経ったろうか。ジャックは気の利いた言葉は結局何も言えず、彼もまた何も言わなかった。ただ静かに手を握って寄り添っているだけだ。
時間だけがゆっくりと過ぎていく中、その静寂を破ったのは彼の方だった。彼はぼんやりとした様子で天井を見上げながら言ったのだ。
「僕は幸せ者だなぁ」
彼はそう言って小さく笑った。その笑みは儚く、今にも消えてしまいそうだった。ジャックは思わず彼の手を強く握った。彼が驚いてこちらを見つめてくるのがわかったが、手を離すことはできなかった。それを見ると彼は微笑んで首を横に振る。
「大丈夫だよ……ありがとう」
その言葉にジャックは何も言えなかった。何も言うことが出来ずにただ彼を見つめ返すことしか出来なかったのだ。
「……なぜこの街に来る前に誰にも助けを求めなかった」
ジャックはようやく口にできた言葉がそれだった。彼は一瞬驚いた顔をしてから微笑んだ。その笑みがどこか寂しげで悲しげに見えたのは気のせいだろうか。
「あなたはキングで、僕は何も持たない無知な人間だったから。あの頃は父様の言うことは絶対で、僕はそれに従うしかなかったから」
彼はそう言ってジャックの手を弱々しく握った。その手はやはり冷たく、まるで体温がないかのように感じられた。その冷たさにジャックは無意識に彼の手を強く握り返した。すると彼は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、今は違うよ。こうしてジャックと話すことができた」
「……それはそうだが」
ジャックは戸惑いながらも答える。すると彼は嬉しそうに微笑んだまま言った。
「本当に嬉しいんだ。ありがとう」
その言葉は本当に心からの感謝が込められていて、ジャックの胸を打った。
彼の気持ちは痛いほど分かったからだった。
彼は小さく咳き込んで呼吸を乱す。はっはっと苦しげに息をしながら必死に呼吸を繋ぐ姿は痛々しかった。
このまま症状が悪化するのを黙って見ているわけにいかない、とジャックは思ったのだ。
彼はこのきんもくせいの街で一人静かに死にたいと言っていた。ジャックはその言葉を否定することはできないが、彼の望みを叶えるための手助けならできると思う。
「明日、試合が終わったらお前に会いに来る。今度はシンクロ召喚を教えてやろう」
彼は驚いたように目を開き、それから嬉しそうに微笑んだ。その目には僅かに涙が浮かんでいるように見えたが、瞬きの間に消えてしまったので見間違えだったのかもしれないと思った。
それでもジャックは彼の手を握り頷いたのだった。
「うん、ありがとう……待っているよ」
彼は儚く美しく、きんもくせいの香りのように微笑んだ。