きんもくせいを纏う


彼にひとしきりデュエルの基本を教えながら、その指先がカードを示すのを見て口を挟んで解説をしていく。彼は興味津々でジャックの話に耳を傾けて、度々質問をしてくるものだから基礎講座はなかなか進まなかった。
「……これはどうなるの?それからそっちのカードでチェーンした場合は?」
「これはこのカードの効果で攻撃力が上がる。だから、こっちのカードでチェーンすると効果が打ち消されるから……」
彼の質問はジャックにとっては新鮮で当たり前だと思っていたことも多々あった。だから、彼は言葉が足りないジャックの解説に頭を抱えることがある。しかし、彼は楽しそうに言葉に相槌を打ってから、カードと真摯に向き合っていた。
コーヒーを飲みながらジャックは店員から向けられる好奇の目線を感じている。だが、それらは一切無視を決め込んだ。いちいち答えていては疲れてしまう。
「ね、ジャック。これはどうなるの?」
「少しは自分で考えてみろ。……これはさっき教えたことだ」
「ん?えぇと……」
彼は眉をしかめてカードとにらめっこを始める。
ジャックとそう歳は変わらないはずなのに時折見せる仕草はあどけなく映る。まるで、精神が純粋な子どものままのように。
「あぁ、これだね!なるほど……」
彼はようやくカードの意味を理解して小さく手を打つ。そして、嬉しそうに笑ってジャックに視線を向けた。
「ありがとう、ジャック。よくわかったよ」
「……ふん、礼には及ばん」
そう言ってジャックはカップに口をつける。だが、素直に感謝されるのは悪い気はしない。コーヒーの味は普段口にし慣れたものではないが、味わいはどこか懐かしい気もする。
彼の言葉は温かく、ジャックの心に深く染み入っていく。まるでデュエルで疲れた心を癒してくれるようだった。なかなかこういう誰かとの触れ合い自体は少ない生活をしているジャックだからこそ彼との関わりは貴重だった。
「また、教えてくれる?ジャック」
彼は少し照れたように笑う。その笑みに思わず目を奪われながらジャックは頷いた。
「……いいだろう」
「ありがとう」
彼は嬉しそうに礼を言うと、カップのコーヒーを飲む。こうして、彼との触れ合いは時間があればカフェで行われるようになった。
ただ彼と一緒にいる時間は心地良いものであり、もう少しこの時間が長く続けば良いと思っているのは間違いないことだったと思う。
「この大会が終わったらジャックはどうするの?」
なんてことのない話題。明日の天気でも聞くような気軽さで彼は言った。
「次の大会に向けてデッキの調整と実戦の積み重ねをしていく」
「そっか。じゃあ、しばらくは会えなくなっちゃうね」
彼は少し寂しそうに笑う。しかし、それも一瞬のことですぐに笑顔を浮かべてジャックを見た。
「応援してるよ。大会もデュエルも頑張ってね!」
「……ふん、当然だ」
ジャック・アトラスは強い。それをずっと証明し続けてきた。サテライト出身のキングだとか、元キングだとか言われてきたからこそ常に強くあらねばならなかった。
だが、彼と共にいると強くあるために見て見ぬ振りをしてきた弱さを見せられている気持ちになる。それは不思議と嫌なものではなかった。
「お前は変わった奴だな」
「変わってるかな、僕はジャックと話せて嬉しいんだよ」
ジャックの言葉に彼は朗らかに笑う。
「お前は不思議な奴だ」
「そうかな?普通だよ」
彼はゆっくりとコーヒーを啜る。その姿は美しく、優雅にも見えた。所作がどことなく女性的なのは彼があまり体格や筋力に恵まれていないからだろうかと改めて思ったりする。
彼は華奢だ。手足は細く、無駄な肉などない。筋肉量も多くはないようで全体的に細く薄い。その体に病魔が巣くっていると聞かされて、ジャックは言いようのない感情を抱く。
彼の命は確実に終わりに向かっている。それをただ見ていることしかできないというのは歯痒くて仕方がなかった。
「僕はね、ずっとジャックと友達になりたかったんだ」
「オレと?」
「うん。ジャックは僕にとって憧れで、目標だった。デュエルが強くて、かっこよくて、完璧で……だけど、僕はジャックのことを何も知らなかった。だから知りたかったんだ」
彼は穏やかに微笑むと真っ直ぐにジャックを見つめた。その瞳には確かな意志の強さを感じさせる色がある。
「ジャックのこと、もっとたくさん知りたいんだ。僕がモルヒネを打つまででいいから、もっとあなたのこと教えてくれないかな」
彼は微笑んではいるが、その瞳に不安な気持ちも宿していることがわかる。ジャックはそんな彼に対してどう答えれば良いか分からず、ただ黙って彼を見つめた。
「やっぱり……だめかな?」
彼は苦笑いを浮かべながら視線を逸らす。そんな寂しげな姿に思わずジャックは口を開いていた。
「構わん」
「え?」
彼はジャックの言葉に目を見開いて驚く。だが、ジャックは気にせず言葉を続けた。
「代わりにオレにもお前のことを教えろ。お前がどう思っているのか、何が好きなのか……だが……」
そこでジャックは言葉を切ると彼をしっかりと見つめる。その瞳には強い意志が籠められていた。
「お前は自分自身をオレに見せすぎた」
彼を前にして強がる気持ちも嘘であったかのように消えていく。彼の弱さに甘えているだけだということに自覚があるが、それでも自分の弱さを彼に晒すことは不思議と心地よいことだった。
「オレを知りたいか?本当に?」
彼はジャックの言葉を静かに聞くとにっこりと笑って頷く。
彼が自分の強さではなく弱い部分を見せてきたようにジャックもまた彼に対して真実の姿を見せたいと思った。それが彼が向けてくれた誠意に返すジャックの姿勢だった。
「もちろん。ジャックが教えてくれるなら、僕も自分のことを教えるよ」
彼はそう言って笑うとジャックの答えを待つように見つめてくる。その瞳からは真剣な思いが伝わってきて、ジャックは思わず笑みを溢した。
「いいだろう」
彼は嬉しそうに笑ってから手元にあるカップへと視線を落とす。そして、その中身を飲み干すと口を開いた。
それはあまりに小さくて掠れていて聞き逃してしまいそうだったけれど確かに聞こえた言葉だ。
ーーありがとう、ジャック……約束は守れないかもしれないけど。
その時、胸に広がったのは言葉に出来ない思いだった。
それはジャックが長い間忘れていた感情であり、失っていたはずのもの。だが、それすらも彼が取り戻してくれたのだ。
「このオレに約束を反故にさせるとは……本当にお前は何をしでかすかわからない男だ」
口元に笑みが浮かぶのがわかる。
それは彼の心の底からの喜びだった。自分が求めた相手が最後まで自分に驚きを与え続けてくれたことに笑いそうになる。
彼ならば、と期待したくなる気持ちを抑えながら次の言葉を口にした。
「安心しろ、このジャック・アトラスがお前のことを全部話すまで死なせはせん」
彼の顔をじっと見据える。彼はジャックに視線を移すと首を傾げた。
そして、何かを言おうとしたのか口を開いた瞬間だった。急に体を丸ませて苦悶の表情を見せたかと思うと激しく咳き込む。
ジャックは慌てて彼の背中を撫でてやったが、咳は止まらず苦しげに呻く。
「ゴホッ!ゲホ!ガハッ!」
彼は苦しげに何度もえずくと口から大量の血を吐き出した。ジャックはその量に驚いて目を見開く。
「おいっ!?」
「……だい、じょうぶ……いつものことだから……」
彼は弱々しい笑みを浮かべてそう言ったがどう見ても大丈夫そうには見えなかった。呼吸が荒くなり、顔色も悪い。
口元を押さえる手は真っ赤に染まり見るに耐えない姿だった。
それでも彼は懸命に笑みを浮かべながら言葉を続ける。苦しいはずなのに笑顔で話そうとしてくれている健気さに心を打たれるのと同時に胸が痛んだ。
「心配かけて、ごめん……でも、大丈夫」
彼はそう言ってジャックの手を優しく握る。その手は驚くほど冷たくてまるで氷のようだった。
彼の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。それが生理的な涙なのか、感情から来るものなのかはジャックにはわからなかった。
しばらくして吐血は収まったが、彼は肩でまだ息をしている。それでも、彼はジャックの手をしっかりと握っていた。
「今日はもうホスピスに戻った方がいい。……お前がこの世を去るまでこの街にはいるだろうからな」
ジャックはそう言うと彼の手を掴みながら立ち上がる。彼はジャックの問いかけに頷くとそのまま一緒に立ち上がった。
「ジャックがここにいるなら、僕はまだ生きなきゃいけないね」
冗談めいたような言葉だったが、彼は真剣な面持ちでそう呟いた。
それは自分に言い聞かせているようにも見えてジャックは何も言えなくなる。代わりに彼が安心できるように言葉をかけてやることしかできなかった。
「お前は強い男だ。オレが保証してやる」
ジャックがそう言うと彼は少し驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに笑った。その笑みは先程よりも穏やかで優しいものだった。
「ありがとう、ジャック」
彼の言葉に頷くと二人は歩き出す。
きんもくせいの香りに抱かれるように、彼が暮らすホスピスはあった。茶色のレンガで造られた建物はどこか温かみを感じさせる。
「すみません、ゴドウィンです。今戻りました」
彼は扉の前に立つとノックして中に向かって声をかける。すると、中から女性の声が返ってきた。
「ゴドウィンさん、おかえりなさい」
扉を開けて出迎えてくれたのは一人の看護師だった。彼女は笑顔で出迎えると彼を部屋の中に招き入れる。ジャックも後に続いて入ると室内を見渡す。
部屋の中は白を基調とした清潔感のある空間だった。壁や床は木製で温かみのある雰囲気がある。室内には大きな窓があり、そこから差し込む光が室内を明るく照らしていた。
階段をいくつか登り廊下を少し歩いていくと個室が見えてくる。308と部屋番号が刻印された扉を開くと、ベッドと小さな洗面台、ソファが置かれた病室になっていた。
そこが彼の現在の住まいということだ。
「どうぞ入って。あまり広いところじゃないけど」
そう言ってジャックが部屋の中に入ると、彼はソファに座るよう促す。そして、自分もその隣に腰掛けた。
「ごめんね、見苦しいところ見せちゃったね……」
彼は申し訳なさそうな表情を浮かべてジャックに謝る。だが、ジャックは首を横に振って答えた。
「構わん。……辛い時もあるだろう」
ジャックの言葉に彼は驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに微笑む。その笑みは儚げで今にも消えてしまいそうだった。
「……ありがとう、ジャック」
彼の感謝の言葉に何も言えずにいると、彼は自分の胸に手を当てて静かに目を閉じた。まるで祈るようにも見えた光景にジャックは何も言わずにただ見つめるだけだった。
しばらくすると、彼は目を開けて再び笑顔を浮かべる。だが先ほどとは違いどこか悲しげな笑みだった。
「いつもこうなんだ……日に日にどんどん悪くなっていく……」
彼の言葉になんて返せば良いかわからずにいると、彼は困ったように笑ってから言葉を続ける。
「さっきも咳き込んで吐血しちゃったし……余命よりも早いのかもね」
彼は他人事のようにそう言ってからジャックに笑顔を向ける。それは、あまりに儚く弱々しいものだった。
ジャックは何も言えずにただ彼の横顔を見つめることしかできない。何か言わなければと思うのに言葉が出てこなかった。
そんなジャックの葛藤をよそに彼は静かに立ち上がるとジャックの手を引く。
「窓、開けてもいいかな」
彼はそう言ってジャックの返事を待たずに窓を開け放つ。きんもくせいの甘い香りが風に乗って二人の間をすり抜けていった。
その香りはどこか切なく胸を締め付けるような不思議な感覚を抱かせてくる。だが、それと同時に心地良さも感じられた。
「この香り、好きなんだ」
彼はそう言うと窓際に寄りかかって深呼吸をする。きんもくせいの香りは優しく彼を包むように周囲に漂っていた。
ジャックもまた同じように深呼吸してみるが、その香りに込められた想いまではわからない。それでも、この花の香りが彼を癒すのであればそれでいいと思えた。
まるで彼自身がきんもくせいのようだと思いながら。