きんもくせい、ひとつ


過去の栄光を振り返るつもりはない。
今ここにいることがジャックにとっては存在の証明となる。かつてチーム5D'sとして活躍したことも今の彼にとっては良い思い出ではあるが、振り返ろうとすることはなかった。
だが、遊星に敗北する前。彼らの仲間が作ったDホイールを奪ってシティに来た頃は当時の長官レクス・ゴドウィンによって仮初のキングを演じさせられていた。手のひらで踊らされていたことも気づかないまま、ジャックは玉座に座り続けていたのだ。
仮初の玉座を失った彼はただのジャック・アトラスになった。只人となったキングは地の底で様々なものを見て、それらと対峙した。
仲間、巨大な地上絵、絆、それから自身を救ったある女性記者。強敵とも対峙した。その中にはゴドウィンの姿もあって、あの戦いは遊星達がいなければ倒すことはできなかったと思っている。
シグナーとしての役割を終えたジャックは更なる強さを求めてプロリーグへ進んだ。これまで戦ってきたよりも厳しく過酷な勝負の世界だ。だが、それがいい刺激となった。
現在はヨーロッパのとある大会に参加するためにネオ童実野シティを離れて、とある小さな街に滞在している。街路樹として植えられているきんもくせいの香りを楽しみながらゆったりと過ごしたいと思っている。
いつも大きな街で開かれることが多い大会がこのきんもくせいの香りが強いこの街で行われるということで観客は多かった。
ふわり、とそよ風がジャックの金髪を揺らす。大会初日に彼の名前はなく、敵情視察も兼ねて観戦した後は特にすることはなかった。
だから、ジャックは街を少し散策することにした。ホテルで過ごすことも悪くはなかったが、このいい天気を室内で過ごすことはややもったいない気がしていたから。
秋の気配が強く感じるきんもくせいの街は心地が良い。
私服に着替えたジャックは心地いい風が吹く街をゆっくりと歩き始める。
石畳の街は異国情緒あふれていて、穏やかな時間が流れていた。
何人かの少女がジャックの方を見てコソコソと話をしていたり、ほおを赤らめたりしている。街ゆく人々も彼の方を見てその圧倒的な存在を確認している。そこで誘われるように顔を上げて、ベンチに腰掛けている一人の青年が目に入った。
どこにでもいるような穏やかそうな外見の彼はジャックを食い入るように見ていた。まるで長く離れていた友人を見つけたように懐かしさを含んだ顔をしていて、その眼差しはうつくしいきらめきをいくつも宿している。
「……」
足を止めてジャックは彼の方を見ていた。まるでかつてキングともてはやされた自分を見ているような感覚になった。過去の自分が見つめ返しているような。
「オレのファンなのか」
「……あなたのファン。そうだなぁ、そうと言えばそうだけど、僕はあなたにお礼を言いたくてこの街で待っていたんだ」
「どういうことだ」
ジャックはそこで彼の隣へ腰を下ろした。どこかで見覚えのある顔だと思ったが、彼のことを思い出せない。
「あなたは覚えていないかもしれないけど、僕はかつてネオ童実野シティの長官だったレクス・ゴドウィンの養子なんだ。……あなたのことはキングだった頃から知ってる」
彼は不思議なきらめきを持つ瞳をジャックに向けて穏やかに微笑んだ。その瞳の奥には記憶の端に見覚えのあるような色合いを見つけた気がする。
「……ゴドウィンの養子、だと?」
「うん。フォーチュンカップが始まる前に僕体調を崩してこの街に送られたからジャックはあまり記憶にないかもしれないけど、あの頃の僕にとってあなたは希望だった」
彼は遠い昔を懐かしむように言ってからジャックの方に身体ごと向く。端正な顔立ちに思わず息を飲む。ある種の儚さを宿した顔はこの世を儚んでいるようにも見える。
二人の間をそよ風が通り過ぎていく。秋のつめたさときんもくせいの香りをはらんだそれはジャックの服の裾をはためかせて、彼の着ているカーディガンを翻らせた。
なぜ、ゴドウィンの養子である彼がここにいるのかジャックにはわからない。キング時代、彼とあまり話したことはなかった。何度か言葉を交わした程度だ。
キングたる者はあまり話をしてはならぬと他ならないゴドウィンに言われていたから。
「あなたは覚えていないかもしれないけれど、熱を出していた僕を休ませるようにイェーガーに行ってくれたんだよ」
「覚えてないな」
ジャックは短く答えた後、彼が激しく咳き込み始めた。ゼーゼーと喉を鳴らして苦しそうに眉を寄せている。
「大丈夫なのか?」
「うん。いつものことなんだ」
呼吸が落ち着いた彼は微笑みながらジャックに言う。
彼は生まれつき身体が弱く、激しい運動をするとすぐに体調を崩すのだと以前ゴドウィンがぼやいていたのを聞いたことがある。
だが、それ以上ジャックは彼に何も言うことができなかった。ただ、彼を見つめることしかできない。
「あの後、父様がいなくなってから僕は療養のためにこの街に来たんだ。いいところだよ、秋になればきんもくせいの香りが気持ちいいんだ」
「……そうか」
まるで過去を思い出すように見つめてくる青年に対してジャックは何も言えないまま耳を傾けるほかなかった。それが彼の望みならばとそうしようと思っていた。
「あなたがキングだった頃にはもう、僕は寝込みがちだったからあなたの活躍を直接見ることはできなかったけれど……。だからこそ今になってあなたの活躍を見ることができることを嬉しく思っているんだ」
そう言って彼は穏やかな笑顔を見せた。純真無垢な顔でジャックのことを見つめてくる。
もう少し、彼と話したいと思った。自分が今こうしているのは何か縁があってのことだと感じていた。
「ここで話すのも視線を集めて話しにくいだろう。場所を変えるぞ」
ジャックは立ち上がると彼の腕を強く引く。彼は少し驚いたような表情をして、それから微笑んで頷いた。
「うん」
ジャックに連れられて彼がやって来たのは小さなカフェだった。
大きな窓から見える森がとても綺麗で、風が心地よい場所だ。
周囲には自分たち以外の客はいないようだ。静かで穏やかで心地良い場所。
彼とジャックは向かい合わせで座ることになった。
「お前は昔から身体が弱かったのか」
ジャックが尋ねると彼はこくりと頷いた。
「うん……だから、ずっと家の中で過ごしていたんだ。ゴドウィン……父様は忙しい人だったから、あなたが時折話しかけてくれることがとても嬉しかった」
そう言いながら彼はコーヒーに口をつけた。ミルクと砂糖の入ったそれが喉を通り過ぎていくのがわかるほど彼の動きはゆっくりだった。
顔色が先ほどより悪い。おそらく、身体に負担がかかっているのだろう。
「今は何をしている?デュエル関係の仕事でもしているのか?」
「仕事は……もう何年もしてないな。今はホスピスにいるよ。死ぬまでの時間を穏やかに過ごせる施設にいるんだ」
彼はそう言って目を伏せる。その表情はどこか儚く、消えてしまいそうな危うさがあった。ジャックはそれを見つめながら何か言葉をかけようと考えを巡らせるが、何も思いつかない。
「……」
沈黙が流れる。彼の身体はいまにも壊れてしまいそうだと感じさせるほどに脆く見えた。少しでも触れたら粉々に砕けてしましそうで。
そんな不安を感じつつジャックは彼を見続けていたが、やがて意を決して口を開いた。
「お前はこれからどうする?死ぬことが怖くないのか」
「生きる意味がわからないから……。僕にとってはゴドウィンが養父だったから、その呪縛から逃れられなかったし、彼から離れることができただけで十分だから」
そう言いながら彼は窓の外を見つめた。きんもくせいが咲いていて、その木の下では人々が肩を寄せ合っている。
彼のその瞳は何も映していないように見えるほど暗い光が宿っていて、彼の絶望の深さを感じさせた。
ジャックは言葉に詰まるしかない。
ゴドウィンはジャックを仮初のキングにした男だ。偽物の立場と経歴を与えられた裸のキングに仕立て、挙げ句の果てには敵として立ちはだかった。
ジャックはゴドウィンのことを憎んでいた。もう過去の話だ。
だが、目の前にいる彼を見ていると憎しみや怒りを一瞬でも忘れてしまいそうになるほどの深い悲しみがそこに在った。彼は絶望に囚われていて、そこから抜け出すことはできないのだと感じた。
「……お前の気持ちはわからないでもない」
だからジャックは静かに言うことにした。彼が少しでも楽になるようにと願いながらも自分がそう言葉にできたのかは自身でもわからなかった。ただその言葉を聞いた青年は穏やかな笑みを浮かべてジャックの顔を見上げた。
「……」
彼は何も言わずに見つめているだけだったが、なぜか心は落ち着いたような気がした。彼も同じような孤独を抱いて生きてきたのではないかと思えたからかもしれない。
「僕は死ぬことは怖くないよ。どんなに長く生きてもいつかは寿命が来る。それが人よりも少し早くなっただけだ」
彼は静かに言った。それは自分に言い聞かせるような言葉だったかもしれない。
その瞳は何かを見据えている。
ジャックは彼の瞳を見つめることしかできなかった。そして、彼の言葉が頭の中で反響するのを感じた。
「僕は生まれた時から長く生きられないことがわかってたから、覚悟はできているよ」
彼は静かに答えた。
まるで他人事のように淡々とした声色だった。それは彼が自らの運命を受け入れていることを示していて、ジャックは何も言えなかった。
彼のことを哀れに思う資格すら自分にはないからだとわかっていたからだ。
二人の間の空気はとても重くて息苦しいものだったけれど、決して嫌な気分ではなかったのは確かだった。
「ごめん、変な空気にしちゃったね。でも、本当に怖くはないんだ。最期にジャックがこの街に来てくれたというだけで十分なんだよ」
そう言って彼は儚げに笑った。それはジャックがキングであった頃、何度か見たことがあった彼の笑みと同じものだ。
だが、今のジャックにはそれがなぜかとても悲しげに見えたのだ。
「オレはお前が望むなら一緒にいてやってもいい」
気が付くと口が勝手に動いていた。自分でも何を言っているのかわからなかったが、言葉を発した瞬間に後悔するようなことはなかった。
「え……」
一瞬の沈黙の後、彼が大きく目を見開く。その表情には驚きと困惑が入り混じっていた。
「えっと……その……」
彼は言葉を詰まらせながらジャックを見ている。信じられないと言わんばかりの瞳だった。
ジャック自身も自分が何を言っているかよくわかっていないからだろう。ただ、目の前にいる彼があまりにも儚くて消えてしまいそうな存在に見えたからつい言葉を発したに過ぎなかったからだ。
「……ありがとう」
彼は少しだけ困ったように微笑んだ後、小さな声で言った。それから何かを思いついたように席を立つ。彼が何をしたいのか読めなかったが、ジャックは黙って彼の動向を眺めていた。
「ちょっと待っててね」
彼はカフェを出て行く。しばらくすると戻ってきた彼の手には束になったカードがあった。
ジャックはそれを見て驚く。それは自分がかつて使っていたデッキだったからだ。そして、それを彼に手渡した記憶もある。だが、どうして彼がずっと守ってくれていたことのにも驚いていた。
「僕のわがままを聞いてくれてありがとう」
彼はお礼を言うと優しく微笑む。その微笑みすらどこか儚いような色を宿していて、消えてしまいそうだと感じさせた。先ほどまであんなにも穏やかだったのに彼の瞳の奥には空虚があることをジャックは知っている。
知りたくなったのではない、知ってしまったのだ。
「お前は……」
ジャックは何かを言いかけて口を閉じる。彼の瞳を見ていると胸が苦しくなるような気がした。どうしてなのかジャックにはわからない。ただ、目の前にいる彼が今にも消えてなくなってしまいそうな気がしてならないのだ。
「デュエル、教えてほしいんだ。このデッキで」
彼はジャックのデッキを見つめて言う。その瞳には期待の色が見えていて、ジャックは思わず頷いていた。
「いいだろう」
その言葉に彼はとても嬉しそうに笑う。その表情があまりにも無邪気で愛らしく見えたからだろうか、ジャックは胸が高鳴るのを感じた。どうしてなのかわからないままデュエルを教えることになってしまうことに戸惑いを感じながらも不思議と悪い気はしなかったのだ。
「ありがとう。ジャックはやっぱり優しいね」
彼はそう言いながら微笑む。その笑顔は昔のキングとしての自分と、幼い時の自分が心躍らせたものと変わらぬ美しさを秘めているような気がした。