藤棚に咲き乱れた藤の花が揺れる。
きれいな紫色のそれが風に揺られている様子はずっと見ていたくなるほどに心が揺さぶられる光景だ。
春も少し過ぎて穏やかな時間が過ぎていく。アカデミーに慣れた頃合いの新入り達がイルカ先生の指導を受けながら忍術を学んでいる様子が遠目に見えた。
また一年が巡り、新しい季節がやってくる。
どこまでも柔らかく優しいこの季節がフジは大好きだ。ガイ先生と出会い、恋に落ち、人生を共に歩いていく決意をしたのも春だったから。
「フジ、ここにいたのか」
「ガイさん」
名前を呼ばれて顔を上げれば穏やかな笑みを浮かべた夫の姿がある。最近は目立った争いも大きな任務もない。あるとすればこの穏やかな日々を守っていく巡回や忍寺への見回りくらいなもの。
平和な時間がフジは好きだ。夫といられる時間も多く、彼も弟子達との修行を見たりする時間にも当てられると喜んでいる。
平和とはやはり尊く得難いものだとフジは思っている。木ノ葉崩しを乗り越えた木ノ葉隠れの里はもっと強く良い場所になっていくもフジは信じている。
「もう藤の花が咲く時期なんだな」
「えぇ、そうね。……ガイさんと会ったのもこの時期だったの、覚えてる?」
「もちろんだ。もう二年になるのか」
「ふふ、そうね」
フジはガイ先生の隣へと歩み寄ると、彼の肩に頭を寄せる。するとガイ先生はほおをやや赤くして彼女の肩を抱いて引き寄せた。
「ねぇ、ガイさん。わたしね、この里が大好きよ」
そんなフジの言葉にガイ先生も頷いた。木ノ葉隠れの里は良い場所だと彼も思っているから。
そして良い場所を守るために尽力するフジが好きだから。
「あぁ、オレもだ」
そう返すと、彼女は笑って頷いた。
「あの時は本当に人生のどん底だって思ったのよ。けがの完治までに半年かかるなんて修行どころか任務にも影響が出て、みんなに迷惑をかけることになっちゃうって」
そんなフジの言葉にガイ先生は驚いた。まさか彼女がそんなことを考えていたとは思ってもみなかったからだ。
「……でも、今は少し感謝もしてるわ」
「感謝?」
「えぇ」
そこで彼女は一度言葉を切った。それから再び口を開くと、穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「だって、ガイさんと出会えたんだもの」
その言葉にガイ先生は目を見開いた。それからゆっくりと口元に笑みを浮かべると彼女の頭を優しく撫でた。
「けがをしないとガイさんに恋なんてしなかったかもしれない。みんなどんどん強くなってるのにわたしだけ弱いままだってふてくされてたかもしれないもの」
そう、それはフジがずっと思っていたことだった。もしも自分が大きなけがをしていなかったら、今みたいに強くなれなかったかもしれないと。そして、彼と番うこともなく、静かに生きていたのだろうとも。
でも同時にこうも思うのだ。もしそのままでいたら彼とこうして寄り添うこともなかったのだろう、と。
「フジは当たり前に感謝の言葉を言うな」
「当たり前ってないんだなって思ったの。みんなと修行したり、任務に出たり出来ることってたくさんのちいさな奇跡が積もって出来てるんだなってけがをした時に感じたんだもの」
だからフジは当たり前はなくて、普通もないこともわかった。任務に出られなくて修行にも出られない日々は苦痛で退屈だったから。テンテンやいのはお見舞いに来てくれたけど、やはり外に出ることだけは許してくれなかった。
無理はしてはいけない、今は休む時なんだ、と諭された。
「ガイさんは?わたしがいなくても生きられた?」
「バカを言うな。お前なしに幸せな人生なんて存在しない」
そんなはずないとフジは分かっている。知っている。彼と自分は運命なのだと。
「そう言ってもらえるのもきっと、奇跡なんだわ」
フジの呟きはガイの耳にも届いた。
だが、それは奇跡でもなんでもないとガイは思う。彼女がいたから自分はここにいるのだから。
「奇跡なんかじゃない」
「え?」
フジが驚いたようにガイの顔を見る。彼女の頬に手を添えて、真っ直ぐ瞳を見つめたまま彼は口を開く。
「フジがいたからオレはここにいるんだ」
「ガイさん……」
「お前が生きていてくれて本当に良かった。初めて任務で出会ったあの雨の日からずっとそう思っていたんだ」
「……ほんとう?」
そんなの、うそみたい。だって、わたしはあの中では一番出来ないくノ一で捨て駒として動くことさえ覚悟していたのに。
そんな思いを込めて見つめれば彼は優しく微笑んでくれた。そしてゆっくりと頷く。
「あぁ、もちろんだ」
その言葉に彼女は思わず泣きそうになるのを堪えた。そして彼の胸に顔を埋めると小さな声で言う。
「ありがとう……ガイさん……っ」
その声は震えていたけれど、確かに幸せの色がにじみでている。
「ねぇ、ガイさん」
そんなフジの呼びかけにガイ先生は彼女の背を撫でることで応えた。すると彼女は嬉しそうに笑って口を開く。
「わたしね、今すごく幸せよ。……だってずっと夢だったんだもの。好きな人と、この藤棚を一緒に眺めること」
そう言って再び彼の胸に頭を押し付けた。そんな彼女を優しく抱きしめながら彼もまた口を開いた。
「オレもだ。お前と共に歩む人生がこんなにも幸せなものだなんて知らなかったぞ」
そう返すと、彼女は顔を上げて微笑んだままこう続けたのだ。
「……たまには修行ばっかりじゃなくてわたしのことも気にかけて欲しいわ。気がついたらいつもリーくんの一緒にいるんだもの」
その言葉にガイは苦笑した。確かにそうだったからだ。彼の愛弟子であるリーとの修行はほぼ毎日、体術の基礎訓練に付き合っているからいつも一緒だと言っても良いほどだった。
フジは少し寂しい思いをしているのかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになる。だが、彼は素直に謝った。
「すまん」と一言だけ告げると彼女は微笑んでこう答えたのだ。
「いいわ、別に怒ってないのよ? でもたまにはわたしと一緒にいて欲しいから、それを覚えておいてね?」
そう言って彼が何か言う前にちゅ、というリップ音を鳴らしてキスをひとつ落としたフジは満足げに微笑んだのだった。
「フジ」
「なぁに?」
名前を呼ばれて振り向けば、そこには真剣な眼差しの彼がいて。その真っ直ぐな瞳に見つめられると胸がドキドキするからやめて欲しい、なんてことを彼女はいつも思う。でも、やめないんだろうなと分かっているから何も言わずに彼の言葉を待った。すると彼はゆっくりと口を開く。
「好きだ」
その言葉にフジは頬を赤らめた。そして嬉しそうに笑ってこう答えたのだ。
「……わたしもあなたが大好きよ」
そんな二人の姿を藤棚を透かす春の日差しが柔らかく包み込んでいるのだった。

春の藤棚にて


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