角都は苛ついていた。それはもう、普段は食べない甘味を食べてしまうくらいには。
相方の飛段は相変わらずまとわりついてくるし、帳簿には使い道のわからない道具の購入に当てられた経費が並んでいる。そして何より、自分の女であるマナヅルが他の人間と出掛けたことが苛立ちの原因であることを自覚せざるを得なかった。
マナヅルは身内の贔屓目を除いても非常に魅力的な少女である。ふわふわとした長い紫がかった黒髪は艶やかで、甘い香りがする。大きくぱっちりとしていて、猫のように少しつり上がった瞳は黒い真珠のようだ。淡雪のような肌に左頬の蛇の鱗が不思議な色香を添えていた。
かぁくず、なんて舌っ足らずで甘ったれた呼び方をされても嫌気がささないのは恐らくそれだけ惚れ込んでいるということだ。
長く生きてきて、恋という無駄なものに溺れたことはなかったがマナヅルは特別であったらしい。少なくとも自分が生きてきた中でそういう思いを抱いたのはマナヅルが初めてであった。
「かぁくず?」
障子の向こうから件の少女の声が聞こえて、角都は思わず煎餅を取ろうとした手を止めた。ひょこひょこ頭が動いているところを見ると、こちらの様子をうかがっているらしい。どうやら外出から戻ってきたようだ。お茶を一口飲む。一体誰と何処に出掛けていたのか問いただしたい気持ちでいっぱいだ。
「どうし……」
「ただいま、かぁくず!」
湯飲みを置いて少し障子を開けてやる。すると、顔を覗かせたのはやはりマナヅルであった。
角都が言葉を紡ぐ前にぎゅうっと抱きついてくる。寂しかったというように頬を擦り寄せてくる。そんな仕草も今は可愛らしくてたまらない。他の女ならば虫酸が走るであろうこともマナヅルならば許容できる。
自分もずいぶんと絆されたものだと自嘲した。けれど、その仕草がようやくマナヅルが帰ってきたことを教えている気がして安堵の息をついた。やはり、自分はこの女には大概甘い。飛段がこんなことをして来たら突き飛ばしているに違いない。もちろん、多少の手加減はするつもりだが。
「マナヅル、どこへ行ってきたんだ?」
「化粧品を扱ってるお店だよ!ほら、素敵な色でしょ?」
ふふん、といつも持ち歩いている藤色の巾着から取り出したのは小さな黒い円柱型の容器だ。何が入っているのか皆目検討もつかない。受け取って蓋を外してみると、中には唐紅色の紅が入っていた。
だが、マナヅルには似合わない色だと思う。選ぶとしたら桜色や撫子色といった少女らしい淡い色を選ぶと思っていた。血の色のような、赤みの強い紅を選ぶとは。角都は驚きを隠せなかった。
「ずいぶんませた色を選んだな」
「ま、ませた?」
「お前には似合わん色だと思う。だいたい誰と出掛けていたんだ」
「誰とでもいいでしょ。この色が良かったんだもの」
誰から、と問い掛けた角都から視線をそらしてマナヅルはぷくと頬を膨らませた。
角都の部屋にある鏡を覗き込み、んー、と唇を尖らせた後に紅の入った容器の蓋を開けた。薬指で紅を少量とり、唇を彩っていく。ぽってりとした形のいい匂やかな桜色の唇が唐紅色に染まっていく。その様子のなんと扇情的なことか。思わず生唾を飲み込むと、その音がやけに響いた。
まるで、少女が大人の女になっていく様子を見ているような気分になった。化粧など少し前までしなかったというのに、どこでそんな手法を覚えてきたのだ。
女が化粧をする姿など飽きるほど見てきたはずだが、やはり自分の女は特別であったらしい。他の女達と比べてられないほどにたまらなく愛しくなる。
「ふふ、どう?かぁくず」
角都の方を振り返って何とも艶やかに笑って見せる。ああ、いつもの呼び方だ。この舌足らずで甘ったれた呼び方にはすっかり慣れてしまった。飛段や他の女に呼ばれたら鳥肌ものであろうが、マナヅルに呼ばれるのはまた違った甘さがある。共に過ごすうちに耳に馴染んだ呼び方だった。
マナヅルの顔を見れば、いつもの無邪気な写輪眼がゆるりと三日月を描く。唐紅色の唇はひどく蠱惑的で、角都を誘惑しているように見える。
ゆっくりと歩いてきたマナヅルが角都の前で膝をつき、両肩に手を置く。唇がほんの少し重なって離れていく。
角都の唇に紅がついたのを見て、おかしくなったのかぷっと小さく吹き出す。その様子はどう見ても年頃の少女のものだ。
「ふふ、かぁくず…全部落として?」
そんな言葉どこで覚えてきたんだ。そもそも何だその卑猥な表情は。色々言いたいことはあるものの、全てを喉の置くに押しやった。代わりに角都はマナヅルの小さな顎を掴み、存分にその唇を味わうことにした。

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