追い忍との戦いで少々やんちゃな戦い方をしたら、剥がれかけていた爪紅が完全に剥がれてしまった。次の任務までに塗らないとリーダーに怒られてしまう。
アジトに戻った後に風呂に入り、汗を流す。髪は乾かして軽く束ね、部屋着として着ている簡素な着物を身につけた。帯を結ぶのは正直面倒臭いけれど、ちゃんとしないと後々イタチの長い説教を食らうことになってしまう。それは勘弁願いたい。
後に角都の部屋を訪ねた。相変わらずあまり物のない殺風景な部屋だ。文机に座布団、本棚、小さなタンス。角都という人を表しているような部屋に少し吹き出してしまった。一辺倒で、頑固者。一途と言えば聞こえはいいが、要するに融通がきかない。
「かぁくず!」
「帰っていたのか」
「うん、ただいま〜」
ぎゅうっと抱きついて胸いっぱいに角都の匂いを吸い込む。こうしなければ、帰ってきた気にならない。また今回の任務でも死なずに帰ってこられたと、生きた心地がしない。
角都が生きていてくれることに感謝するのだ。今回も無事に帰ってこられた、と思えるから。
「怪我はしなかったか」
「大丈夫!兄さんと一緒だもの」
すっと角都の大きな手がマナヅルの細い手をすくい上げる。少し冷えた、かさついた指先がマナヅルの小さな手を辿る。確かめるように少しの間眺めた後、角都はふと思い出したように彼女の爪の先を見つめた。マナヅルが角都の部屋を訪ねた意味を察したようだ。
「爪紅が剥がれたのか」
「うん、剥がれちゃったの。だからね、塗り直し手欲しいな」
「何でお前はいつもオレに頼むんだ」
「だって、自分じゃ上手く塗れないもの」
それにね、とマナヅルは一際甘えた声で無邪気に笑って見せた。
「塗ってもらっている間は角都に触ってもらえるから」
「少しは自分で塗れるように努力をしろ…」
呆れたようにため息を吐きながら、自分の足の間に座るように言ってくれる角都は大概甘いと思う。けれど、飛段にはしていないところを見ると、愛されていると感じる。そして、角都を独り占めできるから大好きな時間なのだ。
マナヅルが持ってきた空の文字が刻印された爪紅の容器を取る。紺碧の爪紅を筆に少し取って、マナヅルの華奢な爪に塗り始めた。
時折労るように手の甲に触れられるのが優しい。角都の手のひらはマナヅルを傷つけない。
だからこそ、思うのかもしれない。角都に相応しい女の子になりたい、と。
強く勇ましい愛しい人の隣にあるのに相応しい女の子になりたい。それはマナヅルのたしかな願いであった。
「ねぇ、かぁくず」
「何だ」
角都の方に寄りかかって声をかける。大好きな低い声が返ってきて、思わず頬が緩んだ。この声が大好きだ。マナヅルを大切にしてくれる人の声。その声が聞きたくて、何回も呼んでしまうくらいに大好きだ。
「わたしね、角都の隣にいるのに相応しい女の子になりたいの」
「どういうことだ?」
角都のもっともな問い掛けにマナヅルはんー、と唇を突き出した。角都は今のマナヅルに満足しているということか、少し不安になる。角都にはまだ相応しい自分に慣れていない気がする。
「今のわたしは角都の傍にいるには、女の子としても忍としてもまだ未熟なの。だから、角都の隣に立っても遜色ない女の子になりたいんだよ」
「……そうなのか」
マナヅルの爪に爪紅を塗りながら、角都は考え込むようにそう言った。鼓動が少し早い。武骨な角都の手が愛しい。ゆっくりと小さな爪に爪紅を塗っていく動作さえたまらなくなる。
「だが、それは今のお前を好きなオレを否定することになる」
「え?」
「今のお前でも構わんとオレは思うがな」
「……でも」
爪紅を塗る手を止めないままに角都は続ける。何かを言いかけたマナヅルを遮って、角都は話す。
「どこに連れ出しても恥ずかしくないとは思う。もう少し自分に自信をもったらどうだ」
「…うん」
「少しずつでいい、お前が理想とするお前になれば良い」
左手の爪紅を塗り終えた角都は右手を今度はすくい上げて、爪紅を塗り始める。穏やかになった心音がマナヅルをあやしてくれているようだ。
角都の手のひらを伝って体温と愛しさが伝わってくる。優しさを伝えてくれる、大好きな手のひら。
「角都は、今のわたしで良いの?」
「今のお前が好ましい。その辺の女のように媚びへつらうようにはなってほしくない」
「そうなったら、どうするの? わたしを殺す?」
「誰にも爪紅は塗らなくなるな」
にべもなく返された言葉にある種の驚きと喜びがもたらされる。長い時間を生きてきた角都なら女に爪紅の一つや二つ塗ったことがあると思っていたのだ。妙に手慣れていることもあって、マナヅルはすっかりそう思ってしまっていた。
「お前でなければこんなことはしない」
「角都…」
それは暗にマナヅルが特別であることを教えてくれていて、自然と頬が緩んだ。大切に思ってくれる人がいることはこんなにも嬉しいことなのか、と思える。
「他の男にはさせるなよ、そんなことしたら殺してやる」
「角都に殺されるなら本望かなぁ」
くすくすと笑うと角都は少し困ったような顔をしてから、いつもの顔になってそうか、と言っただけだった。この人が愛しいと思える。それだけでマナヅルは幸福だ。

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