「かぁくず」
耳に慣れ親しいんだ甘えた声に角都は目を通していた部下からの報告書から目を上げた。よく懐いた子猫のような笑みを浮かべてマナヅルは彼の剥き出しになっていた肩を指先でなぞる。蛇の肌触りによく似た冷たい指先はなめらかな感覚を持って彼の肌をすべっていく。
マナヅル、と名前を呼べば不思議そうな顔をしてからすりすりと肩口に頬擦りをする。まるでその仕草まで猫のようだと思いながら、今まで関係を持ったことのあるどの女達にも抱いたことのない感覚を覚えていた。角都にとって女とは単にその場にいてかしましく話し続けたり、彼の持つ金銭を欲しがってその身体を差し出すような者ばかりだった。だが、マナヅルはその女達の枠には収まらなかった。
うちは一族という容貌に恵まれた一族の生まれであることや各国の大名達からも欲しがられる美貌の持ち主であることを除いても角都にとってマナヅルは例外だ。暁に彼女が来たばかりの頃から忍のいろはを教え込み、忍術と体術の基礎を教え込んだのは角都だった。
「何をしている」
「……かぁくず、いい匂いする」
「湯を使ったからな」
アジトで二人きりになるのは久しぶりのことだ。こうして最後に甘えてこられたのも随分と前のことのように思える。
短く答えた角都にマナヅルはふうんと短く答えただけだったが、その眼差しはどこか遠くを見ているように角都には見えた。彼女と触れ合うのは幾月ぶりのことだろうか、と考えようとして止める。今まで誰かと過ごしてきた日々を数えたことなどなかったから。
これまでの相方は一人残らずに殺してきたし、関わってきた女のことなど顔さえ覚えていない。そこまで浮かべて今はかつてない状況に自分が置かれていることに角都は気づいた。不死身の相方と心に留まり続けている少女。それから自分の心境の変化。
「わたしもお風呂入ってこようかな」
「まだサソリ達が入っているから上がってからにした方がいい」
「そっか、じゃあもう少し後にしようかな」
角都の言葉に素直に彼女は従って、ちゅっと彼の唇に自身のそれを重ねた。もう少しだけ甘えたい、という意思表示を受けて角都はため息を一つつく。こうなってしまってはマナヅルはてこでも動かなかいことを知っていたから。
角都はじゃれつく子猫のように愛情表現をするこの娘を好ましく思っていることに今でも驚くことがある。己の半分も生きていない娘を好ましく思うことなどこの先ないと思っていたのに、と。
「イタチには最近会ったのか」
「この前一緒に任務に当たったの、兄さんと組むの久しぶりだったから張り切っちゃった」
そう言ってマナヅルはくすくすと笑う。嬉しそうに笑う彼女を見ているとつられて笑ってしまうくらいには角都はこの少女が大切だった。イタチにもこんな感情を抱く日が来るのだろうか、と考えたところで馬鹿らしいと彼は思い直す。
「わたしね、イタチ兄さんと肩を並べられるくらい強くなりたいなって思ってるの」
「お前はすでに強いだろう」
「ううん、まだまだ全然だよ。だってイタチ兄さんはもっと強くなってるもの、だからわたしも頑張らないと」
そう意気込むマナヅルを見て、角都は彼女の頭を撫でた。柔らかい髪の感触を楽しむようにゆっくりと手を動かす。くすぐったそうに目を細める姿がまた猫のようだった。
「オレは強くなる必要などないと思うがな」
「……どうして?」
「お前が強くなればなるほどオレはお前と組む機会が減るだろう」
「そんなこと言われたら何も言えなくなっちゃう……」
むぅっと唇を尖らせてからマナヅルは甘えるように彼に抱きついた。そして、すりすりとその首筋にほお擦りをする。甘えん坊だな、と呟くように言った角都の声にマナヅルはただ小さく笑っただけだった。
「かぁくず、あのね」
「何だ」
「……なんでもないよ」
言いかけて止めた彼女に角都は視線を向けたが、彼女はただ微笑むだけでそれ以上何も言わなかった。何か言いたいことがあるのだろうということは察せられたが、それを言うつもりはないようだったので角都もまた口を閉ざすことにした。
「ねぇ、角都」
「今度はどうした」
「好きだよ、大好き」
その言葉に応える代わりに角都はマナヅルの額に口づけを落とした。自分から言葉にするには彼のプライドが邪魔してしまったから。それでもマナヅルは満足そうに微笑んでいた。
きっと彼には伝わっているのだと分かっているから。
しばらく二人はそのまま抱き合っていたが、不意にマナヅルが口を開いた。それはまるで独り言のような響きを持っていて、けれどしっかりとした意志を持っていたように聞こえた。
「わたしは何があっても角都と一緒にいるからね」
「そうか」
「ずっと一緒だからね、約束だよ」
「滅多なことを言うな。いつ死ぬかわからん身だぞ」
その言葉に少し寂しそうに微笑んだものの、すぐにその表情を消してマナヅルは彼の胸元に顔を埋める。背中に回された腕に力が込められるのが分かった。その仕草に彼が不安を感じていることを悟って、安心させるように背中をぽんぽんと叩いてやる。
メンバー間が殺伐としている暁の中でマナヅルのような人間は貴重だ。何も知らない無垢な少女のように振る舞いながら、あっという間に角都の心を惹きつけていった。
初恋というものだったのかもしれない。
無邪気に笑い、子猫のようにじゃれついてくるマナヅルの表情に年甲斐もなくときめいてしまったのは嘘ではない。だからこそ、この少女は守らなければならないと心に決めたのだ。
「大丈夫だよ、わたしがついてるもん」
「そうだな……だからお前は先に死ぬな」
「……善処する」
顔を上げたマナヅルは真剣な忍の顔をしていた。柔らかで子どもっぽい少女の顔ではなく、戦地へ赴く忍の顔だ。
ふと時計を見上げて角都は風呂が開く時間だと察する。
「そろそろサソリ達が戻ってくる頃だ、その前に風呂に入ってくるといい」
「うん、わかった!」
素直に頷いて浴室へと向かう彼女を見送る。そうして角都は座椅子に深く腰掛けると天井を見上げた。
(まさかオレがあんなガキを好きになるとはな)
ぼんやりと天井を眺めながら彼は考える。これまで恋愛沙汰とは無縁の生活を送ってきて、恋や愛といった感情とは無縁だと思っていただけに驚きを禁じ得ない。しかも相手は自分の年齢の6分の1ほどの小娘で、自分とは生きてきた世界が違うのだから尚更のことだった。
しかし、一度自覚してしまえばその気持ちを否定することは難しかった。表情に出すことはないとはいえ、心の中に生まれた感情を押し殺すことは出来なかったのである。それほどまでに彼はマナヅルに惹かれていたし、彼女に対して愛情を抱いていることも事実だった。
「角都ゥ、次の任務の話リーダーから聞いたか?」
飛段が入ってきたが任務の話がどうたら言ってくるが、角都は答える気にならなかった。そんな態度を見て彼は不思議そうに首を傾げていたが、やがて何かに思い至ったのかにやりと笑ってみせた。それからずかずかと部屋に入ってくると、座っている彼を見下ろしてにやにやと笑う。
「なんだよ、お楽しみ中だったのか?」
からかうような口調で言われた言葉に舌打ちをして睨みつけてやると、飛段は肩をすくめてみせる。
「おー怖ェ、冗談だろォ?そんなに怒んなよなァ?」
「……何の用だ」
苛立ちを隠すことなく問うと、飛段はわざとらしくため息を吐いてから答えた。
「リーダーからの伝言だ、明後日には任務に着くことになったぜ!マナヅル連れてけって」
「そうか、了解した」
それだけ言って立ち上がると、さっさと出て行けと言わんばかりに手をひらひらと振る。それを見た飛段は不満そうな表情を浮かべたものの、何も言わずに部屋から出て行ったのだった。
程なくしてマナヅルが湯上がりのいい香りを漂わせて戻ってくる。
濡れた髪をタオルで拭いているのを見て、思わずその髪に触れたくなったがぐっと堪えた。これ以上触れれば歯止めが効かなくなることは明らかだったからだ。
「角都、どうかしたの?」
「いや、何でもない」
「ふふ、変なの」
くすくすと笑ってマナヅルは敷布に横になった。そんな彼女を横目に見つつ、角都も寝る支度を始める。
明日には早いから早く寝なければならないと思ったからだ。しかし、どうしても彼女のことが気になって仕方がない。まだ乾ききっていない髪だとか、少し火照っている頬だとか、無防備に晒された首筋だとか、そういう些細なことが気にかかってしまうのだ。そして、それらがひどく扇情的に見えてしまい、理性を保つのが難しくなってくる。
「ねぇ、かぁくず」
「なんだ」
「今日は一緒に寝てもいい?」
甘えるような声で言われてしまっては断ることなど出来なかった。小さくため息をついて手招きしてやると嬉しそうに微笑んでマナヅルは彼の隣に潜り込んでくる。そしてぎゅっと抱きついてきたかと思うとそのまま目を閉じた。本当に眠るつもりらしい彼女に呆れつつも、自分も目を閉じることにする。
(全く……困ったものだ)
心の中で呟いてみるが、悪い気がしないのも事実だった。むしろ心地良いとさえ思う自分がいることに気づいて苦笑するしかない。
こんな風に誰かに心惹かれるなど初めての経験だったから戸惑う部分もあったが、それもまた新鮮で楽しいと思えた。今まで感じたことのない感情が胸の中に芽生え始めていることを自覚して、自然と笑みが浮かぶ。こんな気持ちは初めてかもしれないと思いながら、彼はゆっくりと眠りに落ちていったのだった。
91歳での初恋も悪くはない。
そんなことを思いながら眠りにつく角都であった――……。


back / next