空は気持ちのいい青空が広がっていて、抜けるような色をしている。陽光を受けて鮮やかに咲き誇る花々も目を楽しませてくれる。ほおを撫でていく少し湿った風はこの時期特有の蒸し暑さをはらんで通り抜けていく。道端を彩る草木も青々と繁って、時折聞こえる蝉の鳴き声が無性に暑さを助長させる。
夏真っ盛りのこの時期はマナヅルの体力を容赦なく奪っていく。男世帯の暁で、尾獣捜索を行う者の中では紅一点である彼女は他の仲間たちに比べて小柄で体力もちからもない。
炎天下を長時間歩くことは非常に厳しくマナヅルには堪える。長い黒髪を揺らしながらじりじりと焼かれるのは不本意だし、汗だくになりながら角都の背中を追うことも大幅に体力を消費する。荒く息を吐きながらついていくので精一杯だ。
角都は身長が高くて歩幅も大きい。のしのしと歩く姿は小柄なマナヅルから見れば大きな山のように見えることもある。
「遅いぞ、マナヅル」
「だって、あっついんだもん……」
はふはふと息を整えながら足を止めて振り返ってくる角都に言い返す。それにため息をついた彼が木陰を見つけてから陽射しに目を細めた。
眩しいというよりは怒っているようにも見えて少しこわい。怒らせてはいけないことは重々承知している相手だ。いくら仲間とはいえその辺の加減を弁えなければ暁では生き残れない。
「少し休憩にするか」
「う、うん」
角都について大きな木の下に座り込む。木陰は日向よりも比較的涼しく、そよそよと風に揺れる音がいっそう涼しさを感じさせてくれる。
額に浮かんでいた汗を拭いながらふうっと一息つく。すると、となりに腰を下ろした角都が自分の膝をぽんぽんと叩いてきた。意図がわからず首を傾げているとさらにぐいっと引き寄せられる。
「どうしたの、かぁくず?」
そのまま頭を預けるように促され、素直に従うとわしわしと髪を乱すように頭を撫でられた。されるがままになっていると角都の手が止まる。そして、今度はその手がほおに触れた。
不思議そうに見上げれば目が合う。新緑の色をした彼の瞳はじっとマナヅルを見つめている。
「もう少し食って肉をつけろ、細すぎる」
「た、食べてるよ!かぁくずだって知ってるでしょ」
失礼な言葉に思わず声を上げたけれど、心配してくれているのはわかっているのであまり強く出られない。でもなんだか釈然としない。むくれていれば彼は鼻を鳴らすと再び頭を撫でてきた。
優しい手つきに胸が高鳴っていく。
この手が好きだ。大きくてかたくて優しい手のひら。幾度となくマナヅルを守ってくれたこの手が愛おしい。
もっと触れて欲しいと思うのはわがままかな?
ちらりと上目遣いで見上げると視線がかち合った。緑色の瞳が細められ、珍しく笑みを浮かべているのがわかる。
ああ、やっぱり好き。大好き。
「かぁくず」
「何だ」
「大好きだよ」
「知っている」
角都の腕に抱かれながらほおを寄せ、彼の首筋に顔を埋める。くすぐりたくなって顎のあたりに触れるとくすぐったかったのか彼が身を捩った。
「ん……?」
「雨だな」
ぽつんと鼻先に当たった滴に二人は顔を上げる。空は変わらずに青空をしていて、ふわふわと雲が少し浮かんでいるだけだ。けれどもそこから垂れてくる雫は確かに雨で、それを認識すると同時にぽつぽつと降り注いできた。
暑くて蒸れるからと外していた笠を被り顔を上げる。目の前には薄暗い森が広がり、空からは相変わらずの青空が覗いている。それがなんだか妙で少しだけ気味が悪い。
「狐の嫁入りだな」
「なぁに、それ」
ぽつりと呟いた角都にマナヅルは腕の中で聞き返す。初めて聞く言葉に興味津々だった。
角都が話してくれるものはどれもマナヅルには新しく響き、知識を深めてくれたり知らないことを教えてくれたりする。それに低く響く角都の声が大好きだ。
「知らんのか?」
「聞いたことないよ、ただお天気がいいのに雨が降ってるだけなのになんで狐が嫁入りをするの?」
「本当に何も知らないんだな」
またため息を一つつくと角都はマナヅルがいっとう好きな低く響く声で話し始めた。
「滝の国にはこんな話が残されている。……むかし、ずっと雨が降らない村が狐をいけにえにして雨を降らそうと、男前の村人が狐の娘を騙して嫁入りさせようとしたそうだ。道中、狐の娘を気に入ったその男は、娘を逃がそうとしたらしい。だが、その狐は男が好きだったので、構わないと人間の娘に化けてそのまま嫁入りをし、村人たちにいけにえにされた。すると晴れている空から大粒の雨が降ってきたらしい。……ガキの頃に聞かされた話だから眉唾物だがな」
角都の話を聞いてマナヅルはふぅんと興味なさげに返事をした。そんなのありきたりなお伽噺だとしか思えない。
けれど、切なくて素敵なお話だと思った。狐の娘は結局いけにえにされてしまったのだけど、彼女は愛する男の役に立てたのだから幸福だったと思う。
「火の国では聞いたことない話だなぁ……」
「滝隠れでは誰もが聞いて育つ話だ」
角都がぼそりと漏らした言葉を拾うと彼はなんでもないと頭を振った。
彼の過去をマナヅルはほとんど知らない。語ろうとしないということは知られたくないことだろうと思っているから無理に聞こうともしない。
「狐の嫁入りって悲しい話だね」
「人を騙してまで自分の欲を満たそうとするなって意味もありそうだがな」
悲しげに目を伏せたマナヅルに角都は口の端を上げて皮肉めいたことを言った。その様子にマナヅルは首を傾げる。
まるで自分が誰かに騙されたことがあるような言い方に聞こえたからだ。
けれどもし、もしもだ。
もし、角都がそういう経験をしていたとしたならば。それはきっととても辛いことだったに違いない。
だって彼はマナヅルにとって優しくて賢くて強い人なのだ。一番は譲れないとしても、二番目には大切な人だから。
「狐は幸せだっただろうね」
「どうしてだ」
「……だって、好きな人の役に立てるんだもの。自分の身を捧げてもその人の願いを叶えたいって気持ちよくわかるから」
「イタチか」
「うん。わたしイタチ兄さんのためなら、なんでも出来るもの」
そう言ってマナヅルは笑う。角都の肩口に顔を埋めたまま、甘えるように擦り寄ってくる少女を角都は見下ろしていた。
角都の胸に頭を押し付けるようにして、ぎゅっと腕を抱き締めてくるマナヅルは幸せだ。角都と二人でいられる時間はいつも短い。飛段がいたり、別の誰かがいたりするから二人きりということは滅多にない。だからこそ、この時間を大切にしたい。
角都が飛段と組むようになって以来、こうして一緒にいられることは少なくなったから尚更である。
今だけは自分だけのものだ。
誰のものでもない、角都とマナヅルの時間。
それが嬉しくて仕方がないのだ。
愛おしくて堪らない。
「わたしね、かぁくずになら殺されてもいいな」
「飛段とは違う。お前は殺したら本当に死ぬだろう」
角都や飛段とは違ってマナヅルの身体は脆い。首を刎ねられたり、心臓を刺されれば死ぬ。不老不死でも心臓をたくさん持っているわけでもない、ごく普通の人間の身体だ。
「だからいいんだよ。死ぬ瞬間までかぁくずのこと、見てられるもの」
角都はじっとマナヅルを見つめると、そのまま彼女の顎に手を添えて上向かせた。
視線を逸らすことなく、マナヅルは角都を見ていた。
何をするのか、どうするのか、すべてわかっていると言わんばかりににこにことしている。
それを見て取った角都は口布をずらして、マナヅルの顔に自分の顔を近づけた。互いの唇が触れ合うその瞬間、彼女はそっと目を閉じた。
「……ん」
角都はその様子を見ながら、ほんの少しだけ笑った。マナヅルにはわからなかっただろうけれど。
「かぁくずからちゅーしてもらっちやった」
「バカが……」
ふふ、と笑うその顔はやはり巷で絶世の美少女と謳われるに相応しい輝きをはらんでいる。関わった男の人生を破壊しかねない魔性だ。しかし、そんなことはもう角都にとってどうでも良いことだった。
彼はマナヅルの全てを愛してはいるが、それは恋情ではない。ただひたすらに哀れみの対象として見ているに過ぎない。
呑気に笑っているが彼女は角都が抱いている感情にはおそらく気づいていないのだ。
「かぁくずと二人って久しぶりだからすごく嬉しいの!飛段が一緒だったり、部下がいたりしてうまく甘えられなかったから」
角都の腕にしがみつくようにしてぴったりとくっついているマナヅルはご機嫌だ。鼻歌を歌い出しそうなくらいである。
角都が何も答えないので不思議そうに見上げてきたので、何でもないと告げておいた。
別に構わなかった。こうして傍にいるだけで満足しているらしいから。
「変わらんなお前は」
「どういうこと?」
「暁に来た頃からお前のことは知っているが、その時から変わらんということだ」
「……そうかなぁ」
角都の言葉の意味がわかっているようでわかっていないらしく、小首を傾げている。相変わらずだと角都は思った。
見た目は変わり美しくなったが、中身は出会った時から何一つ変わらない。
いや、変わったところもあったかもしれない。例えば角都に対する態度とか。昔はもう少し警戒心があったが、今やよく懐いた犬のようだと思う。角都はため息をつくと、腕にくっついたまま離れようとしないマナヅルを引き剥がした。
「そろそろいくぞ、雨も止んだ」
「狐は無事に愛しい人のところに行けたのかな」
「さぁな、そもそもが眉唾物だからな」
立ち上がった角都をみやってマナヅルは思う。やはり彼の元には嫁ぐことはできないのだろう。二人とも犯罪の道に進み、人の道を外れた人間だからだ。忍としての誇りを捨てたわけではないけれど、胸を張れることもしていない。
他人の命を奪い、ものを奪い、果てには仲間同士で殺し合おうとするこの組織に身を置いている以上は。
「それとも、お前はその狐の幸運を願うのか」
「願いたいよ。だって……誰にだって幸せになる権利はあるはずだもの」
マナヅルの答えに角都は鼻を鳴らす。くだらん、と言わんばかりの顔をして笠をかぶり直してから彼女の方を一瞥した。
「それはお前の美点ではあるがな」
「……だといいな」
他人というものを一切信用できなくなってしまった角都とは違い、マナヅルは暁のみんなを仲間と呼び慕う。彼女がそんな風に思えたのは、しっかり絆されてしまっているからだ。角都にもそれはわかっていた。
だから彼はそれ以上は何も言うことはなかった。
角都にとって彼女は守るべき対象であり、自分の庇護下にあって然るべき存在だと思っている。
彼女に手を出す者はたとえそれが兄のイタチであっても許さないつもりだ。
彼女は角都の所有物なのだから。
だからといって無理矢理閉じ込めたりするつもりはない。
閉じ込めた小鳥はすぐに弱り死んでしまう。手元に置いて適度に愛でている程度がちょうどいいと思っている。
「かぁくず、甘味処が見えたら入ろうよ。お腹すいちゃった」
「あまり食い過ぎるなよ、動けなくなるぞ」
「それくらいわかってるよぉ」
くすくすと笑いながらマナヅルは角都の腕にじゃれつくように自らの腕を絡める。そうして寄り添っていると角都は自分より頭一つ分ほど身長の低いマナヅルを見下ろす形になった。
「離れろ、暑い」
「かぁくずの意地悪!」
むっすりとほおを膨らませた彼女さえ愛しくなってしまって、角都は思わず口の端を上げた。
こんなことを言ったところで彼女は離れてくれないということも知っていたが、口にせずには居られなかった。
そうでもしないとまた抱き寄せてしまいそうになるから。
角都がそんな葛藤をしているとはつゆ知らず、マナヅルは角都のとなりで無邪気に笑っている。その顔はやはり可愛らしい。
いつまで経ってもこの関係が変わることはないのだろうと思うと、角都の胸にちくりと痛みが走った。
しかしこれはこれで心地よいのだ。
どうせならこのまま永遠に二人でいられたらと、叶わぬ夢を見る。
角都はとなりに居るマナヅルの手を掴むと自分の身体から引き離した。
「くっついてたら歩けんだろう」
「けち」
角都が不機嫌そうに眉根を寄せると、マナヅルは子どものようにほおをふくらませて拗ねた。そのまましばらく黙っていたが、やがて小さな声で何かを呟いた。
あまりにも小さくて聞き取れなかったのでもう一度言え、と言うと、マナヅルはなんでもないと笑って見せただけだった。マナヅルが何を言おうとしていたのか、角都には知る由もなかった。

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