その日は激しい雨が降り続いていて、マナヅルはぼんやりと縁側に座って水溜りに落ちる雨粒を見つめていた。特にすることのない退屈な日はひどく味気がなくて訳もなく部屋を片付けたりする。
雨が上がる頃に角都が帰ってくると言ってもマナヅルにはまだ実感がわかなかった。
「会いたいな、かぁくず……」
早く会いたいのに雨が止む気配は一向になくて、膝を立ててその上に顎を乗せた。もう二ヶ月以上角都に会えていない。お互いに任務であったり呼び出されたりとすれ違ってばかりだ。
最後に会ったのはまだ雪が降っていた頃。もう桜も散り終わってしまったというのに、角都には会えていない。
暁は常に人材不足で兄のイタチや角都、マナヅルもあちこちを転々として尾獣を探しているから会えなくても文句を言ってはいけないのはわかっている。でも、心はそろそろ限界だった。
「……会いたいよ……」
降り方が強くなってきた雨が縁側まで濡らすが、マナヅルは中に入る気にはなれなかった。早く角都に会いたくて、帰ってきたら真っ先にお帰りを言いたかったから。
「…………っ」
不意に涙が零れそうになったとき、玄関の方から物音がした。マナヅルは慌てて目元を拭って玄関の方に出てみる。するとそこにはびしょ濡れになった角都の姿があった。少し後ろには飛段がいてぶつぶつと文句を言っている。
「ったくよー、角都が寄り道なんかすっからびしょ濡れになっちまっただろーが!!オイ、聞いてんのか、角都!!」
「……ッ、お帰りなさい、かぁくず……」
マナヅルの声を聞いて角都は顔を向ける。いつものように何を考えているのか分かりにくい松葉色の瞳が柔らかく細められる。それはマナヅルにしか向けないとくべつな表情だった。
「賊の始末に時間がかかった。……遅くなって悪かったな」
「……ううん、いいの。早く中入らないと風邪引いちゃうよ」
角都の手を引いて中に入ると、一層雨脚が強くなった。タオルで濡れた顔や髪を拭いている二人を見て、マナヅルは安堵でいっぱいになる。今回も無事で帰ってきてくれた二人に会えて本当によかった。
「ふふ、二人ともびしょ濡れだね。お湯沸かすから、お風呂入ってきて」
「ああ、そうさせて貰おう」
「はひっでぇ目に遭ったんだぜ、オレ達!!マナヅル聞いてくれよ、角都が……」
ずぶ濡れになった上着を脱げば角都の腕に入れられた刺青が見える。彼が罪人の証であるというそれはマナヅルの蛇の鱗のように消えることはない。それを見つめるたびにマナヅルは自分の中に渦巻く感情を自覚してしまうのだ。
お湯を沸かすために一度部屋を出たマナヅルは自分の服も濡れていることに気づいて着替えることにした。この際だから角都達が入った後にお風呂を済ませてしまうのもいいかもしれない。そんなことを考えながら着替えを済ませて、お湯を沸かす準備をした。

「マナヅル」
「うん?」
声をかけられて振り返ると角都がそこにいた。どうしたのだろうと首を傾げると、彼は静かに口を開く。
「……お前はオレ達がいない間寂しくなかったか?」
「え?どうして?」
「……最近、暁のメンバーが減っているだろう。……この前サソリが抜けたしな」
角都の言葉にマナヅルは小さく息を呑む。確かにここ最近はメンバーの脱退が続いている。元々人手不足ではあったけれど、ここまで立て続けにメンバーが抜けることは今までにはなかったことだ。
「……そうだね。……でも、仕方ないよ。みんな自分の目的があるから」
「お前はそれでいいのか」
「……わたしは、大丈夫だよ。兄さんがいてくれれば、わたしは充分」
大好きなイタチがいてくれるだけでマナヅルは充分だ。確かにみんながいてくれる方が嬉しいけれど、目的を達成する上で命を落とす仲間がいてもおかしくはない。明日は我が身かもしれないのだから。
マナヅルだって明日、もしかしたらこれから敵襲を受けて死ぬかもしれない。そう考えると仲間達の死を咎めることはできなかった。
「……」
「もうすぐお湯沸くよ、かぁくず。入ってきて」
「……ああ、わかった」
角都が脱衣所に向かうのを見送ってマナヅルは台所へと戻る。まだ少しだけ雨の匂いが残るそこはどこか懐かしくて、そして切なくなる。
(かぁくず達はずっとこんな風に雨の中で生きてきたんだよね)
雨の日は好きじゃない。でも角都がいるなら悪くないかもなんて考えながらマナヅルはお茶の準備を始めた。
角都がお風呂から上がる頃には雨も上がっていて、夜空には綺麗な月が浮かんでいた。
続いて飛段が風呂場へ向かうと角都と二人きりになる。帳簿を広げた角都がちらりとマナヅルの方を見て呆れたようにため息を一つついた。
「今日はお前の相手をしないと終わらんようだな」
「い、いいの?」
「帳簿の整理よりもお前の相手の方が面倒臭いからな」
「うん、ありがとう」
角都はそれだけ言うとまた視線を手元に戻す。その言葉にマナヅルは苦笑した。
別に何か特別なことをして欲しいわけではない。ただこうして角都と一緒にいる時間が欲しかっただけだ。
角都がそばにいると落ち着くし、彼の腕に抱かれていると安心できる。それはきっと彼が自分と同じ存在だからだ。
角都の腕に刻まれた刺青を見ると胸の奥が苦しくなる。それでも角都から離れられないのは、彼も同じ気持ちでいて欲しいと思うからだ。
角都にとって自分が特別だと思える理由が欲しかった。
「かぁくず」
「なんだ」
「あのね、ぎゅーってしてほしいの」「……お前は相変わらずだな」
「それでいいの、かぁくずといたいんだもの」
「フン」
角都はそう言いながらも優しく抱きしめてくれた。大きな手が頭を撫でて、耳元に唇が触れる。
「角都……」
「……どうした」
「大好き……」
角都の首に手を回して抱きつく。この瞬間がとても幸せだった。いつか、自分も同じように誰かを愛したいと願う。それが叶わない夢だということはわかっているけれど、今だけはそんなことを忘れていたかった。
「かぁくず、あったかい……」
「……そろそろ寝るぞ。明日も早い」
「やだ……もうちょっとかぁくずといる……」
駄々をこねると角都は小さく舌打ちをする。そんな仕草すら愛おしくて、角都が自分を大切にしてくれているのだと思うと嬉しくなった。
角都が好きだ。大好きだ。そんな想いを込めて角都にぎゅうっと抱きつく。角都は困ったような顔をしていたけれど振り払うことはしなかった。
こうなるとマナヅルがテコでも動かないことを知っているのだ。
「何か変わったことはあったか」

「ううん。わたしの方は特に何も。部下が何人か砂隠れの方に向かわせただけで、わたしはいつも通りだよ」
角都に聞かれたのでマナヅルは自分の方も特に変化はなかったと答えた。サソリが抜けた穴を埋めるために新しく人を雇ったくらいだ。
角都はそれ以上は何も言わず、ただマナヅルを抱きしめたまま髪を弄ぶ。時折頬に触れる角都の手がくすぐったくてマナヅルは小さく笑みを浮かべた。
しばらくすると飛段が風呂から上がってくる。彼はマナヅル達の様子を確認するとすぐに寝室へと向かってしまった。
「ふふ、飛段に見られちゃった」
「見られても構わんだろう。飛段なら放っておけ」
「……うん」
角都の言葉にマナヅルは素直に返事をした。確かに彼に見られたところで問題はない。それに、角都との仲を冷やかされるのにも慣れてしまった。
「……かぁくず」
「なんだ」
「……ううん、やっぱりなんでもない」
マナヅルはそう言って角都に甘えるようにすり寄る。今はこうやって一緒にいられるだけでいい。
角都は優しい。その優しさに溺れてしまいそうになる時もあるけれど、マナヅルは角都から離れることはできなかった。イタチがいない間の寂しさも苦しさももどかしさも全部角都が何とかしてくれたから、どうしても離れがたくなっている。
兄のことは誰よりも大事で好きだけれど、角都のことは大好きだ。うまく言葉には出来ないけれど、角都も大切な人だった。角都の胸に顔を埋めて目を閉じる。鼓動の音を聞きながら、マナヅルは静かに眠りについた。
「……ん」
目を覚ますと部屋はまだ暗かった。となりでは角都が眠っている。その穏やかな表情にマナヅルは思わず微笑んだ。
「……まだ夜中みたい」
角都の体温を感じながらマナヅルは再び瞳を閉じた。この温もりがずっとそばにあればいいのに、なんてことを考えてしまう。
きっと角都はマナヅルが起きる頃にはもういないんだろう。飛段と一緒にここを出て行って次の任務に着くのだと思う。それはマナヅルも同じだった。
明るくなればゼツが迎えに来て新しい任務に着くことになっている。これが最後の逢瀬にならないようにミスはしたくない。
「かぁくず……」
小さく名前を呼んで彼の手を握る。指先から伝わる熱は暖かくて、心地よかった。
どうか角都が無事に帰ってきてくれますように。そんな願いを込めてもう一度彼の名前を呼んだ。
「……かぁくず」
「……どうした」
「起きてる?」
声をかけると角都は少しだけ身じろぎをしてマナヅルを見た。暗闇の中で彼の松葉色の瞳が光っているように見える。
「眠れないのか」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……なんかもったいないなぁって」
「もったいない?」
角都は眉をくいっと上げるとマナヅルは曖昧に笑ってみせた。
別に角都と過ごす時間が惜しいわけではない。ただ、角都がこうして側にいて、自分に触れてくれることが嬉しかっただけだ。
角都の身体に身を寄せると角都もマナヅルの背に腕を回してくれる。それが嬉しくて、マナヅルは彼の胸元に額を押し付けた。
心臓の音が聞こえる。角都は生きているのだと実感できる音だ。
その音をもっと聞いていたくてマナヅルは角都の腕の中に身を預けた。
「だって、かぁくずといられる時間は限られてるのに、寝なきゃいけないんだもの」
角都が何か言う前にマナヅルは早口でそう言った。角都の返事を聞くのが怖かったのだ。
角都はマナヅルの言葉に何も言わなかった。ただ黙ってマナヅルの頭を撫でている。
「わたしね、かぁくずのこと大好きだよ」
「知っている」
「だから、もし、もしもだけど、かぁくずが死んじゃったらすごく悲しいと思うの。」
「……ああ」
「だから、死なないでね」
角都が死んだら、なんて考えるだけで悲しくなる。でもそれを口に出すことはできないから代わりに角都にしがみついた。
すると彼はマナヅルの髪をゆっくりと優しく撫でてくれた。
「オレはお前を残して死んだりしない」
「……ほんとう?絶対?」
「ああ」
角都の言葉にマナヅルは顔を上げる。角都の顔を見つめれば、角都はいつものように表情を変えてはいなかった。
「オレが死ぬ時はお前も一緒に殺してやる」
「うん、絶対だからね」
角都の言葉に安心する。角都が約束を破ることはないと信じられるから、マナヅルはこの日初めて満面の笑顔を見せた。角都もそんなマナヅルを見て不器用な笑みを浮かべた。
角都は優しい。その優しさが愛おしい。
マナヅルはその気持ちを伝えるように角都の唇に自分のそれを重ね合わせた。

***

朝になるとゼツが迎えに来た。
飛段の姿はなかった。角都は今日も任務に行くのだろう。マナヅルも新しい任務に就くために支度を終えている。
黒地に赤い雲の衣と笠を身につけている。
「……大丈夫、死なないよ。わたしも」
角都の手を握りしめながら呟いた。
「また、会いに来る」
角都の言葉にマナヅルは小さく微笑む。そして彼に向かってこう言った。
「うん、待ってる。今度はもう少し一緒にいられるように頑張るから」
角都はマナヅルの頬に触れると、そのまま引き寄せて唇を重ねた。マナヅルは瞳を閉じる。
しばらくそうしていた後、角都は名残惜しげに手を引いた。
「では、行ってくる」
「いってらっしゃい」
朝靄の中を二人は歩いていく。その姿が見えなくなるまでマナヅルはじっと二人の背中を見送った。

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