「ねぇ、鬼鮫。楽園ってどこにあると思う?」
陽光を浴びながらしばしの休息を取っていたマナヅルが鮫肌の手入れをしていた鬼鮫にそう問いかけた。そよ風にふわりと揺れた紫がかった黒髪が日の光を反射してきらめいている。長いまつ毛に彩られた瞳が穏やかな色を宿していた。
季節は冬を迎えようとしていた。広葉樹はすっかり葉を落とし、鋭い針のような枝を空に向けている。少し前までは赤と黄色に覆われていた地面さえ寒々しい土の色を露出させている。昼夜の寒暖差が激しくなってきて、次第に冬の足音が聞こえてくるようだ。
常に追われる身の暁は身を隠しながら、尾獣を集めて封印しなければいけない。
鬼鮫は別用を言い渡されたイタチに代わって自分に付いてきているマナヅルのことをよく知らない。いつもイタチについて歩いているひよこのような存在だと認識している程度だ。
そんなイタチの妹が瞳をこちらに向けている。
「楽園、ですか」
「そう。かぁくずから借りた本で読んだの」
「苦しみが何もない永久の土地なんてこの地にはあるんですかねぇ」
楽園。
鬼鮫がそう言われて思い出すのはあの時マダラが示した月の眼計画だ。マナヅルは知らない鬼鮫の真の目的。本当に目指すべき争いのない美しい世界。
春の陽射しを思わせる微笑みに鬼鮫は本当にこの娘があのイタチの妹なのかと思ってしまう。常に無を貫くイタチとは血のつながらない人間だと言っても通りそうなほど、かけ離れた存在のように思えて鬼鮫は一つため息をついた。
「難しいかもしれないね。たくさんの人が集まれば、必ず意見の食い違いとか妬みとか出てくるでしょ?だから、本当の意味の楽園はないのかも」
「反対に聞きますが、マナヅルはあると思うのですが?」
「わからない。あるかもしれないし、ないかもしれない。鬼鮫なら知ってるかなぁって思って」
だから聞いてみたの、と無邪気に笑うマナヅルにまた一つため息をつく。この娘はどうしてこんなに鬼鮫を惑わすようなことを言うのだろう。まだほんの鬼鮫の半分も生きていない子どものはずなのに。
つくづく不思議な娘だと思う。霧隠れの里にいた時でさえこんな風変わりなくノ一はいなかった。
少女というにはあまりに愛くるしく美しい顔立ちに若くして伴った実力と実績。相反するような凶暴性を秘めた無邪気さ。
鬼鮫にはマナヅルは未知の生物の如く映った。ごく普通の少女、くノ一だったならば愛刀の餌食にして終わりだったろう。けれど、彼女は同じ組織に身を置く犯罪者だ。
幼いと言っていい頃から犯罪者に身を落とした事情は知らない。そもそもどんな人間かさえ詳しくないのだ。鬼鮫が知るマナヅルは内側から輝くような美しさを持ったイタチの妹。それだけだ。
「楽園はきっともうすぐやってきますよ」
「楽園が来るの?どんな風に?」
「さぁ、どうでしょうね。全ての尾獣を集めたら訪れるのかもしれませんよ」
鬼鮫がそう言えばマナヅルは思慮深げな眼差しを向けてくる。黒曜石を思わせる黒い瞳にじっと見つめられれば、イタチに見つめられている気分になった。
「尾獣を全部集めたら、楽園が訪れるの?」
「えぇ、きっと」
鬼鮫は一つ頷く。誰もが安心して暮らせる世界がきっと訪れて、この少女もまた安心して暮らせる時が来る。仲間を失って泣くことはなくなり、誰もが笑顔で穏やかに暮らせる、そんな世界が来る。マナヅルはイタチを思って生きているのだろうから、彼を失うことのない世界は理想的ではないだろうか。
「やっぱり尾獣は集めなきゃダメってことだね。残る美獣はあと三つ、私はまだノルマが終わってないから探さないと」
「見つけたら捕獲するのには手を貸しますよ」
「うん。その時はよろしくね、鬼鮫」
今はまだ時期尚早。全てを伝えるにはマナヅルはあまりにも無邪気で幼すぎる。世界の醜さを知らない無垢な子どもでは、月の眼計画には参加させられない。誰かを失った痛みを知らなければ、彼が理想とする世界に辿り着くには足りない。
「そう言えば、今回の任務は火の国にある村を一つ潰すことと聞きましたが…」
「うん、そうだよ。その村にいる人が私の部下を殺したの、あいつら余所者は嫌いだったみたい」
「そういうことでしたか。あなたの部下は幸せですね、こんなに上司に思われている」
「……だって、その人には生まれたばかりの赤ちゃんがいたの。お金を稼ぐために暁の傘下に入ったのに、それで殺されるなんて理不尽でしょ?」
誰かのために本気で怒れる人間は暁には少ないと鬼鮫は感じている。皆、自分がやりたいことをするために所属しているのだから当然と言えば当然なのだが。あまりにも自分のことに熱中し過ぎている。
イタチとマナヅルは誰かのために怒ることが出来た。それは忍として見れば多数なのだろうが、暁として見たらごく少数だった。
つくづく特異な兄妹だ。
稀有な瞳術と優れた火遁、恵まれた容姿。どこを切り取っても二人は似ているようで異なる。闇に紛れるように生きるイタチと光の中を歩いていくマナヅル。鬼鮫にとっては今までもこれからも会うことのないタイプの兄妹だと思った。
「あなた方兄妹のような人たちが増えれば楽園は成立するのかもしれませんね」
「ん、どういうこと?」
「我慢強いイタチさんのような方と、誰にも気兼ねなく話しかけるあなたのような人のことですよ」
「……それは楽園って言わないんじゃないかな。私は少なくともそうは思わない」
マナヅルはそう言ってから鬼鮫の方をしっかり見た。その目は写輪眼を呈している。
「みんなが笑顔で自然体で暮らせる場所が楽園だと私は思うの。だから、誰かが我慢する世界は楽園じゃないよ」
「…それも一理ありますね。今後の参考にしましょう」
ふむ、と鬼鮫は考える。
誰もが自然体で暮らせる世界。それは彼女の理想だ。
彼や鬼鮫が目指す世界はそうではない。誰も苦しむことなく過ごせる争いのない世界。それを目指しているのだ。
もし、計画が成功すれば彼女も鬼鮫の言葉が正解だったと認めるだろう。
固い信念を持っていたとしても、絶対に月の眼計画の邪魔はさせない。
そう口の中でつぶやいてから、鬼鮫はマナヅルの腕を引いて立ち上がらせた。
「さ、行きますよ。イタチさんが戻って来るまでに任務を終えなければ」
「もちろんだよ。あの村の人たちはだぁれも生かしておかないからね」

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