その日は朝から酷い雨で、隠れ家の前には大きな水溜りが出来ていた。マナヅルは湿気で広がる髪をまとめながら、クナイの手入れをしている。次の任務は翌日にデイダラ達と合流してから向かうことになっているから、今日一日はまるまる予定が空いている。
雨宿りでこの隠れ家を訪れた角都と飛段を迎え入れた時、マナヅルはふわりと角都から白粉が香ったのを見逃さなかった。色茶屋や遊郭などの女を買う遊びには一切興味を示さなかったのに、白粉の匂いが鼻について離れない。
普段は丁寧に撫でつけている銀髪が顔にかかっている飛段はめずらしくて、マナヅルは思わず手を伸ばして払ってやる。
「ひっでえ雨だったな…マナヅル、風呂沸かしてくれ!」
「飛段、薪の場所くらい覚えてよ…前にも私教えたよ」
「だってお前に聞けば何とかしてくれるだろ?」
ジャシン教と殺戮のことしか頭にない飛段には隠れ家の薪の場所を覚えることさえ難しいらしい。薪の場所を教え、かまどに火遁で火を入れる。湯船の水が温まるまではしばらくかかりそうだ。
それまで休むぜェ、なんて笑いながら自分の部屋に向かった飛段を見送ってマナヅルは自分の仕事に戻る。
屋根を激しく叩く雨音を聞きながら、お茶を淹れるために沸かしたやかんから湯気が立つのを眺めている。
白粉の匂いをまとう角都なんてマナヅルは知らない。いつだって血と死の匂いをまとって立っているのが角都だと思っていた。
たしかに角都だって人間なのだから溜まるものは貯まるのだろうけど。遊郭や色茶屋で女を買わなくても、自分が相手をする覚悟はいつだってあるのに。変なところで優しさを発揮しないでほしい。
ため息を一つこぼしてマナヅルは湯呑みにお湯をはって温める。急須にそれらを入れて蒸らす間も、お茶を入れている間も角都がまとった白粉の匂いのことが頭から離れなかった。香ばしいほうじ茶の匂いが立ち上っても、マナヅルの心はこの日はいつもみたいに落ち着かなかった。
「マナヅル、オレ先風呂入ってくるからよー!」
「え、あ、うん! あったまって来てね」
急に飛段に声をかけられてマナヅルは持っていた湯呑みを床に落としてしまう。がしゃんと派手に音を立てて割れた湯呑みは見るも無惨に粉々になってしまった。破片で怪我をしないように気をつけながら、マナヅルは割れた湯呑みを片付ける。溢れたお茶を拭き取って、何もなかったように振る舞えばいい。
角都が白粉の匂いをまとっているだけで、こんなに心を乱されている自分がいる。たしかに角都は好きだと言ってくれたけれど、彼の方は本気にしていなくてマナヅルのことなんて眼中にないんじゃないかと思ってしまう。
角都はもっと大人で落ち着いていて、体つきも肉感あふれる人の方がいいんじゃないか、なんてサソリが言っていたから。
「どうした、何か割ったのか」
「っ、かぁくず」
ぎしりと床板をきしませて歩いて来た角都はタオルで濡れた髪を拭いていて、やはり例の匂いをまとっている。暁の上着を脱いでいるから引き締まった身体が目の前にあって、余計にマナヅルはうろたえた。
「怪我はないか」
「大丈夫だよ。湯呑みを割っただけだもの」
破片をゴミ箱に捨ててから、マナヅルは立ち上がる。指先を破片で切ってしまったから早く絆創膏を貼りたいのに、入り口を角都が塞いでいるから出られそうにない。
「私、部屋に戻りたいの」
「その前にオレに聞くことがあるんじゃないのか」
「…どうして白粉の匂いをさせてるの?」
雨の匂いでも流せない強い白粉の匂いをさせている角都なんてマナヅルは知らない。いつも強くてお金のことばかり言うけど、面倒見がいいのが角都のはずなのに。そんな角都のことを好きになったのに。
「任務で遊女に話を聞く必要があったからだ」
「…安っぽい白粉の匂いをさせる女に?」
「経費で落とせるとはいえ、遊女と一晩を過ごすのは苦痛だったぞ。だが、飛段にさせるわけにもいかんだろう」
ねめつければ角都はマナヅルの髪をわしわしと撫でくりまわす。髪の結び目が緩むのも気にせずにずっとわしわししてくる。
言い分はわかったけれど、遊女と一晩を過ごす理由がわからない。以前のように話を聞いてから始末してしまえばよかったのに。
「女のことは始末してこなかったの?」
「始末はするなとリーダーから言われていたからな」
「…任務なら良かった。私、魅力ないのかなって思っちゃったから」
マナヅルの言葉に頭を撫でていた角都の手が止まる。
「何を言ってるんだ、お前は」
「だって、遊郭ってそういうことをする場所でしょ。他の女と遊んできた角都となんて今日は過ごしたくない」
「公私混同はしない。お前のような女が遊郭にいけば面倒臭いことになっていたのは間違い無いだろう」
「うそつき」
角都の手首を握って頭から離す。
蛇の鱗が浮いた顔の女は君が悪いということか。玉のような肌の女でなければ遊女にはなれないことは知っている。マナヅルは自分がそれに属さないことをよく知っているから。
右のに浮かんだ蛇の鱗。それを角都は美しいと言ってくれたはずなのに、その唇で他の女を美しいと言ったのだろう。
「おい、何を勘違いしているんだ。客として女に会ったわけじゃなく、依頼人として会ったんだ」
「じゃあその白粉の匂いは何でついてるの?私のことは抱きしめてくれないのに、その訳の分からない女のことは抱きしめたんでしょ…?ぎゅうってしないとそんな匂いつかないよ」
「……本当に面倒臭い女だな。これはサソリの入れ知恵だ。白粉の匂いをつけていけば遊女達は遊び人だと思って付いてくる、と言われたんだ」
「…サソリに?」
「ここに来てから嫌に飛段といたり、オレの部屋に来ないと思っていたら変な勘違いをしてやがる……本当にお前というやつは」
何が何だか分からなくてごちゃごちゃになった頭で角都を見上げる。呆れたような、怒っているような顔をしている。けれど、そんなことが気にならないほど力強く抱き寄せられた。
白粉じゃない角都の匂い。マナヅルの勘違いだったことがわかってひどく安心した。
「ごめんなさい、かぁくず…」
「お前のような面倒臭い女がいるのに、他の女を相手にしてなどいられないだろう。片手間に相手できる女でもない」
ゆっくりと離されて、マナヅルはひどく満たされた気持ちになっていた。誤解していたことも、ちゃんと角都に思われていたこともマナヅルはわかったから。
「角都も入ってこいよ、気持ちよかったぜ!」
「あぁ、今行く」
湯から上がった飛段が角都に声をかける。マナヅルの頭をぽんぽんしてからその場を離れた角都の背中を見送って、すっかり冷めてしまったお茶を入れなおすことにした。
土砂降りだった雨も上がって、明日はちゃんと任務に出発できそうだ。マナヅルは乱れた髪を結び直してから、もう一度やかんに水を入れ直した。

back / next