5.別れはきっと短い
――ずっと不思議に思っておりました。ご自身は気づいていらっしゃらなかったのですか?
走る。
走る。
――あなたは、ひどく臭う。その身から溢れる力が、……えぇ、成熟した妖力と、瑞々しい霊力とが混ざり合った、不均衡で、実に魅力的な匂いが致します。
秀一は走っていた。
「……ッ、ハァ、ハァ!」
日が落ちて、闇夜が訪れるまでの、大禍時(おうまがどき)の中を、
――あなたのような存在が傍にいて、周囲の人間は何ぞ影響はありませんでしたかな?
隣町の病院へ――両親、と呼ばれる人間の元へ、懸命に走っていた。
(言われるまで気づかなかった……馬鹿か、オレは!)
確かめたワケではない。だが思い返してみると、自身の妖力が高まるにつれて父親の体調が下降していった。
そして――。
秀一は、隣町との堺に横たわる河川に辿りついたところで足を止めた。橋の向こうから志保利が歩いてくる。ここまで必死に走ってきたというのに、目的の人物を見つけた途端、足が止まってしまった。
――免疫力のない人間にとって、あなたの力は毒そのものだ。多少の免疫力を持った人間にとっても、ある意味、毒となるでしょうな。
(毒か、そうだ……オレは毒だ)
距離にしておよそ三十メートル。根が生えてしまったかのように足が動かない。しかし、姿を隠せるものが何もないところに立っている秀一に、志保利も気がついた。
彼女の口が動く。しゅういち、と、愛おしそうに我が子の名をつむぐ。笑顔が向けられる。条件反射で秀一も笑顔を作ろうとした。しかし、いつも以上にうまくいかない。
ふいに志保利が背を向けた。声を掛けられたのか、後ろに誰かいる。
(誰だ?)
――クラマはかなりあくどい妖怪だったようで、彼に恨みを持つ者が少なくなかったとか……。
弾かれたように走り出した。
しかし――。
ゆっくりと。秀一の目の前で、ゆっくりと志保利の身体が傾いてゆく。
「母さん!」
地面に叩きつけられる寸前に抱きとめた。意識はない。顔色は、真っ青だ。秀一の肩から鞄が滑り落ちた。
「クラ、マ」
かつての名で呼ばれて勢いよく顔を上げた。先日、学校の前でぶつかった少女がいた。連続行方不明事件の被害者として、連日テレビで見かける顔だ。だが、先日は気づかなかったことに気がつき、毛を逆立てるように警戒を顕にした。
「……ただの人間じゃないな。お前は、誰だ?」
うまく隠しているが、薄らと妖気を纏っている。志保利を抱えてジリジリと後退した。作り出したナイフを握る。
「母さんに、何をした!」
「チ、カ、ラ……ヲ、モット……ヤク、ニ」
虚ろな目をした少女が秀一に手を伸ばす。底知れぬ力の片鱗を感じた。秀一は、殆んど無意識にナイフを投げていた。少女の頬を掠める。
パッパー!
小型の宅配トラックが、クラクションを鳴らして近づいてきた。
「やっぱり志保利さんと秀一くんだ! どうしたの?」
運転席の窓から顔を出したのは直樹だ。彼の姿を見て志保利と直樹が仕事で会っていた理由を理解した。彼の仕事は宅配ドライバーか。
「あれ、その子って」
直樹が少女を見て首を傾げた。
「そうだ、行方不明事件で騒がれている……あ!」
少女が橋の上から飛び降りた。手すりから身を乗り出して確認したが、その姿はない。おそらく逃げたのだろうと、この場を凌げたことに安堵した。
「ねぇ、秀一くん。あの子は」
「あとから警察に連絡します。それより直樹さん!」
「はい!」
秀一の迫力に押された直樹が、素っ頓狂な声を出した。
「母を隣町の病院へ運んでください!」
「え? あ、うん、もちろんいいよ。でも助手席に乗れるのは一人だけなんだ。悪いけど、秀一くんは後から来てくれる?」
「はい、お願いします」
救急車を呼ぶより直接連れて行った方が早い。意識のない志保利を直樹に任せた。
「……ん」
志保利を抱えた直樹が助手席に乗せる寸前、彼女の瞼が震えた。
「母さん?」
ぼんやりと目を開けた志保利は、息子の顔を認めて微笑んだ。
「……まだ、夢を見ているのかしら。お花の女の子の次は、動物の耳をつけた秀一なのね……、ワンちゃんみたいで、とっても可愛いわ。……あら、直樹くんはツノをつけて……、まるで仮装パーティ……みたいね」
ふわふわとした口調で話す志保利は、夢心地のように笑っている。
「大丈夫よ、秀一、母さんは大丈夫……泣かないで……」
それだけ言って、志保利は再び意識を失った。思わず自身の頬に手をやる。やはり濡れてなどいない。だというのに、彼女には泣いているように見えたのだろうか。
いや、それより――。
志保利を抱え直した直樹は、クルリと秀一に向き直った。
「ねぇねぇ、僕の頭にツノなんてある?」
「いえ……」
「だよねぇ、秀一くんの頭にも犬の耳なんて見えないし」
呑気な口調でハハッと笑って、コテンと首を傾げた。
「ノーマークだったよ。志保利さん、元々素質はあったようだけど、最近すごく美味しそうになったね」
急に、直樹の空気が変わった。
「ねぇ、秀一くん。荷台を開けくれるかい?」
「……なぜ?」
見た目は何も変わらない。だが、背筋を伸ばした彼からは、妙な威圧感を感じた。
「お母さんがどうなってもいいの?」
危険を察知した本能が、逃げろ、と訴えている。けれど志保利は直樹の腕の中だ。彼を警戒しながら、荷台のロックを外して扉を開いた。
「……そうか、お前が誘拐犯か」
中には両手両足を縛られた少年が転がっていた。顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、白目を向いて失神している。周りは人の姿もなければ車もない。子供である自分ひとり、どうとでも出来ると思っているのだろう。袖口に仕込んでいた植物の種を手の中に滑り込ませた。
「ところで君は、いつすり替わったんだい?」
「……何の話だ?」
「だって君も妖怪だろう? 最近は疎遠だったけど、秀一くんは幼い頃から知っている。彼はただの人間だったハズだ。なのに、今の君はとてもいい匂いがする。ねぇ、いつ変わったんだい? ちっとも気づかなかったよ」
――あなたは、ひどく臭う。
そうか、と理解する。戻りつつある力は僅かで脆弱そのもの。隠す必要すら感じなかったが、抑えずにいた妖気は他の妖怪からしたら派手なアピールに見えたらしい。そもそも、妖狐の頃と比べるのが間違っていたのかもしれないが、自分の迂闊さを笑いたくなった。
「お前も妖怪だったわけか、うまく化けたものだ」
「君は憑依するタイプかい? 僕は被るタイプさ。この男のモノもそう。綺麗に剥ぐにはコツがいるんだけど、うまく出来たときは快感なんだぜ? 剥がされた人間が、のたうち回って死んでいくのを眺めるのも楽しいしね」
「……下衆が」
「あれ、君がそれを言うの? どうせ君も人間を欲して成り代わったクチだろう? あーあ、志保利さんも可哀想だよねぇ。自身に傷を負ってまで大事に守り育てていた息子は妖怪に乗っ取られてしまった。愛する旦那は、息子に化けた妖怪の妖力に充てられて体調を崩してさ。今は入院しているようだけど、家に戻ったら同じことの繰り返しだろうね。ジワジワと無味無臭の毒を飲まされているようなものだ。可哀想に。そして、多少抵抗力のあった彼女は、自身を守る為に無意識に霊力を高めて――こうやって!」
直樹が秀一に向かって、志保利を放り投げた。
秀一は咄嗟に彼女をキャッチしたが、体格差もあり、志保利を抱えたまま扉が開いていた荷台の中へ倒れ込んだ。
「人に紛れて人を補食する妖怪に目を付けられるんだから。可哀想にね」
バタン。
荷台の扉が閉じられた。すぐに鍵がかけられる。
「秀一くん、君の皮も綺麗に剥いであげるから楽しみにしてて。さぁて、義理とはいえ親子だったんだ。最後の団欒を楽しんでね」