【幽遊白書】 終わりの日、始まりの日 | ナノ
3.狂いそこねてしまった


 翌朝。起きすぐに風呂場へ向かい、熱いシャワーを浴びた。
 シャワーをとめて姿見の前に立つ。幼い子供がジッとこちらを見ていた。仄暗く澱んだ目をした、およそ子供らしくない子供だ。何か言いたげな顔をしている。
「どうした、お前は何が言いたい?」
 鏡の中の自分に問いかけても、答えが返ってくるハズもない。自嘲を漏らして風呂場を出た。
 脱衣所で着替えていると、扉一枚隔てた廊下を志保利がスリッパを鳴らして走ってゆく。
「しゅういちー! 朝ご飯できたわよー! そろそろ起きなさーい!」
 二階に向かって声を張り上げる。
「母さん」
 ドアを開けて姿を見せると、彼女は目を丸めた。
「もう起きていたのね、まだ寝ているのかと思ったわ」
「起きなきゃ学校に遅れるよ」
「昨日も遅かったんでしょう? 中学受験まではまだ時間があるんだし、無理はしないでね」
「うん」
 今年の春から、秀一は中学受験に備えて塾通いを始めた。学校と塾と家とを往復する、勉強漬けの毎日。昨日は早く寝てしまったが、日増しに眠りにつく時間が遅くなっているのは否めない。決して勉強のせいばかりではないのだが……それでも、染み付いたルーチンワークをこなすため、起床時間になると、自然に目を覚ますようになっていた。
 つくづく子供らしくない、と自分でも思う。
 ダイニングルームに入ると味噌汁の香りがした。よそって貰ったご飯を受け取り、手を合わせる。
「お父さんのことだけど、昨日、一通りの検査が終わったの。やっぱりただ調子を崩してただけみたい。来週には退院できるそうよ」
「そう、良かった」
 秀一の父は先日から体調を崩していた。近くの病院で調べてもらったが原因は不明。悪化する一方であったので、地域で一番大きな隣町の病院に入院して検査を受けていた。
「きっと、仕事が忙しくて頑張りすぎちゃったのね。秀一も、いくらお父さんと同じところに入りたいからって、頑張りすぎちゃダメよ?」
「分かってる、無理はしないよ」
「ふふっ、普通ならもっと頑張れって言うところなんでしょうね。でも、この前の模試の結果も良かったし、秀一なら絶対合格できるわ」
「絶対合格するよ。今度の模試も自信があるんだ」
「頼もしいわね。あ、そうだ、秀一」
「何?」
「おはよう」
 言い忘れていたわね、と彼女が笑う。
「……おはよう」
 これも毎朝行われるルーチンワークの一つだ。子供らしくと心がけた笑顔は、今朝も曖昧なものとなってしまった。
 その後は朝の情報番組をBGMに、黙々と朝食を口に運んだ。
『……児童連続行方不明事件の速報です。○○市の小学生、○○○○さんが行方不明となり、捜索願が出されました。これで行方不明となった小学生は……』
「また行方不明事件? 怖いわねぇ」
『防犯カメラが捉えたこちらの男が関与した可能性が高いと、県警は公開捜査に踏み切り……』
「そうなの、早く見つかるといいわね」
 静かな秀一とは対照的に、志保利はひとり賑やかだ。まるでテレビと会話をしている。
『こちらが、これまで行方がわからなくなった少年少女たちです。彼らを見つけた方は……』
「この子たちって、秀一と同じくらいなのよね……」
 テレビを見ると、行方不明となった子供たちの写真が並べられていた。
「グッ! ゲホッゲホ、ゲホッ!」
「あら、大丈夫?」
 突然むせだした秀一に、志保利が焦って声をかけた。
「だい、じょう、ぶ。ちょっと、気管に入っちゃって、ゲホッ」
 お茶を飲み干して息を吐く。改めてテレビを見て眉を寄せた。間違いない。最初に行方不明となった少女は、昨夜、学校前でぶつかった子だ。
「ねぇ、秀一……。もしもだけど、もし、犯人に似た人を見かけても、変な気なんか起こさず、すぐに逃げるのよ?」
 続いて映し出されたのは、容疑者として指名手配されている男の写真だ。事件が多発している地域は、ここからは県をひとつまたぐ程に距離がある。だが、万が一のことを考えているのか、志保利はひどく真剣な顔で注意を促した。
「分かってる、危ないことなんかしないよ」
 好奇心旺盛な正真正銘の子供じゃあるまいし、と心の中で呟く。
「早く犯人が捕まって欲しいわ、親御さんはさぞや心配でしょうね」
 テレビから彼女に視線を移す。手の甲には未だ治りきっていない赤黒い傷跡。それはブラウスで隠された袖の中へと続いている。
 彼女はいつも、他者の心配ばかりだ。
「母さん、時間は平気?」
「もうこんな時間なのね。片付けは帰ってやるから置いておいて」
「オレはまだ時間があるから、やっておくよ」
「それじゃお願いするわね。そうそう、今日も仕事のあと、病院に寄って帰るから遅くなるわ。晩御飯は冷蔵庫に入ってるのを食べてね」
「分かった、父さんによろしく。週末はオレも行くよ」
「そうしてくれるとお父さんも喜ぶわ。秀一も学校と塾、頑張ってね」
 父親の入院以来、無理をしているのだろう。笑ってはいるが、疲れた顔をしていた。
 
「秀一くん、おはよう」
 通学途中に声を掛けられた。痩せすぎといって良いほど線の細い青年だ。上背はあるが、丸められた背中が軟弱な印象を与える。
「おはようございます、えぇと」
 幼い頃に何度か会った記憶はあるが、名が出てこない。
「直樹だよ、久しぶりだね」
「あぁ、お久しぶりです」
「仕事で志保利さんに会うたびに君の話を聞いていたから会ってる気になってたけど、ランドセルを背負ってる姿を見るのは初めてかもしれないなぁ。大きくなったね、今から学校かい?」
「はい。直樹さんは、お仕事ですか?」
 今までこの時間に会ったことが無かったのに、と首を傾げる。
「先日から職場が移動したんだ。これからはちょくちょく会うかもね」
 彼の仕事はなんだったのか、と疑問を持ったが、特によろしくするつもりが無かったため「そうですか」とだけ言うと、「秀一くんはクールになったね」と返された。赤子の頃から態度を変えたつもりはないが、普通の人間に赤子の記憶はないので黙っておいた。
「そういえば志保利さんに聞いたよ。中学受験するんだって?」
「えぇ、まぁ」
「志望校はN大付属だっけ。やっぱりお父さんと同じところだから?」
「ええ」
「そっか、頑張ってね。でも、あそこ遠いから、通学が大変そうだね」
「寮に入るつもりなので」
「ああ、だから志保利さん、ちょっと気落ちしてたのかな? 昔っから子煩悩な人だったからねぇ。いつぞやは君を庇って怪我したったって聞いたし、ホント、いいお母さんだね」
「……ええ」
 その母から離れたいのだ、とは言えなかった。
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