2.色めくは昨日ばかり
下山した少年は、施錠された学校の門を飛び越えた。勝手知ったる母校へ難なく侵入を果たし、水飲み場で汚れた顔と手を洗う。
自身を見下ろす。少々汚してしまったが許容範囲だろう。服を破らずに済んだのは幸いだった。とはいえ、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
――ウマソウ、人間の、コドモ。
もう何度となく言われ続けた言葉だ。
一度は締めた水道の蛇口を全開にして頭から水を被った。
腹立たしくて仕方がなかった。所構わず襲ってくる妖怪が。あの程度の雑魚の血を被ることになった自身の不甲斐なさが。白くて細い、小さな手も。視線の低さも――。
非力で脆弱なこの身が、腹立たしくて仕方が無かった。
「この身体になって十年……。ようやく、十年、か」
少年――南野秀一は、噛み締めるように呟いた。彼は人間だ。しかしそれは今の話であって、元は魔界の妖狐だった。ハンターに狩られる直前、妖狐の肉体を捨て、霊体の状態で人間界に来た彼は、人の受精体に乗り移ることで死をまぬがれた。
小さな手を握り締める。ジワリと妖気が滲んだ。当初の目論見通り、順調に力が戻りつつある。身体が慣れてきたのだろう――ここ数カ月はすこぶる調子がいい。魂から染み出した妖気が人の身体の妖化を促しているのだ。が、少しばかり戻ってはきたとはいえ、かつての――植物を自在に操る支配者級であったと比べれば、脆弱そのものでしかない。植物の成長を早めたり、形を弄れたりする程度だ。しかも、中途半端だ。
人の身体に宿る霊気と妖気が綯交ぜになったこの身体は、妖怪にとって格好のエサに見えるらしい。一度目をつけられると、後々まで厄介な事になるのは身に染みていた。だから今回も、追い詰められたフリをして、遺体の始末のつけやすい此処――木々が鬱蒼と生い茂る裏山へと場を移したのだ。人に紛れて生活している妖怪は自分の他にもいる。アレがそうだったのかは分からないが、念には念を入れなければならない。
(仕方がない。力が戻りきっていない今はまだ、人に紛れて生きていくしかないんだ……)
冷静になった頭でキュッと蛇口を捻る。鞄に入れていたタオルで顔を拭った。腕時計に目をやると、夜の九時を回っている。いつもの帰宅時間を遥かにオーバーしていた。
「……急ぐか」
教材が詰まった重いショルダーバッグを抱え直した。
そういえば、あの少女はどうしただろう。彼女を振り切った場所に目をやったが、既に姿はなかった。おそらく帰ったのだ、と結論を付けて踵を返した。
タッタッタ、タッタッタカ! タッタタカタ……
(なんだ……?)
暗闇の向こうからやけに軽快なリズムが近づいている。
「やぁやぁ、坊ちゃん」
闇の中から、ひょいっと奇妙な男が飛び出してきた。でっぷりと腹が出たタマゴのような小男が、場違いにもタキシードを着込んでいる。
手に持ったステッキをクルリと回し、カツン! と踵を鳴らした。
ジャーン!
効果音が付きそうなポーズを見せられた秀一は、出来の悪い怪談だな、と剣呑に目をすがめた。
「こんばんは」
ハットを脱いで気取った挨拶をすると、ツルリとした頭が顕になった。
「今晩はいい夜ですな。ぶ厚い雲が垂れこめ、うるさい月も星もない、実にいい夜だ」
「なんだ、お前は」
また人をエサ呼ばわりする低俗な妖怪だろうか? それにしてもフザけた男だ。
「消されたくなければ、とっとと失せろ」
「おやおや、ヌシ殿は気ぜわしくていらっしゃる」
「ヌシ?」
「えぇ、噂好きの化生たちから、あなたがこの町の新しい主だとお聞きましてね。見抜けずにいる他所者もいるようですが……、こんなにも可愛らしい坊ちゃんです。仕方が無いのかもしれませんね、えぇ、えぇ」
「……だから、なんなんだお前は」
「申し遅れました。ワタクシ、ホウコウと申します。以後よろしくお願い致したく。さて、坊ちゃんのお名前も、お伺いしてよろしいですかな?」
「よろしくするつもりはない。二度とオレの前に姿を見せるな」
「えぇ、えぇ、ご丁寧にありがとうございます。坊ちゃんはくーるでいらっしゃいますな。しかし、短気はよくない。名は体を表すと申します。名乗りは大事ですぞ? ところで坊ちゃん」
駄目だ。コイツは話の通じない面倒なヤツだ。とゲンナリとした気分になった。
「坊ちゃんにヨメはおりますか?」
「馬鹿も休み休み言え。オレはいくつに見える」
十歳の子供に嫁があるか。
「ふぅむ、ではゲボクは? シすらいとわず力をツクす、従順なゲボクはおりますかな?」
「……話にならないな」
ポケットに忍ばせていた植物の種に妖力を流してナイフを作る。投げつければホウコウは「ギャッ!」と声を上げた。
「坊ちゃん、短気は損気ですぞ!」
「うるさい、誰が坊ちゃんだ! 失せろ!」
ナイフをもう一本投げると、ホウコウはあっという間にその場から姿を消した。腕時計を確認すると、九時半を回っている。
「チッ……」
余計な時間を食ってしまった。
焦った秀一は、自宅へ向かって駆け出した。
辿りついた真っ暗な自宅を見上げて、ホッと息を吐いた。しかし、闇の向こうから見知った気配が近づいている。急いで自宅へ駆け込んだ。階段を駆け上がり、自室に滑り込む。鞄を投げ捨て、服のまま布団への中へ潜り込んだ。
ガチャガチャ……キィ……バタン
玄関の扉が開かれた。
トン、トン、トン、トン……
階段を登ってくる足音が徐々に近づいてくる。早鐘を打つ心臓をなだめながら、ギュッと布団を握り締めた。
カチャ……
自室の扉が開かれた。
「秀一、遅くなってごめんね。おやすみ……」
母の志保利だ。彼女は狸寝入りをする息子の頭をそっと撫でたあと、静かに部屋を出て行った。気配が遠ざかってゆく。
肩から力が抜ける。布団に完全に体重を預けると、妖怪と戦った疲労が押し寄せてきた。秀一の意識は時計の振り子のように揺れ動き、じきに夢の中へと沈んでいった。