18 兄弟
本丸へ戻ると、やはりひとけはなく、雪の降り続く、静かな日本家屋が佇むばかりであった。
阿津賀志山の気温に慣れた身体がぶるりと震えた。今思えば、あちらは暖かかった。稲が刈られたばかりの田園風景が浮かんだ。
「湯を持ってきます。ここで待っていてください」
玄関先で、雅の汚れた素足に視線を落とした前田が、眉間にシワを寄せながら言った。大怪我人にそこまでさせるわけには、と断る前に、前田はサッサと行ってしまった。しかしほんの数分で、湯を張った桶と手ぬぐいを持って戻って来た。
「早いですね」
竈に火をくべてからお湯を沸かしたにしては早すぎる。驚く雅に、前田は何でもないように言った。
「屋敷は古くとも電化製品は一通り揃っています。お湯を沸かすのにそう時間はかかりませんよ」
「それは凄い……ですね」
雅のいた昭和中期、家電は高級品から生活必需品へと変わりつつあったが、国産テレビ第1号はサラリーマンの平均年収に匹敵したという記憶から、どうしても高価であるとの印象が拭えなかった。それが一通りとは。経済力に対する驚きもあったが、ある意味、骨董品とも呼べる彼が電化製品を駆使していることに、不思議な反面、些か滑稽に思えた。
「呑気なことを言ってないで、足を出してください。険しい山道を裸足で走り回ったんです。怪我はありませんか?」
前田は腰を下ろした雅の足元にしゃがみこんだ。足を取ろうと手を伸ばしてくる。慌てて引っ込めた。
「ま、前田殿、自分でできますから!」
雅の様子に前田も察したのか、顔を赤くした。
「す、すみません、女性の足に勝手に触れるなど、ぶ、不躾でした」
前田はくるりと身体を返して明後日の方を向いた。後ろ手で差し出された手ぬぐいを受け取った雅は、用意された湯に浸した。かじかんでいた手がじんとしびれた。
「申し訳ありませんが、急いでください」
なるべく音も立てず、声も押さえて欲しいと言われる。自分たちの他に誰もいないのに、と不可解に思いながらも、終わった旨を伝えると、彼は雅を連れて素早く場所を移した。
連れて来られた部屋は、今朝、目覚めた部屋だった。ここは薬研と前田、平野が共同で使っている部屋だという。
「ここに居てください。僕は戻った報告をしてきます」
報告と聞いてようやく思い至った。なぜ気づかなかったのだろう。刀剣男士がいるのだ。この本丸には報告する相手――審神者が居る。
「私も連れて行ってください。こちらの審神者殿にご挨拶を」
一時的にとはいえお世話になる身だ。挨拶は必要だと思われたし、政府に連絡を取ってもらう必要がある。刀剣男士より、彼らの主である審神者から連絡を取って貰うのが筋だろう。
そこまで考えて、ハタと気づいた。
「いえ、その前に、あなたの傷の手当をさせてください」
人の器が仮のものとはいえ、怪我を負ったままでは辛かろう。手当を申し出たが、前田は首を振った。
「手当も挨拶も結構です」
「なぜです? 挨拶はご迷惑でしたら致し方ありませんが、その傷は放っておけません。化膿してしまいます」
挨拶不要の理由も分からないが、手当が不要とはどういうことだろうか。幾分顔色が良くなっていることから、少しは体力が回復したようだが、このまま傷を放っておけば悪化すること必至だ。
「あなたは、本当に何もご存知ないのですね……」
審神者になったばかりだいう言葉を覚えていたのか、前田は少し遠い目をしてから、おもむろに自身の本体――短刀を抜いて眼前に晒した。雅は目を見張った。刀身には大きく裂傷が入り、いびつに歪曲している。よく鞘に収まっていたものだ。
「この傷は、直接人の器に負ったものもありますが、刀身の破損が現れたものです。刀身が傷つかない限りこれ以上悪化することはありませんし、人の器を治療したところで回復することはありません」
「前田殿……」
手当は不要だと言い切る彼に胸が痛くなる。破損した刀身――彼の本体は、名の通った刀匠でさえ元に戻すのは困難なほどに損傷していた。ならば、彼はこのまま――。
雅の顔を見た前田がパチパチと瞬きをした。
「あの、もしかして僕がこのまま折れてしまうと思っていますか?」
雅もパチリと瞬きをした。
「違うのですか?」
「ええ、この程度なら手入れを受ければ戻ります。……手入れを行えば、ですが」
「手入れ? 修復作業のことでしょうか。この状態から戻せるとは、この本丸にはよほど腕のいい刀匠がいらっしゃるのですね」
「あなたの思い描く刀匠とは異なると思いますが……まぁ、腕はいいですね」
「ならば早く手入れをして頂かなくては」
彼の刀身は痛ましいほどに傷ついている。そっと指を伸ばした。
「どちら様ですかな?」
刀身に触れる寸前、声を掛けられた。振り返ると、部屋の入口に、柔和な笑みを湛えた男が立っていた。澄み切った空の色を思わせる髪に、前田たちと似通った洋装。腰には太刀を刷いている。
「あなたは?」
「お初にお目に掛かります。一期一振と申します」
洗練された優雅な仕草で礼を取る彼に、雅も会釈を返す。一期一振。彼も資料に載っていた刀剣男士だ。同じく粟田口の刀だったと記憶している。
「お世話になっております。審神者の梅小路と申します」
ギョッと目を剥く前田に、ああ、そういえば彼らの前では名乗ってはいけなかったのだと思い出す。
「ハハハ、我らの前で明け透けなく名を明かすとは。梅小路さまは豪胆でいらっしゃいますな」
「……いえ、単に、右も左も分からない若輩者です」
恥ずかしくなって顔を伏せると、一期一振はハハハと朗らかに笑った。
「あの、いち兄はなぜここに?」
前田が問いかけた。
「彼女の甚大な霊力に気づかない筈がない。先だってはお迎えに上がれなかったので、今回はお迎えに参った次第だよ」
「おひとりでこちらにいらっしゃったのですか?」
「ああ、私ひとりだ。それより、私も同じ質問をしたいな。お前ひとりか? 一緒に出陣した者たちはどうした?」
「は、はい。重傷を負った僕を気遣った皆さんが、先に帰してくれました。彼女は阿津賀志山で……あの、いち兄、この方は審神者になられたばかりで、初期刀もおらず、難儀されています。政府に、連絡を取るべきです」
「阿津賀志山に? そうか、さきごろ突然気配が途絶えたのは扉を潜られたからか。お前たちが保護したのだな? ……そうだな、連絡は必要だ。私が手配しよう」
「前田藤四郎殿、一期一振殿、ありがとうございます」
一期一振は雅に向き直った。
「もしやお怪我をなさったのではありませんか? 連絡を入れる前に、私でよろしければの手当をさせて頂きましょう」
未だ薬研の上着を羽織ったままであったのでそう考えたのだろう。まさか、寝巻き姿が見苦しかったためとは言えなかった。
「お気遣いありがとうございます。怪我はありませんが、着替えを貸して頂けませんか」
一期一振は二つ返事で了承した。
「畏まりました。すぐにご用意いたします。ところで、今回のご訪問の目的をお伺いしてもよろしいですかな? 先触れは頂いていなかったように存じますが」
「はい……、私は自分の本丸へ向かう途中、時空の嵐に巻き込まれてこちらへ飛ばされてきました。突然のことでご迷惑をお掛けします。こちらの審神者殿に、ご挨拶に伺うことは可能でしょうか」
チラリと前田を見ると、彼はギュッと目をつぶっている。些か疑問を覚えたが、一期一振は神妙な顔で頷いた。
「ご苦労なされましたな。一日でも早くお戻りできるよう、我が主にご意向を伝えましょう。ご挨拶頂けるのであれば是非お願い致します。お着替えのあとでよろしいですかな?」
「助かります。よろしくお願いします」
「では客間にご案内致しますので、どうぞこちらへ。弟たちの部屋では手狭ですからな」
雅にそう述べてから、
「前田は主の元へ、私もすぐに向かうから、部屋の前で待っておくんだよ」
と、前田に指示を出した彼は、雅の目からみてもしっかりものの、頼れる兄に見えた。と同時に、刀剣にも兄弟関係があるということを知った。
人と変わらない姿、思考、情愛。勘違いしそうになる。だが、前田に見せて貰った彼の本体を思い浮かべて頭を振った。
人と変わらないように見えても、彼らは間違いなく刀剣なのだ――。