地獄の沙汰は君次第
地獄――閻魔庁閻魔大王執務室で、バターンと大きな音が轟いた。自身の執務机に倒れ込んだ閻魔大王は、第一補佐官である鬼灯にゲッソリとした顔を向けた。
「鬼灯く〜ん、もう今日はこれで終わりだよね? 最近のワシ、よく頑張ってるよね? 今日こそ布団で寝たいよう! もう疲れた! 限界!」
このところの激務ですっかり頬がこけ、目の下にクッキリとクマを作った閻魔大王の渾身のおねだりが炸裂した。これ以上働いたら死ぬ。机での仮眠なんてもう沢山だ! と、我が身かわいさのあまり、上司としてのプライドもかなぐり捨てて土下座しそうな勢いである。
「いいですよ」
「え、いいの!? 本当!?」
だが、鬼灯がアッサリ許可をくれるとは思っていなかった彼は目を丸めた。何しろ昨日、同じようにアタックして、彼の愛用の金棒で打ち返されたからだ。
「今日で3徹ですか。あなたにしてはよく頑張りました。これ以上の労働は効率が落ちて意味がありません。今日はしっかり休んでください。お疲れ様でした」
「やったー! 帰れるー!!」
閻魔大王は、ようやく激務から解放される喜びで打ち震えた。そして、鬼灯の滅多にないデレを垣間見ることができたと、いたく感激していたのだ。が、ふと思う。
「そういう君は何徹目? 君もそろそろ……って、あれ? 鬼灯君?」
デレを見せた部下も、実はもう限界だったのか。
器用にも立ったまま、しかも目を開けて。瞬間的に意識を落としてしまった部下に憐憫の情をもよおした。彼は知らなかったが、鬼灯は今日で5徹目だった。
「鬼灯様〜?」
「寝ちゃった〜?」
閻魔大王が執務室のソファに彼を寝かせていると、鬼灯の養女ともいうべき双子が姿を見せた。
「一子ちゃん、二子ちゃん、そっちの部屋に毛布があるからとってきてくれる?」
「「はーい」」
双子たちは手を取り合って駆けてゆく。ここのところ忙しかった鬼灯に構って貰えず、寂しかったのだろう。だから様子を見にきたに違いない。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろうねぇ……」
誰にも拾われることのない彼の呟きは、そのまま固い床に吸い込まれていった。
++++
漢方医学の権威で、吉兆の神獣である白澤が見つめる先には、一人の女がいた。開け放たれた扉の外で、箒を手に、せっせと掃除に勤しんでいる。初出勤の、初めて与えられた仕事ということで、大変張り切っている様が遠目にも見て取れた。
彼女は桃源郷に店を構える漢方薬局「極楽満月」に住み込みむことになった新しい従業員だ。
白澤は先日、とある事情から彼女を引き取ることになった。理由の半分以上が天敵である某ドS補佐官に対する意地だ。
そのような理由であるから、正直に言うと、彼女の存在を持て余していた。しかし、世話をすると約束したのだから無下には扱えない。
とりあえず――住む場所を提供して貰えるお礼に任せてくれ、と言われた家事をお願いした。が、一日経たずと撤回した。
たった一日で、ドジっ子は度を越すと災害だと学んでしまったからだ。
その時を思い出すと、とてもしょっぱい気分になってしまう。料理を任せればボヤを起こされ、掃除を頼めば掃除前より散らかるどころか、部屋の一部が破壊された。修理費用だけで既に結構なマイナスだ。
ひきつる笑顔で何もしなくていいいよ、と言うと、せめて店の手伝いをさせてくれと懇願された。
その時を思い出して、溜息が出た。
(上目遣いの涙攻撃って反則だよねぇ)
自他共に認める女好きの自分だから落ちたのか。いや、あれなら某ドS補佐官でも落ちるかもしれない、と思うほどの破壊力だった。
何しろ――。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。ですかねぇ」
開店作業をしていると思われた白澤が、カウンターでボーッとしている。それに気づいた桃太郎が、彼の視線の先にいた彼女を見てそう称した。
「何それ?」
「日本のことわざですよ。美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを、花にたとえて形容する言葉です。彼女、美人ですもんねぇ」
「ああ、そうだねぇ」
チラリと桃太郎に向けた視線をまた彼女に戻した。世界悪女の会のツートップ、美女の代名詞でもある妲己やリリス、清純派代表・木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)、獄卒人気ナンバーワンのお香はじめ、数々の美女とお近づきになってきた白澤であったが、彼女も負けていない。
その上、スタイルもいい。
肌もすべすべで、キメも細かそうだ。
しゃがみこんだ着物の裾から、チラチラと生足が覗いている。それがまたかなり――。
「って、ちょっと! その草は抜いちゃダメーー!!」
「は?」
白澤が血相を変えて叫んだ。隣にいた桃太郎が、驚きの声をあげる。
「え?」
店の外にいた――声を掛けられた本人も、何事かと腰を上げた。その際、掴んでいた薬草が勢いよく抜けた。
キャァァァァァァァァァアア!!
赤子の甲高い悲鳴に似た鳴き声が、音の波となって一帯を覆い尽くした。
その結果、一足先に彼女を止めようとした極楽満月の見習い薬師であるウサギたちだけでなく、比較的離れた、店内にいた白澤と桃太郎までがパタパタと倒れていった。
女は一人困惑の表情だ。店の周りを綺麗にしようと、雑草抜きやゴミ拾いをしていたつもりだったのに、綺麗になるどころか、店は死屍累々(仮)として、見るに堪えないあり様になってしまった。
彼女の手には、引き抜かれた薬草――Mandragora officinarum(マンドラゴラ オッフィキナールム)が未だ騒がしく、奇声を上げながらバタバタと暴れ続けていた。
「本当に、申し訳ありません」
女は先程から何度も謝罪を繰り返している。ようやく意識がハッキリしてきた白澤は、額に乗せられていたビチャビチャのタオルをそっと桶に戻した。寝台から身体を起こして彼女に向き直る。
「もういいよ、頭を上げて。あんな危険な薬草を店の前の花壇に植えてた僕も悪いんだし。それにしても、まさかあんなに強烈だとはねぇ……」
あれは以前、店に遊びにきたリリスに、EU地獄の土産として貰ったものだ。初対面の自己紹介で漢方に詳しい――つまり薬草や毒草に造詣が深いと言ったら、こんな植物は知っているか、と次の訪問の土産にマンドレイクの苗を持ってきてくれた。
伝承では有名だったが、扱ったことのない植物だったため、ありがたく頂いた。その後、うまく金丹をせしめられたという経緯はあるものの、成長した根には人型となって悪魔が住みつき、引き抜かれると強い悲鳴を発して聞いた者を殺してしまう。という冗談のような話に興味があったし、何より強力な精力剤や媚薬の材料になるというのは大変魅力的に思えた。だから観察しやすい店先の花壇に植えてみたのだ。
正直、話は誇張されていると思っていた。咲かせた小さな白い花はとても可愛いらしく、全くの無害だった。だからではないが、スッカリ油断していた。身をもって効果を実証した白澤は大きな溜息を吐いた。
彼女に注意していなかった自分も悪い。パッと見は、そこらに生えている雑草と大差なかったし、家屋を破壊されかけた家事で学んだ教訓から、見張っておく……もとい、見守るつもりだったのに、それを怠ったのも自分だ。
もう一度溜息を吐いた。
未だ幻聴が聞こえるようで、頭がフラフラする。あの奇声に囚われているなんてとんでもないと頭を振った。
「君は大丈夫だった?」
神獣である白澤は割と早くに復活したが、桃太郎たちは未だ床に臥せってウンウン唸っている。亡者であるので死ぬ心配はないが。
それにしても、彼女も人ではないとはいえ、全く影響がなかったのだろうか? 一瞬しか見えなかったが、結構グロテスクで気持ち悪い根だった。その点も大丈夫だったのかと尋ねた。
「私は大丈夫です。でも不思議ですね、あんなに可愛いらしい姿と声ですのに」
女はウットリとした表情をみせて、ちらっと机の上に置かれた鞠を見た。
白澤は頬を引きつらせた。実はさっきから気になっていたのだ。予備のシーツやタオルでぐるぐるに巻かれた奇妙な物体。念の為に思いっきり上下にシャカシャカ振ってから布を剥ぐと、小瓶の中に捕えられたマンドレイクが出てきた。目を回しているそれに、女は「ああっ」と心配そうな声を上げたが、白澤のマンドレイクを見下ろす虚ろな顔を見て押し黙った。
「すみません……」
と、再度すまなさそうに頭を下げる。
「これ、猿ぐつわかまして干しておくからね」
乾燥させてしまえば、もう二度と走り回ることも奇声を上げることもないだろう。女はうなだれながら頷いた。
「それにしても、お客さんが来てなくて良かったよ。あ、もしかして、僕が寝てる間に誰か来た?」
「お二人ほどいらっしゃったのですが、私では分かりませんので、勝手にお休みにさせて頂きました」
「それでいいよ。……さて、このあとどうしようかなぁ。今日はもうお店休んじゃおうかな」
と、白澤が言ったタイミングで、控えめに扉を叩く音がした。
「はい」
彼女が扉を開けると、淑やかな美女が顔を覗かせた。頭には二本の小さな黒い角と蓮の花の髪飾り、青色の口紅、二匹の蛇を帯代わりに巻いている妖艶な女性だ。
「お香ちゃん!」
白澤が嬉しそうに寝台から飛び降りた。
「お休みなのにごめんなさい。お薬を頂けないかしら?」
彼女は極楽満月の常連客だ。冷え性に困っており、定期的に白澤の処方する漢方薬を買いに来る。最近、人手不足も手伝って仕事が忙しく、やっと取れた休みで来たのだと言った彼女は少しやつれていた。
「いいよ! お香ちゃんのためならお休み返上しちゃう! ちょっと待っててね、すぐに用意するよ」
白澤は嬉々として店を開け、サービスだと言ってお香に滋養薬を渡した。
その後、お香につられるように、ポツポツと客が訪れ始め、あっという間に忙しくなった。床で唸っていた桃太郎も叩き起され、従業員総出で接客にあたった。
「いらっしゃいませ」
新従業員である彼女も、簡単な仕事――任されたのは、店のドアの開け閉めだけであったが――に精を出した。
「ありがとうございました」
笑顔で客を迎え、送り出す彼女は客たちに評判がよく、たちまち極楽満月の看板娘となっていった。
はじめは小さな雑用でさえままならなった彼女だが、商品の袋詰めや陳列、棚卸のチェックなど、少しずつ自分の出来る事をふやしていった。
そんな彼女を見て白澤は思った。もしや度を越すドジっ子も、現世の頃から全く働いた経験がなかったからではないのか、と。
彼の推測は当たった。何しろ、ある意味、彼女はお嬢さん育ちだ。根気よく、丁寧に教えていくことで、重要な仕事もまで任せられるようになった。
「神経痛に効く薬が欲しいんだね? 今作っちゃうから、ちょっと待ってて。あ、桃(タオ)タローくーん、そこの甘草(かんぞう)取ってくれるー?」
「あ、すみません、今ちょっと手が離せなくて」
「白澤様、こちらですか?」
「謝謝、ありがと!」
店は繁盛した。見目だけでなく、人あたりの良い彼女は、着実に極楽満月の一員として馴染み、なくてはならない戦力となっていった。
「零子?」
「うん、どうかな?」
「……嬉しいです。こんなによくして下さるだけじゃなく、名前まで頂けるなんて」
種族としての名前はあったが、個人としての名前を持たない彼女に『零子』と名づけたのは白澤だ。零子は喜んだ。それこそ涙を流して。これからも頑張ります、と益々彼女は張り切って働いた。
下るどころか、右肩上がりだった。白澤も、桃太郎ですら零子を引き取ったときに強く抱いた危機感を、徐々に手放しはじめた。
そのうち、白澤の生来の好色が顔を覗かせるようになった。そろそろ真剣に「僕と遊んでください」と言おうか悩みはじめる。桃太郎に相談したら、実に嫌そうに「従業員に手を出さないでくださいよ、職場環境が悪くなるじゃないですか」という想定内の回答が返ってきたが、参考にならない意見は参考にしなければいいと楽観的に、強気に考えた。
零子もまんざらではないと踏んでいる。彼女は常日頃から、白澤を恩人であり、尊敬する方だと言っているのだ。日に日に白澤に対する情が――未だ恋情未満かもしれないが――深まっていると感じていた。
こうして白澤は、マンドレイクのとき同様、再び油断し、読み間違えた。