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お昼の営業終了の少し前、最後のお客さんを見送ってから暖簾を降ろしていると、フラリと現れた客がいた。
「あれ、もう終わっちゃった?」
「まだ大丈夫ですよ。お久しぶりですね、クロロさん」
爽やかに笑う彼は、半年ほどまえから足繁く通ってくれるようになった常連さんだ。とはいえ、最近は顔を見ていなかったように思う。
すんと鼻を利かすと、ほのかに石鹸の香りがした。
「良かった、怪我はありませんね」
今日は血の匂いがしない、と言うと、彼は参ったと言わんばかりに両手を上げた。
「心配を掛けるオレが悪いかもしれないけど、料理人ってそんなに鼻が利くものだっけ? ところでBランチ、まだある?」
「ええ、ご用意しますね」
彼を店内に誘ってから支度を始める。今日のBランチは生魚が苦手な人向けに用意したバター焼きだ。熱したフライパンにバターを乗せると、ジュワッと音が立ち、香ばしい匂いが広がった。
「料理人の鼻が利くのは当然ですが、昔、ちょっとだけ傭兵の訓練を受けたことがあるんですよ。落ちこぼれでしたが」
と、鼻が利く種明かしをした。
料理のいろは叩き込まれたのは、母が住み込みで勤めていた職場のお手伝いとしてだ。そこはいわゆる傭兵を育てる学園で、学園長のご好意で身を守る訓練を受けさせて貰った。
「ジャポンの傭兵ってことは、もしかしてニンジャ?」
期待に満ちた顔をするクロロさんに苦笑する。
「言っておきますけど、口から火を吹いたり、水の上を走ったりなんて出来ませんからね?」
「えぇ、それは残念だなぁ」
ジャポンはかなりマイナーな民族だと聞いたのに、サムライ、ハラキリ、ニンジャ、ゲイシャガールの認知度が異常に高いのは不思議だ。
「まぁ、冗談はともかく。だから医療の心得があったんだね」
訓練校で学んだと言っても、護身術が使えたり、応急処置ができるというレベルでしかない。それでも助かったと思う場面が何度もあった。
「そうなんです。本当にあの時は、心底習って良かったと思いましたよ」
私たちのはじめての出会いは、仕入れの帰りにたまたま血の匂いを感じて覗いた、薄暗い路地裏だった。
悪漢に襲われたというクロロさんは、大量の血を流しながら利き腕の応急処置に苦労していた。私はつい余計なお世話を焼いた。そしておせっかいついでに食事を振舞ったら、気に入ってくれたのか、お礼だと言ってちょくちょく食べに来てくれるようになったのだ。
けれど不思議なことに、それからも彼はよく怪我を負っていた。痛みなど微塵も感じさせない平気な顔をして、服の下に大怪我を隠している。だからついつい、彼の怪我のチェックが習慣になってしまった。
「ねぇ、クロロさん、聞いてもいいですか?」
出来上がったバター焼きと、付け合せの小鉢と味噌汁を添えて差し出す。
「いいよ、何かな? いただきます」
この街では箸が使えない人も多いというのに、彼もメンチさん同様、器用に箸で魚の身をほぐしながら口に運んでいる。
「うん、やっぱりここの食事が一番だね。ヨークシンの三ツ星ホテルより美味しいよ」
彼はいつも大げさなほどに褒めてくれる。リップサービスだと分かっていても照れてしまう。
「ありがとうございます。そうだ、これ食べます?」
Aランチの茶碗蒸しが余っていたので差し出すと、彼は目をパチクリとさせた。
「もしかして、これが以前言ってたチャワンムシ?」
一口食べて「へぇ」と声を漏らした。
「なるほど、ソックリだけど全く違う。ジャポン料理は奥が深いね」
「私も教えてもらったお菓子で同じことを思いました。今日も召し上がります?」
「もちろん、頂けるかな?」
冷蔵庫で冷やしていたプリンを出すと、彼の笑顔が1.8倍くらい明るくなった気がした。
「今日は市場で分けて貰ったウコッケイの卵を使ってみたんです。以前、持ってきてくれたクモワシの卵とはまた一味違うでしょう?」
緊張気味に、どうですか? と聞いてみるも、彼は無言でスプーンを動かし続けるだけだ。食べ進めてくれるなら大丈夫だろうと、ホッと息を吐く。
「うん、余計な甘みを抑えることで卵のコクが際立っていた。上品な味に仕上がって美味しかったよ」
食べ終えた彼は、メンチさん顔負けの感想をくれた。
やはり、と確信を持つ。
「ありがとうございます。ところでクロロさん。さっき聞きかけたこと、聞いてもいいですか?」
* * *
とうとうきたかもしれない。オレは些か残念に思いながら「いいよ」と返す。
ひどく真剣な目がオレを射抜く。彼女は天然なようでいて、中々に聡いことは知っていた。
「私、訓練したと言っても、落ちこぼれのタマゴでしたが、それでも、その人の強さがなんとなく分かるんです。クロロさんはすごく強い人ですよね」
疑問ではなく、確信をもっての問いかけだ。
「そうかもね」
あくまでいつもの、団長ではないオレとしての軽い返事を返す。
「それにクロロさんがよく怪我をしているのも気になっていたんです。すごく強い人なのに」
念の使い手としてそれなりに強くはなったが、時折、相性の悪い相手に当たることもある。盗賊稼業なんてやっていると、想定外の出来事に巻き込まれることもザラだ。
「初めて会ったときのこと、覚えてますか?」
「……覚えているよ」
執念だろうか、盗品を売り払いに持ち込んだ店で、殺したハズの持ち主と対峙するという予想外の出来事に出会うこともあった。
「あの時も酷い怪我をしていましたよね」
しかも、間抜けにも新聞沙汰になってしまった。
「そうだったかな?」
彼女との出会いも予想外といえば予想外だ。彼女から足が付くかもしれないと暫く見張るハメになったのは記憶に新しい。
(でも彼女との出会いは、嬉しい誤算ってヤツだったかな?)
見張る必要がないと判断してから気が付いた。
世界広しといえ、まさかこんなところに自分好みの料理人が隠れているとは思わなかった。提供される全てが未知の民族料理ばかりだというのに、その全てがどストライクの味だったのだ。
だから試しに一番の好物を作ってもらった。レシピと材料を用意して逃げ場をなくし、無理やり作らせた自覚くらいはある。が、彼女は、予想を遥かに超えた品を作ってくれたのだ。
(……困るなぁ)
本当に困ってしまう。トップクラスの具現化能力といえど、あれだけ見事に、夢に描いた理想的なプリンを具現化できる者はいないだろう。
(シズクは論外もいいところだし……)
具現化能力者つながりでシズクを思い出し、勝手に好物を食べられたことまで思い出した。心の中でシズクに呪いをかけていると、
「……ですよね?」
「え?」
いつの間にか、彼女の話が佳境に入っていたようだ。
「ごめんごめん、君の料理はどれも美味しかったと思い出していたんだ。……惜しいな、と思って」
正体がバレたからといって殺すのは勿体無い、と心から思う。
(……盗む、か?)
人を盗むことは滅多にないが、欲しいものは奪う。盗む。そうやって生きてきたし、これからも変えるつもりはない。
ニコリと笑う。
「そんな! これからも気にせず来てください!! いくらクロロさんがハンターだからって、気にすることなんかないですよ!!」
笑った笑顔が引きつった。
「…………ハンター?」
「知り合いのハンターさんにそっくりだったので、そうかなって思ったんですが、違いましたか?」
彼女いわく、オレから感じるプレッシャーや専門的な知識と探究心、正体を隠すような行動(高値で売れるライセンスなどを目当てに、めんどくさい輩に付きまとわれることが多いハンターは、正体を隠している場合が多い)から、そのように考えたのだという。
「えーと、ちなみに何のハンターだと思ったの?」
「美食ハンターです。クロロさんが持ってきてくれたクモワシの卵は、美食ハンターくらいしかその味の価値を知らない、珍しくて希少なモノだって聞きましたから」
「…………あー、うん」
バレちゃ仕方ないなー、同業者にも内緒にしておいてね。と死にそうになる表情筋を必死に取り繕って言えば、彼女はもちろん! と力強くうなづいてくれた。
なんだかドッと疲れてしまった。
「クロロさん、小鉢の白和えが残ってますよ」
席を立とうとしたオレを彼女はやんわりと制した。
「なんだかもう食欲が……あ、ごめん、頂きます」
念も使えない一般人に毛の生えた程度の実力しかない彼女ではあるが、とある条件下の時だけ、ひどく恐ろしいと感じることがある。
出された料理を残したときだ。
「お残しは許しませんよ」
笑顔ですごむ彼女に力なく笑い返したオレは、なんとなく、これからも足繁く通うんだろうな、と思った。