ただひとつ間違いようのない事実がある 1
今日も気持ちのいいお天気だ。開店を知らせる暖簾を上げる作業は、いつも少し誇らしい。
「おはよぉ〜」
振り返ると、お得意さんが眠そうな目を擦りながら立っていた。
「おはようございます、メンチさん」
「少し早けど、お店もうやってる?」
「ええ、今日は一番手ですよ。どうぞ」
「ありがと……」
今日の彼女はひどくくたびれているようだ。席についた途端、カウンターに突っ伏してしまった。
「今日はどうしますか?」
「Aランチちょうだい」
「はい」
ぬるめのお茶を出してから「お疲れですね」と、自分の目の下に触れた。荷物の中からコンパクトを取り出したメンチさんは、目の下に出来たクマを確認して「ゲッ」と漏らした。
「コレ、ビスカで幻の魚目当てに1週間寝ずの番をした時より酷い顔だわ……」
「そんなことしてたんですか?」
「骨は折れたけど、粘った甲斐のある味だったわよ。白身なのに皮にゼラチン質があってね。まったりとした深みのある味わいと滑らかな舌触り! ああ、思い出しただけで涎が……」
「へぇ、まるで穴子みたいですね。天婦羅にして食べたら美味しそう」
「天婦羅ってこないだのBランチよね? そうか、揚げる手(料理方)もあったわね。今度やってみようかしら」
「メンチさんは本当に勤勉ですね。今回も食材探しですか? あまり無理をなさらないでくださいね」
「んー……今回はちょっと違うんだけどねぇ」
溜息を吐いた彼女は、湯呑を取ってぐいっと飲み干し、勢いよく机に叩きつけた。カンッと高い音が鳴る。
「やっぱ受けなきゃ良かった! 試験官なんてあたしの性分じゃないのよ!!」
湯呑が割れていないのを確認して、今度は少し熱めのお茶を注ぐ。
「もしかして、先日、選ばれるかもしれないと伺っていた試験官の打診があったんですか?」
こっそり教えて貰ったのだが、彼女はハンターという特殊な職に就いているらしい。プロのハンターは専門の試験に合格しなければならず、その試験官は現役のプロハンターから選ばれるのだとか。
つまりは。
「すごいじゃないですか!」
全世界にたった600人しかいないらしいが、600人もいる中から選ばれたとも言える。
「全然すごくないわよ、試験が作れないんじゃ返上しなきゃだわ……ハァ」
メンチさんは重苦しい影を背負ってうなだれてしまった。
「ずっと考えているんだけど、なかなか決まらなくてね……。ハンターはある程度の知識力も問われるから、珍しい料理を問題にしようと色々文献を調べたり、もしくは味覚から危機感を図ろうと世界各地の水を当てさせようと集めてみたりね……。ほら、僻地に行かなきゃ成らないハンターってあたしみたいな美食ハンター以外にもけっこうあるのよ。遺跡ハンターとか、幻獣ハンターもそうよね」
「へぇ、そんなハンターもあるんですね」
「手先の器用さを見るのもアリかと思ってソース・ブール・ブランを特訓したりしてね」
「え? メンチさんが特訓したんですか?」
「だって、試験管が作れなかったら見本もにならないじゃない? ……分かってるわよ、自分でもよく分かんなくなってきてるって!」
彼女が飲んでいるのはお茶のハズなのに、すっかりクダを巻きだしてしまった。
「今は考えすぎても仕方がないかもしれませんね。お待たせしました、今日のAランチです。これでも食べて元気を出してくださいな」
トレイを渡すと、メンチさんはウルッと目に涙を浮かべた。
「どうしました?」
「今ちょっと疲れてるから、あんたのオカンっぷりが余計に染みただけよ」
オカンと言われて、食堂を切り盛りしていた肝っ玉な母を思い出した。
「母の影響かもしれませんね。母も同じように食堂をやっているんです」
「お母様も料理人だったの? あら、今日のランチも変わった品ね。カラフルな魚のおにぎり? どんな味なのかしら? いっただっきまーす!」
「どうぞ召し上がれ。ええ、母も料理人なんです。私の料理はほとんど母に仕込まれたんですよ」
「ふぅん、やっぱりジャポン料理なの?」
メンチさんは一口サイズに作ったソレを、ひょいひょいと摘んでいく。
「ジャポン……に、なるんでしょうか? なにせ私、成人するまで外に出たことがなかった世間知らずでして。出身地がジャポンと呼ばれていることすら知らなかったんです」
「それじゃあ、この街に来たのはかなり思い切った行動だったのね。……あら、これ、トウフで和えてるのね、面白いわ」
と、器用に箸を使って白和えを口に運ぶ。
「独立を考えていましたから、そうでもないんです。そりゃあ奉公に上がる店に向かう途中で船が難破したときはどうしようかと思いましたが、今は念願だった自分の店を持ことが叶って……この街に来れて、良かったと思います。メンチさんにも会えましたしね」
帰る方法も、言葉すら分からない土地に流され、絶望した当時。あの頃の苦労を思い出して少し笑う。終わりよければ全て良し、とはいうが、夢が叶った今となってはいい思い出だ。
「いつも残さず食べてくださってありがとうございます。……それで、今日のランチはいかがでしたか? あら、メンチさん?」
一流の料理人である彼女に食べて貰うのはいつも緊張する。今日もアドバイスをもらうべく、背筋を伸ばして訊ねてみたのだが、彼女はプイと明後日の方へ向いてしまった。
「なんでもないの、これは涙じゃなくて心の汗なのよ……」
お絞りを差し出すと、ゴシゴシと顔を拭ってこちらを向いた。
「そういえば今日のメニューをまだ聞いていなかったわね、これは何て料理なの? 酢飯で出来たおにぎりは沢山の種類があって味も見た目も飽きさせなかったわね」
「今日のAランチは春を意識して色とりどりの手毬寿司にしてみました。付け合せは茶碗蒸しと春野菜の白和えです。小ぶりですが新鮮なお魚を沢山仕入れることができましたので、生で召し上がっていただこうかと思いまして」
「スシ? スシって、こないだ食べたチラシだけじゃないのね」
「ええ、沢山の種類があるんですよ。押し寿司、ばら寿司、巻き寿司、稲荷寿司……と色々ありますが、代表はやっぱり握り寿司でしょうか?」
「あ、思いだした。文献で読んだことあるわ。ニギリズシって、小さな酢飯の塊に魚を載せて握って作るのよね? シンプルだけど奇抜なアイディアの調理法で……。しかも知っている者が少ない民族料理だから、受験生の条件としてはほぼイーブンで出せる上に、少ないヒントで正解に辿り付けるから、料理を通して観察力や注意力を図れる絶好の料理かも……うん、イケる!!」
「あの、メンチさん?」
ブツブツと呟きだしたかと思ったら、カッと目を見開いて私の腕をガシリと掴んだ。
「ありがと! 今日も美味しかったわ、ご馳走様ーー!!!」
彼女は元気に走り去っていった。呆気にとられたが、元気になったののなら何よりだ。
「おそまつさまでした」
小さくなってゆく背中に手を振った。